第2話

「はぁ、びっくりしたね」

「心臓がまだドキドキしてるよ」

 大人たちが忌避するお化け屋敷がこんなに楽しいなんて。秘密の遊び場を見つけたことに湊音と朝陽は浮かれていた。

 気がつけば日が落ちて、一番星が輝き始めている。残りの洋館の探検はまた明日にしよう、と坂道を下ろうとしたとき。


 ふと、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。食欲を刺激する甘い香りだ。

「良い匂いがする」

 湊音が鼻を鳴らして足を止めた。

「うん、するね。でもこの辺りは人が住んでいないはずだよ」

 朝陽は洋館を振り返る。不便な急勾配の坂の上に家を建てる者はなく、ここにあるのは廃墟の洋館だけのはずだ。


「見て、風見鶏だ」

 朝陽が屋根を指差す。

「動いてないね」

 屋根のてっぺんについている風見鶏は錆び付いてしまったのか、北を向いたまま止まっていた。


 匂いは坂の上の白い壁の風見鶏のある洋館から漂ってくる。興味を惹かれた二人は洋館に向かって歩いて行く。

 食欲をそそる匂いに混じって甘い香りが鼻腔をくすぐる。白壁の家の周辺には真っ赤な大輪のバラが咲き誇っていた。

 湊音はバラの生け垣から庭を覗いた。庭は他の洋館とは違って、雑草も見当たらないほど綺麗に手入れされていた。生け垣には小柄な子供が通り抜けられるほどの隙間があった。


「やめろよ湊音」

 朝陽は慌てて湊音のシャツを引っ張る。

「だって、気になるじゃん」

 湊音は背中を丸めて生け垣の茂みを抜けていく。廃墟だと聞いていた洋館に誰が住んでいるのだろうか。お化けなら見てやろう、と興味を惹かれたのだ。


 白い壁は海風に晒されてところどころ剥げて黒ずみ、ボロボロだ。張り出した出窓にはレースカーテンが引かれている。窓ガラスは他の洋館と違って綺麗に磨かれていた。ここには誰かが住んでいるのかもしれない。

「湊音、もう帰ろうよ」

「もうちょっとだけ」

 生け垣から朝陽が小声で呼んでいる。湊音はわくわくする気持ちを抑えきれず、バルコニーへ回り込んだ。


 バルコニーにはテーブルと椅子が置かれ、湯気を立てる銀色のポットとティーカップ、白い皿には焼きたてのお菓子が載っている。美味しい匂いの正体はこのお菓子だったのだ。

 ぎしっ、と床が軋む音が聞こえた。

「誰だ」

 厳めしい声のした方を振り向くと、そこに大柄な白髪の老人が立っていた。薄いブルーの大きな目に鷲鼻、顔には深い皺が刻まれているが背筋はぴんと伸びている。眉根を寄せる険しい顔を見上げて、湊音は息を飲んだ。


「ご、ごめんなさいっ」

 慌てて生け垣の抜け道に逃げ込んだ。お化け屋敷を探検していたつもりが、本当に住人がいたなんて。湊音は深入りしたことをひどく後悔した。

「早く、早くっ」

 朝陽が坂道を後退りながら手招きする。湊音は必死で生け垣をくぐり、朝陽を追いかけて坂道を転びそうになりながら駆け下りた。

 あの老人が拳を振り上げて追ってはこないだろうか、怖くて振り返ることはできない。

 夕陽は海に溶けて、空にはナイフのような月が登り始めていた。

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