第3話

 習字道具が無い、と気が付いたのは家に帰ってからだった。風見鶏の家に忍び込んだのを老人に見つかって、驚いて逃げ出したときに庭に放り投げてしまったに違いない。

 人の家の庭に勝手に入って忘れ物をするなんて。湊音は頭を抱える。しかも、相手は大柄で目の色も違う外国人、それだけで怖かった。


 父親や母親に相談したところで、他人の家に入り込んだことをこっぴどく叱られ、一人で取りに行けと言われるのが関の山だ。


 明後日は習字の授業がある。習字の特別指導をする前田先生は優しいが、担任の早瀬先生は怖い。習字道具を忘れたなんて言ったら、雷を落とされる。明日、どんなことがあっても白壁の洋館に行って習字道具を取り戻さなければ。


 ***


「えっ、行けないの」

 放課後、朝陽に助けを求めたが、今日は塾があるからと断られた。

「そこをどうにか」

 湊音は朝陽を拝みながら頭を下げる。

「無理だよ、塾が終わったらママが送迎に来るんだ。サボったことがバレたら外出禁止令だよ」

 朝陽にも事情がある。これ以上はお願いできない。


「大丈夫、きっと見つかるよ」

 力強く肩を叩きながら無責任な応援をする朝陽を責めることもできない。

 湊音は項垂れたまま、重い足取りで坂道を上っていく。ああ、こんなにもこの坂は長かっただろうか。風見鶏の洋館に辿りついたときには息が上がっていた。


 動悸が激しいのは坂道のせいだけではない。

 見知らぬ外国人の家に勝手に置いてきた習字道具を取り戻しに行く。昨日の好奇心はすっかり萎れて、怒られたらどうしようと不安ばかりが心に過ぎる。

 湊音は意を決し、バラの生け垣をくぐる。

 習字道具が落ちているとしたら、庭のはずだ。しかし、手入れの行き届いた芝生の上には何も見当たらない。


 どうしよう、あの外国人が怒って捨ててしまったかもしれない。そうだとしてこちらに文句を言う権利はない。湊音は庭に立ち尽くす。習字道具って、お小遣いで買えるんだろうか、考えを巡らせる。


 湊音が眉間に皺を寄せていると、あの香ばしい匂いが漂ってきた。湊音はそっとオープンテラスを覗き込んだ。

「あっ」

 思わず驚きの声を上げた。白い椅子の上に習字道具が置かれている。良かった、これで早瀬先生に怒られずに済む。湊音は足音を立てないように、椅子に近付いていく。


 突然、扉が開いて、白髪の老人が姿を現わした。

「ご、ごめんなさい。これ、ぼくのなんです」

 湊音は慌てて頭を下げる。一度でなく二度までも、勝手に家の庭に入った。それを咎められる。湊音は恐怖と緊張に足が震えている。

 老人はそんな少年をちらりと見やると、銀色のポットと菓子を乗せた白い皿をテーブルに置き、椅子に腰掛ける。


「知っているよ、まあ君もかけなさい」

 穏やかな声に、湊音はハッと顔を上げた。

 テーブルにはカップが二つ並んでいた。老人はポットから紅茶を注ぐ。美しい装飾のカップから白い湯気がふわりと立ち昇った。


「ミルクと砂糖は必要かね」

 湊音は緊張のまま頷いた。

「これはスコーンだよ。ティータイムに欠かせない」

 香ばしいビスケットの名前はスコーンだと初めて知った。老人がカップを鼻先に近づけ、優雅な仕草で香りを楽しんでいる。

 湊音も紅茶に口をつけた。独特の苦い風味は大人の味で、思わず顔を顰める。


「ミルクと砂糖は」

「あっ、忘れてた」

 老人がシュガーポットから砂糖をひとすくいして、カップに入れた。湊音はミルクを注ぐ。紅茶は優しい味に変化した。

 スコーンにはブルーベリージャムをつけて食べる。表面はカリカリで中はふわふわだ。思わず美味しい、と叫ぶと老人は穏やかな笑みを浮かべた。


「わしは以前、この家に住んでいたんだ」

「今も住んでいるんですか」

 老人は悲しそうな顔で首を振る。

「今は別の場所にいるんだ。でも、ここがわしの家だよ」

 そう言って目を細めた。庭やバラの生け垣を手入れしているのはこの老人だった。家に対する深い愛着を感じた。


「わしはオリバーだ」

「ぼくは湊音」

 湊音はオリバーと握手を交した。皺だらけの手は大きくてあったかかった。

「ミナト、ここにわしがいることは秘密だよ」

 オリバーは人指し指を口髭に当ててウインクをした。

「うん、ぼくたちだけの秘密」

 湊音は下手くそなウインクを真似て頷いた。




 

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