五線譜の上の星

吉野なみ

五線譜の上の星

「無理! あんなの音出ないよ!」

 

 六時を告げる音楽がなる中、オレンジ色の空に向かってそう叫ぶと、カラスの群れが飛び去っていった。





星崎ほしざきさん、悪いんだけど、クラリネットをしてもらってもいいかしら」


 先生にそう言われたのは一週間前のこと。


 ずっとトランペットをしてきた私は、咄嗟に声を発することができなかった。


 ……え、なんで? テストの時、私が一番下手だったから? でも、中学の時から三年も練習頑張ったのに。こんなにあっさり。


 溢れ出しそうな言葉と涙を必死に飲み込んで、頷いた。頷くしかなかった。


「ごめんなさいね。木管楽器の人数が足りてなくて。ありがとう」


 大丈夫。きっとやってみたら楽しいよ。トランペットだって、大して上手くなかったんだから。潔く諦めようよ。


 そう言い聞かせて、何とか自分を納得させようとした、けど。


 クラリネットを初めて一週間。未だに私は、一度も綺麗に音が出ていなかった。


 もう嫌だ。先輩にも迷惑かけっぱなしだし。

 ずっと金管楽器をやってたのに、いきなり木管なんて無理だよ。

 こんなんじゃ、これから練習し続けても、一生音が出ないかもしれない。

 悔しさで、視界が滲む。

 私は、楽しくトランペットを吹きたくて入ったのに。

 こんな思いをするなら、いっそ部活なんて――


音羽おとはちゃん?」


 ふと、聞き覚えのある声が後ろからした。

 涙を慌てて拭い、振り返る。


「み、美楽みら先輩……」


 そこには、三年生のクラリネットの、空野美楽そらのみら先輩が立っていた。


「あ、やっぱ音羽ちゃんだ。なんかでっかい声したなーって気になって来てみたら」


 は、恥ずかしい……。


「どしたの? 悩みなら先輩に言ってみなさい」

 そう言っていたずらっぽく笑う先輩。


「……私、クラリネット、全然音出なくて……。先輩にも迷惑かけてばっかりだし、もう、やめたいなって」


 俯きながらそう言うと、先輩は「……あー」と目を伏せて呟いた。


「……私もあったなあ。そう思ってた時期」

「え! でも先輩は、めちゃくちゃ上手で……」


「ちょっと話、きいてくれる?」そう言って先輩は近くにあった公園のベンチを指さした。


「……私さ、元々トランペットやってたんだよね。小学校、中学校と」

「……え」

 私と同じ……?

「でも、高校で先生にクラリネットやってみないかって言われてさ。正直なんで? って思った。悔しかったし悲しかった。音だって、二週間くらいまともに出なかったかな? 絶対向いてないって思った」


 当時を思い出したのか、先輩は苦笑する。


「……でもね、ずっと落ち込んでてもしょうがないって思ったんだ。どうしたって状況は変わらないんだから、楽しまないと勿体無いって。で、楽しむためには上手に吹けるようになる必要があるじゃん。だから、いっぱい練習したんだ。そしたら……ニヶ月位経ったときかな? 急に綺麗な音が出るようになってさ。あの時は嬉しかったなあ」


 懐かしむように目を細める先輩。


「何でも出来るより、出来ないことがある方が楽しいと思うんだよね。だって出来ないことが出来るようになる時って、楽しいし、感動するじゃん。その感動を味わえないって勿体無くない?」


 その言葉は、爽やかな風のように、私の頭の中を吹き抜けた。


「……でも、どうしても怖いんです。それでも出来なかったら。全部、無駄になってしまったらって」


 俯いて、もごもごとそう呟く。

 こんな考え方しかできない自分が、本当に、嫌いだ。


「大丈夫だよ。無駄なことなんて、一つもない。上達してないように思えても、ちゃんと努力は積み重なってる。音楽ってそういうものだから」


 先輩は、不安を払拭するように、私の目をまっすぐ見て言った。


「音羽ちゃんはちゃんと上手くなってる。昨日より今日の方ができるようになってるよ。できるようになったことを確実にすればいい」


 そっか。今まで私は。

 できないことばかりに目を向けていたのかもしれない。


「ほら、クラ、音羽ちゃんが入ってくれるまで一人だったんだよね。だから、音羽ちゃんが入ってくれてすごく嬉しかったんだ。だから、やめないでほしいなっていうのが、私の本音です」


 先輩の笑顔が、夕日に照らされて眩しく映った。


「……先輩。ありがとうございます。おかげですごく楽になりました」


「ならよかった。なんか熱語りしちゃったけど、もうすぐいなくなる年寄りの戯言だと思ってね」


 そうだ。先輩は、夏にある定期演奏会を最後に引退してしまう。


 どうにかして、先輩に、感謝の気持ちを伝えたい。


「次の定期演奏会、絶対、最高の思い出になるようにします。先輩が、吹部に入ってよかったって胸を張って言えるくらいに」


 思わずそんな言葉が口をついて出た。


「……うん。楽しみにしてる」


 先輩はそう言って、ふわりと笑った。


 出来ないところを見るんじゃなくて。

 出来るところを、確実にするんだ。


 黄昏色の空に浮かんだ一番星に向かって私はそう誓った。


 

 そこから私は、必死に練習した。出来ないなら、努力でカバーするしかない。辛くなったら、先輩の言葉を思い出して、毎日、朝練にも、部活後の自主練にも足を運んだ。



 

 ――二ヶ月が経った頃。


「……音羽ちゃん、まじですっごい上手くなったね!」


 パート練習をしていると、先輩が驚いたようにそう言った。

 部活漬けの日々を送ったこともあり、私は、見違えるように綺麗な音が出せるようになっていた。でも。


「ありがとうございます。まあ、この八小節だけなんですけどね……」


「でもこの八小節は、誰よりも上手に吹けてるよ」


 やっぱり、曲の全部を完璧に演奏するというのは難しかった。

 だけど、一年生が唯一演奏する曲の、この八小節。今まで激しかったメロディが落ち着き、まるで黄昏時の空のような、美しく、どこか儚い音楽になる場面。クラリネットのソロ。

 ここだけは、誰よりも綺麗な音で吹きたい。

 先輩の隣で、自信をもって。

 だから、何十回、何百回、いや、何千回、練習したかもしれない。

 でもまだ、完璧だとは思わない、けど。


「一つ一つの音が、すごく丁寧で、輝いてる。想像もできないほどたくさん練習してきた人しか出せない音だ。だから大丈夫。自信もって」


 先輩はそう言って親指を立てた。


「……はい!」


 大きく頷き、私はまた、楽器に息を吹き込んだ。



 


 そして――。


 ついに演奏会当日。


「……先輩。私、今まで呼吸ってどうしてましたっけ」

 青ざめた顔でそう聞くと、「とりあえず落ち着きなって」と笑われた。


 ……駄目だ。緊張する。もし音を外してしまったら。指を間違えたら。リードミスをしてしまったら。あんなに練習を見てもらったのに、先輩の最後の舞台に泥を塗ることになったら。

 

 嫌な想像ばかりが膨らんで、横腹が痛みだした。


「大丈夫だよ。音羽ちゃんが誰よりも練習してきたってこと、私が一番知ってるから」


 先輩はそう言っていつものように笑った、けど。


 ……あ。先輩の手も、震えてる。

 そっか。先輩だって、そりゃ緊張するよね。最後だもん。

 なのに、後輩がこんなんじゃ、駄目だ。


「大丈夫です。先輩が誰よりも練習してきたこと、私が一番知ってます!」


 私の言葉に、先輩は目を見開いたあと、あははっと大きく笑った。


「そうだね。じゃあ、後は楽しもうか」



 ホールに入ると、観客席は人でいっぱいだった。

 大丈夫だ。楽しまないと、勿体無いよ。

 自分にそう言い聞かせて、先輩の方を見ると、目があった。

 先輩は微笑み、頷いた。


 曲が始まった。

 吹けないところもあるが、どうにか集中だけは切らさないように譜面を追う。

 そして、あの八小節。何度も何度も練習した所。

 連なる音符が、まるで星屑のように光って見えた時。

 世界から、自分以外の音が消えたような気がした。

 目の前に見えるのは、夕方と夜の間の空。オレンジと淡い紫を混ぜたような色。先輩と何度も一緒に見た空。

 音の粒が光となって、流れるように満ちていく。

 夕闇の中に星が煌めいたのが見えた。

 そして、私の音に重なるようにもうひとつの音が聞こえてくる。

 隣を見ると、先輩がいた。

 心から楽しそうに、笑顔を浮かべて吹いている。

 ああ、本当に楽しい。

 


 きっと私は、この瞬間のために、練習を重ねてきたんだ。


 拍手の音に、はっとして椅子から立ち上がった。

 夢から覚めたような気分でお辞儀をする。

 割れるような拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。



「音羽ちゃん! すごかった! クラのソロ! 今までで一番良かったよ!」


 演奏が終わり、控え室に入るなり同級生や先輩からそう声をかけられた。


 確かにあの時は今までにないくらい集中できていた。最高の演奏ができたと思う。


 ……やっぱり、嬉しいな。努力が認められるって。


 

 学校に戻り、帰路についたあとも頬が緩むのが止められず、にやにやしていると「音羽ちゃん」と声をかけられた。

 

「ちょっと話さない?」


 美楽先輩はそう言って公園を指さした。



「……最後のソロ、ほんと、良かったよね。もうなんかすごかった。こんな体験が出来るなら吹部に入って良かったって思えたよ」


 冗談っぽくそう言って笑う先輩。


「……楽しかった。ほんとに、楽しかったよ。ありがとう。音羽ちゃん」


 先輩の頬を、ゆっくりと、透明な涙がつたった。


 それを見て、堪えていた感情が溢れた。


「……先輩。ほんとにありがとうございます。相談に乗ってくれたり、練習を見てくれたり……」


 思いが、言葉が、涙とともに零れていく。


 「……先輩がいなくなっちゃうのはすごく寂しいです。ほんとはずっといてほしい。……けど」


 大きく息を吸った。


「精一杯楽しみます! 楽しまないと、勿体無いですから! ……だから、心配しないでください」


 そう言って私はとびきりの笑顔を浮かべた。


 先輩は、目を見開き、涙を拭って、ふわっと笑った。


「うん。楽しんで! 音羽ちゃんなら大丈夫!」


 滲む視界で空を見上げると、夕闇の中に、うっすらと星が出ていた。

 紺に塗り替わっていく空の中、煌めく星は、どこまでも美しかった。








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五線譜の上の星 吉野なみ @yoshinonami

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