月面鏡花

大上 狼酔

月面鏡花

 それは終戦直後の事であった。日本中が慌てふためき騒ぎながら復興に尽力しているのを私はよく覚えている。

 そんな私には日課があった。真夜中にふと街に出ては誰一人いない大通りを歩く事である。独りでみる星空というのは何とも見事なものであり、魂の安息の時となっていた。無論夜にうっすらと見える廃墟を見ては心が傷んだが、月明かりに照らされている間はそれが夢のような心地がした。

 今日もまた一人散歩に出たのだが、少々珍奇な出来事があったので、闇市で買った原稿用紙に綴りたいと思う。


 大通りを歩いていると一人の中年くらいの男と出くわした。ふむ、こんな夜中に人がいるのかと頭の片隅で珍しく思ったが、男の様子に違和感を覚えた。水がいっぱいに入った鉄のタライをじっと見つめてしゃがみこんでいたのだ。本来であれば、こんな気色の悪い人間に声など掛けようとも思わないが、今の私は一種の夢の中である。その男の前で仁王立ちしてこう言った。

「おい、旦那。一体鉄タライなんか見てどうしたというのかね。そんなの見てても食料は湧いてこないよ。」

「そこを退け。そしたら分かる。」

 確かに私は不審な人物として男の目に映ったに違いない。

「失敬。」

 一歩横に踏み出してのっそりと体を動かした時、男の所業の意味を理解した。そこに風情ある見事な三日月が浮かんでいたのだ。出来る事なら、こやつに座布団を一枚贈りたい。それ程までに見事な月であった。

「なんとも綺麗な三日月ではないか。」

 男は黙りこくって不機嫌そうな顔で三日月を見ている。配給によって得たであろう作業服を着ていたが、その眼は生粋の芸術家の眼のようである。三日月とそこに思いを馳せる男との構図に見惚れていると、男が重い口を開いた。

「なぁ、お前は鏡花水月という言葉を知っているか。」

「うむむ、聞いた事はあるな。意味は……すまない、朧気だ。」

「鏡に映った花には手を触れられない。水面に映った月にも触れられない。目に見えても触れられないものの例えさ。」

「成る程。良い学びになったよ。」

「夜を放浪するお前さんの感性を信じて話したい事がある。」

「なんだい?」

 男は一回深呼吸をしてから、荘厳な面持ちで語り出した。

「美とは何か、という話さ。」

「ほう。」

「鏡に映った空虚な花というものは実に見事である。では月面でそれを見た時に人は何を思うだろうか。」

「そんなの美しいと口を揃えて言うに決まっている。」

「いやはや、そんな単純な話ではないのだよ。この世に絶対的な美があるのであればお前さんのいう通りだ。ただ私は美とは相対的であると考えている。」

「清水寺は紅葉の時期に限るって話かい?そりゃそうかもしれんが、深緑に囲まれたってのもまた見事だけどな。」

「本質の話をしているのだよ。ただの情景描写ではなく、その者が何をしてきたか、誰と暮らしてきたか、どんな場面で見たのか、それが大切なのだよ。」

「こじつけがましいよ、旦那。それでも清水寺は綺麗だし、鏡の上の花もまた美しいのだよ。」

 男の言う事に一理あるがどうも納得はいかない。何よりこの男が相対的な美に拘る理由に見当がつかない。私は一縷の望みにかけて少々煽ってみた。

「あんたは自国主義者なのかい?西洋かぶれの思想が気に入らないというのか?」

「あぁ、およそお前の解釈で間違っちゃないよ。そう、美に点数を付けるような西洋思想が、欧米の輩が気に入らないのかもな……。」

 男は何処からともなく鏡と花の飾りがついたかんざしを取り出して、鏡の上に花を乗せ、鏡花を再現してみせた。月明かりに照らされて何とも言えぬ色気に満ちていた。

「ほら、たいそう麗しいではないか。事情を知らぬ通りすがりの私ですらこの良さを享受できるというものよ。」

 男はやはり芸術家や職人とも比喩できる視線でそれを見ていたが、その眼には確かな優しさが秘められていた。

「これは亡くなった妻の鏡と娘の簪だ。米国の空襲でな。決して裕福ではなかったが本当に大切にしてくれていたんだ。」

 愚かな事に、その時になってようやく私は男の手の甲の火傷に気付いたのだ。いや、更に言うのなら、背後にある心の傷にも今となって知覚できるようになった。

「それは気の毒な事だな。」

「やはり美とは相対的であるはずなんだ。……そうであるべきなんだ。」

 男は衣嚢ポケットに想い出をしまうと、再びしゃがみこんで水面の三日月をじっと眺め始めた。


 昔から「大鏡」、「今鏡」と鏡は歴史を移す象徴として表現されてきた。ならばこの男の歴史物語は「花鏡」とでも言えよう。水面が月を映すように、この男は昭和の日常茶飯事を映し出しているに違いない。

 また、この男にとって相対的な美とは自己暗示であり、欧米の価値観の否定なのだろう。西洋化の果ての戦争という現実に目を背けているのかもしれない。月面でもお前は優しく鏡花を見るはずだと否定はできたが、生憎そんな無粋な真似をするほど私は鈍い人間ではなかった。

 嗚呼、頬を撫でる夜風が涼しい。ふと夜空に思いを馳せるかの如く、空を見上げた。そこには真ん丸の満月が浮かんでいた。もう一度、鉄タライに視線を落とす。うむ、三日月である。その瞬間、引き寄せられるように男と目が合った。


 その後に私がペンを執る事は二度となかった。


「月面を映す水面みなもや花鏡」

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