武江成緒




 その住人をうしなった建物が朽ちるのは早い。

 この廃屋も例にれず、カビと土の臭いがたちこめ、瀕死の吐息をおもわせるじとついた空気の流れが這いずっている。

 懐中電灯の光のなかには次々と、棄ておかれた家具や道具が屍体のようにくずれた姿であらわれる。


 こじあけた玄関からはいちばん離れた位置にあたる、奥まった部屋。

 かつての姿を思い描くことさえできないその有様。

 壁も、床も、天井も、わが物顔にはびこり尽くしたカビとコケ、そして何かどす黒い染みにおおわれ。

 異常なくらい張りめぐらされたクモの巣ともあいまって、床に落ちている品々や、壁に崩れかかった家具の、形すらも見定めることがむずかしい。


 ただ一つの例外は、部屋の真ん中に鎮座している巨大なもの。

 無数の付属部品をまといつつも、太鼓腹をおもわせる丸い姿をごろりとさらした金属製のその物体は、いまやさびにむしばまれ、鋼の鬼のしかばねといった有様で、本来もった機能を黄泉よみがえらせるきざしも見せずにうずくまっている。


 硬質の巨体からなるべく距離を置きながら、その背後へと、明かりと視線をのぞきこませると。

 カビと染みとに黒く塗りつぶされながらも、小さなドアが壁のなかにけこんでいると見て取れた。




 地下へ、地下へとコンクリートの階段をくだり、その果てにあった第二のドアをもシャベルをふるって叩きやぶる。


 明かりも届かない亀裂から、長い時間をかけてじっくりえきった、腐肉の色をしたかおりが吹きだしてくる。


 こういう歓迎にそなえて、たしなみの紳士帽がわりに三万円で購入した防毒マスクの効果に信を託しながら、闇の中へと足を踏みいれる。




 一言でいえばその部屋は、葡萄酒地下蔵ワインセラーを思わせる、巨大な地下のだった。

 かなりの昔につくられた地下室を利用したらしいその空間。

 石積みの壁をおおい尽くそうとするように、見るからに頑丈なカシ材の棚がひしめいて。

 いまだに朽ちる気配もみせない分厚いその棚板には、巨大なガラスのびんがみっちり並べられていた。


 ワインではない。

 ワインボトルにしてはあまりに巨大すぎる。

 膝の高さを優にこえる高さの瓶たちは、胴回りもそれに劣らずどっしりと棚の中に座りこんでいる。

 瓶というよりも、ガラスでできた巨大なミルク缶とでも表現したほうがいいかも知れない。

 だがその中身はミルクではない。




 瓶の一つに懐中電灯を近づける。

 よごれ、曇り、だがまだその透明さを保っているガラスの向こうに見える中身は、どす黒く、ほのかに赤みをおびた何かだ。


 瓶の外から見ているだけでも、ねばついて、どろりとしていて。

 でもその中に白っぽい、黄色っぽいカケラが浮かんでいて。

 よくよく見れば、黒っぽくて長い繊維が混ざっているのも見えてくる。


 なにかをそのまま、巨大な巨大なミキサーにでも放りこんで。

 どろどろになり果てるまで、高速で回る巨大な刃に切り刻ませれば、こんな風になるかもしれない。


 瓶の面にはラベルと言うか、湿気とカビで変色した紙が貼られ、ボールペンで書きなぐられたような字がかろうじて判読できる。



《○○年○月○日 女 ハタチ前後 茶髪セミロング……》

《○○年○月○日 男 ○○大学大学生 黒髪……》

《○○年○月○日 女 名前ハルカ? 十代前半 小学生……》

《○○年○月○日 男 二十代? 金髪 (染め)……》



 そして、ついに見つけた。



《2013年9月11日 海ヶ崎帆夏 17歳 黒髪ロング……》



 十年前、文化祭準備で居残り、暗くなってからの帰り道の途中で行方知れずになった彼女の名。

 ダンス部の次期リーダーと目されていた彼女の友達やファンが悲嘆に暮れて騒いでも、警察はついにその行方すら見つけることができなかった。

 ここに至るまで諦めずに彼女の跡を追い続けたのは、ぼく一人だけだったのだろうか。


 大輪のひまわりのようなあの笑顔、バランスのとれたあの身体、そして溌剌とみなぎっていたあのオーラ。

 すべてがあの、階段のうえで錆びにまみれて転がっている、巨大なミキサーにかけられて、切り刻まれて混ぜられて。

 こんな地下室の瓶のなかに、十年間も人知れず、封じられてきたっていうのか。


 頭の芯から背骨にひらめく、声にもならない感情のままに、部屋にならぶ腐肉のジャムたちを薙ぎはらおうとした、その時。




 ――― うぉぉぉぉぉぉぉん……。




 低い唸りが響きわたった。


 瓶たちの無念の叫びなんかじゃない。

 無機質で冷酷な金属のあげるその唸りは、ぼくの背後、階段のうえで響いている。

 無様にかしいで死んでいた、あの太鼓腹の鋼の鬼が目を覚まして餓えに吠えれば、こんな音がするだろうか。


 莫迦な。

 この朽ち果てた廃屋でそんなことが起こったとしたら、それこそ幽鬼だ。亡霊だ。


 そう叫ぼうとした途端、コンクリートの階段を踏みしめる音がした。

 巨大ミキサーの唸りを背後に、重い足音は一歩、一歩、階段を下りてくる。

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武江成緒 @kamorun2018

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