Track6 フリー・フォー・オール

 「so what?」の控室に私たちが戻った時、後ろから初老の女性の声が聞こえた。


「戻って来たんやな?七緒なおに……さとる?」


振り返る。そこには「so what?」のオーナーが居た。


しかしさとるは、オーナーの方を振り返らず答える。


「ああ。“色々”あってな。

戻って来た」


「……色々?」


さとるはサックスを磨きながら答えを濁す。


「とにかく俺は店に戻ったんだ。いいだろ?」


 オーナーは腕を組んで「やれやれ」と言う。


 「so what?」のオーナーは、60歳をゆうに超えた女性だった。


白髪を団子にまとめたパンツドレスの立ち姿には上品さが漂う。しかしその眼光は鋭い。


「芸能界へのコネもある彼女の死んだ旦那はヤクザだった」……というウワサも聞いたことがあったが……私は本当かどうかは知らない。


ともかくこの街で老舗のジャズバー——「so what?」のオーナーは、界隈では名が通った人物だった。


 さとるの後ろ姿を睨んだまま彼女は続ける。


「いちおう前にも言うたけど……うちの店のハウスバンドに文句があるんなら、あんたがもっと客をたくさん呼べるようになってから言いや?

 今のあんたの客の数やったら、バンド連れて来たって一文も払えへんわ」


「……知ってる」


さとるに実力があるから大目に見てやってるんや。

 次やったら、出禁にするからな」


「……分かった」


 そしてオーナーは私の顔を見て言う。その視線はネコ科の猛獣のようだった。


七緒なおも、もうちょっとこの子の手綱たずなを握っといて貰わんと困るわ。

 アンタたち……若手の中では稼ぎ頭なんやから」


 私は目を伏せて言う。


「私に言われても……。

さとるは私の子供とかじゃ無いんですから……」


 感情が見えない表情でオーナーは続ける。


「そうなんか?

 それやったらまあ……しゃあないけど……」


 そう言った彼女の口元は、少し笑っているようにも見えた。


そしてその後オーナーは、いくつかの小言を覚に並べたあと、来た時と同じように足音も無く控室を去っていった。


 そして覚はすぐに、吐き捨てるように言う。


「……クソッ。

あの”ヘタクソドラマー”さえ、なんとかなれば……」



 さとるが言うことにも一理はあった。


覚のような勢いやノリを重視するサックスプレイヤーにとって、ドラマーは重要な存在だった。


サックスプレイヤーが熱い演奏をした時に、付いて来れるようなドラマーが居ればアドリブプレイがより白熱する。その事により覚のサックスプレイは、さらなる「高み」に向かえる可能性があった。それにはピアノでは無く……ドラムが最適だった。


しかし「so what?」の日替わりのハウスバンドには「当たり外れ」が多い。そして今日のハウスバンドの経験不足のドラマーは、明らかに「外れ」だった。


 でも……正直に言うと……私は今、安堵していた。


あのドラマーの子——金城かねしろアオイに出会わなければ、さとるは本当にライブを放り出していたに違いなかった。そうなると間違いなく私達は”出禁”になる。


 そしてこの狭い業界では、悪い噂はすぐに広まる。特に老舗のso what?であれば殊更ことさらだ。駆け出しミュージシャンの私達にとってso what?での悪い噂は、致命傷になりかね無い。


 つまりこの場所に戻って来れたのは、私たちにとって正解だったと……私は思う。


覚が、金城アオイのどこに惹かれたのかは分からないけれど……でも、覚が機嫌を取り戻しso what?に戻ってくれた時に私は、ホッと胸を撫で下ろした。


 しかし、そんな私の考えも知らず……覚はアルトサックスを見つめたまま”ありえないこと”を呟く。


「そうだ。良いことを思いついた……。

今日のライブ……あの”金城アオイ”ってやつを、ゲスト出演させたら良いんじゃないか?」


「はぁ!?!?」


 思わず大きな声を出して覚を見た。しかしサックスを見つめる彼の表情は真剣そのものだった。


 彼は続ける。


「一曲だけで良い。最後の一曲だけ……あの、アオイってやつをゲスト出演させるんだ……」


「え!?!?なんで!?!?」


「それは……俺のサックスが“ヒマラヤ”を飛び越えるためだ」


「違うわ!

 私はそんな事を聞いていない。

なんで、わざわざ金城アオイをゲスト出演させるのかって聞いてるの!!

 さっきのオーナーの話、あなた聞いていたでしょ?『覚のワガママをどうにかしろ』って言ってたじゃない?

 ただでさえオーナーの心象が悪くなってるのに、どうして、腕も素生も分からないドラマーをゲスト出演させないといけないの??」


「それは……あいつの目だ」


 覚の発言でまさに“五里霧中”になった私は、おうむ返しする。


「金城アオイの……目?」


「金城アオイのあの目は……何かやるやつの目だ。

 俺は分かる。信じろ。七緒」


「は、はぁ……?信じろって言われても……」


「とにかく俺は決めたんだ……。

 俺は今日のラストステージに、金城アオイをゲスト出演させる」


 そう言った覚は唐突に立ち上がった。その目には闘志のようなものが透けて見えた。


 唖然としたまま、でも私は聞く。


「……何をする気?」


「交渉だ。オーナーと交渉してくる。アオイを出演させるためにな」


 そして覚は出口に向かって歩きはじめる。こうなったさとるは誰にも止められない事は、私はよく知っていた。


だから私は覚悟を決めた。


「待って。私も行く」


「止めるつもりなら無駄だ」


「わかってる」


「じゃあどうして付いてくるんだ?」


「あなただけじゃ不安だからよ。オーナーと喧嘩して出禁になるのが関の山でしょ?」


 覚は顔だけこちらを向け、ニヤリと笑う。


「さすが俺のピアニストで……俺の女だ」


 しかし私はそれに反論する。


「……間違えないで。

音楽と身体を許しはても……心まで取られたつもりは無いから」


 私が真剣な顔でそう告げると、覚は大きな声で笑った。

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唯一無二のヘレン えいとら @nagatora

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