Track5 イン・ウォークド・バド
テレアポのバイトが終わり、おれがオフィスビルのエントランスを出ると、外はすでに暗かった。
くもり空の夜は暗く重く、街灯の下には家路を急ぐサラリーマン達がひしめいていた。
おれはその列に加わりながら、ピーコートの襟に首をうずめる。
「さむ……」
口から言葉を追って白い息が漏れた。
携帯電話を開くと液晶に——
[ 2002年01月15日 Wed. 18:17 ]
——という文字が浮かんだ。
つまり水曜日の今日は、おれが演奏しているジャズバー——「ヘニング」の定休日……。
こんな日はいつもなら音楽スタジオに行って2時間ほどドラムの練習をするが、今はそんな気分にはならない。
昨日のライブでの失敗とその後のマスターの言葉が、まだ心の中に刺さったままだった。ため息がもう一度、白い息を作る。
たしかに身体は疲れてはいるし寝不足だが……だからと言って誰もいないボロアパートの一室に帰っても憂鬱なだけだった。
「ひとまず……吉野家かな?」
そう思ったおれは、いつもの地下鉄の駅を通り過ごす。バックパックからmp3プレイヤーを取り出し、ビル・エヴァンストリオを聴きながら歓楽街のほうに向かった。
胃の中に牛丼を押し込んだおれは、あても無く歓楽街を歩いていた。
「そういえば、この辺りには来たことが無かった」
広くは無い歩道には、ところせましと色とりどりの看板が並ぶ。
居酒屋チェーンやスナック、風俗店までもちらほら点在する。古くなった雑居ビルに、濃い化粧のホステスが入っていく。客引きの男がふらふらと数人立っている。
そんな目の前の通りからは
一つの看板が目に飛び込んでくる。
『1F Live Bar so what ?』
思わず疑問を口にする。
「マイルスの曲のソー・ホワットなら……クエッションマークは付かないはずだよな……」
その店を見る。
古くなった打ちっ放しのコンクリートに、すりガラスの窓が4つ付いている。入口はモスグリーンの木製の扉で、そこに「OPEN」の札がぶら下がっていた。
外観から憶測すると、目の前の「so what ?」は、俺がいつも通う「ヘニング」の倍ほどはありそうだった。
「そういえば、他のジャズバーに行くのは久しぶりかもな」
そう思うと、自然と入口の扉に足が向く。
そして「so what ?」のモスグリーンの扉に手を掛けようとした瞬間、それは突然開いた。
風圧すら感じるあまりの勢いに、俺は大きく後ずさった。
中から悲痛な女の声が聞こえる。
「もうやめて!!!」
「ああ!!やめてやるよ!!俺がバンドをな!!」
ボサボサのロン毛の男が飛び出してきた。
そして……
「どけ!!!」
……とおれを突き飛ばす。
不意を突かれたおれは何の抵抗も出来ず尻もちをついた。アスファルトでしたたかに尻を打った。
理不尽な暴力にキレる。
「おまえなにを!?」
そう叫んだおれは顔を上げて前を睨んだが……しかし、おれを突き飛ばした男は居なかった。
横に振り向く。
ボサボサのロン毛の20代の男がそこに居た。
そしてソイツは、俺のバックパックについたチューニングキー(※ドラムセットの調整に使う鍵のようなもの)を見て言う。
「お前……ドラマーか?」
怒声のままおれは聞き返す。
「はぁ?」
グレイのロングコートに身を包んだ体は小柄。身長は俺よりずっと低く、160cmも無いかもしれない。しかしソイツの特徴は、何よりもその目付きだった。
焦点が合わないような不安定ながら……しかし、真っ直ぐと強い目付き……。
その目が、おれのバックパックに吊り下げられたチューニングキーに固定されている。
微動だにしない瞳の色素は薄くグレイに近い。手入れされていないクセ毛から見えるアゴの線は、どこか繊細だった。
美男子とは言えないが……しかし男の俺でも魅入られるような魅力がある顔だった。
女の声がふたたび聞こえる。
「
尻もちを付いた俺の前に、黒いヒールのロングヘアーの女が現れた。水色のドレスはステージ衣装かもしれない。
俺の横で屈んだままの「ボサボサ男」が言う。
「良いところに来た。
「はぁ?どういうこと?
あなた……さっきバンドを辞めるって……」
「ああ。辞めるさ。あんな融通の利かない、クソみたいなドラマーと
「じゃあ、どうしてサックスを……?」
「新しいドラマーが見つかったからだ」
「え?どういうこと?」
「目の前にいるだろ?」
俺は思わず二人の会話に割り込む。
「ドラマーって……おれのことか?」
ここで初めて、ボサボサ男は笑った。
その笑顔はこの場には不釣り合いなぐらいに無邪気で……クリスマスに新しいおもちゃを貰った子供のように輝いていた。
そしてボサボサ男は、俺に手を差し出しながら言う。
「俺の名前は
アルト・サクソフォーンプレイヤーだ。よろしく頼む。
それで……えっと……お前の名前は……
なんだっけ?」
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