満開の歌

Renon

満開の歌

 彼女の吸う息は強い意志を持っていた。

数分前、「これで最後だね。」と憂でいた彼女のものとは思えぬほどの強い意志。立ち向かう覚悟を決めたその息は、迷うことなく彼女の身体を満たしていった。真剣な表情、揺らぐことのない瞳。横にいる彼女の顔は私の視界には映らない。けれど、彼女の息が教えてくれた。対して、私の吸う息は強い確信を持っていた。これまでの日々を味わうように吸う私の息。それが自信に溢れているものと彼女は気づいていた。吸い込んだ空気が全身に澄み渡り、ただその一瞬を待つ。

 鍵盤が沈み、指揮棒が振り下ろされるその瞬間。

私達の歌声が静寂を破り、二人だけの八小節が始まる。響く高音に、届ける歌詞。調和させる周囲の音。全ての神経を研ぎ澄まし、八小節に最高の音楽を求めた。スポットライトは暑く、感情が加速する。重なる彼女の歌声。それは思い出を語り合っているようで、心底愛しい時間であった。


「あっという間だったね。」

 半ば自分に向けて発したその言葉は、もう過去の事なんだと現実へ連れ戻す為のものだった。秋の夕暮れ時は、感傷に耽るには適している。お別れ会という名のもとに行われた最後の部活。それ自体はとても華やかなものであったが、時に華やかさはその後の寂寞とした雰囲気を際立たせる。現に、横を歩く彼女も余韻が残ったままで、帰路につく足取りは重い。

「そうだね。」

 いつもより遅く、丁寧に告げられる相槌。彼女もあの時のことを思い返しているのだろうか。自由曲冒頭のデュエットパート。今でも鮮明に思い出せてしまうのは、きっと自分だけではない。なぜならあの時が部活最後の合唱であり、彼女と歌うのも最後だったのだから。今日だけは未来のことなんて考えず、過去を懐かしんでいたい。寒空の下、空っぽで、どこか暖かさを含んだ心が空気に溶ける。でもそれは交わる事なく、地に落ちる。別れの言葉を告げ、今後の不安を体現したように力無く手を振る。


 その時を境に、彼女を見かける事は無くなってしまった。互いの進むべき道が正反対であった事は知っていたから、こうなる事もわかりきっていた未来であった。だが、こんなにも心を空っぽにさせるものだとは思わなかった。

「将来の為に、今勉強を頑張って…」

 いつも言っている言葉なのに、最近はやけに感情を込めて話す教師の声。

将来、か…

“将来の夢“という言葉が輝いて見えたあの頃を羨ましく思う。原稿用紙に「お花屋さん」なんて書いていたのはもう思い出の一部。いつしか将来という言葉が重石になって、私を悩ます種となってしまった。それが花開く時は来るのだろうか。まだ、蕾にもなっていない私の花に、水を上げるのは億劫だ。窓外で降り頻る雪に埋もれてしまいそうで、教師の声に耳を傾けても、雪を拭う方法はわからなかった。


 寝ぼけ眼を擦りながら、廊下を歩く。校庭で写真撮影に笑顔や涙を添える同級生。彼らを照らす満開の桜が微笑むと、花びらは風に舞い、三年間の記憶を彩った。人気のない静かな廊下に彼らの楽しそうな声が響く。眠くてしょうがなかった卒業式も、彼らは感慨深く聞いていたのかもしれない。急ぐ事もなくのんびりと昇降口に向かう。きっとあの輪の中に入っても、今の私では馴染めないから。誰もいない教室を見るのは久々で、それぞれの黒板には思い出がぎっしりと書かれていた。担任の描いた大きな絵や、生徒が残したメッセージ。多種多様なそれらは、校内に残る暖かな雰囲気に即していた。

 眺めている中で、目についた一つのメッセージ。生徒の寄せ書きの中で、小さく端に書かれたそれ。

「また一緒に歌いたかった。」

 名前は書かれていない。でも、少し繋げて書かれたその文字は、見覚えがあった。

 三年二組。そうか、このクラスは。

気づけば私は廊下を駆けていた。来た道と反対に曲がり、さらに奥にある階段へ。すると、誰かの声が微かに聞こえる。

 声、いや、歌。

 階段を登る度に近づく歌声。一段一段登るたび、少しの曖昧さが薄れていき、確信へと変わっていく。音楽室のある四階の踊り場。そこにはあの頃のように悠然と歌う彼女の姿があった。息の上がったまま、突然現れた私を見るなり、彼女は目を見開く。

「なんで…」

 続く言葉は、見つからないのではなく、選びきれないのだと声色がいう。でも、その思いは私も同じだ。すぐに言葉を返せるほど、淡白な感情ではないのだから。呼吸を落ち着かせ、そっと彼女の目を見る。

「久しぶり。」

 出たのはそんなただの挨拶。でも、「ひ、久しぶり。」と返されたその声に、あの頃の彼女はまだいたんだと嬉しさが募る。

「黒板、書いてあるの見ちゃって。」

「あ…」

 私に見られるつもりではなかったであろうそれは、彼女をより動揺させる。独り言みたいな文面。もう諦めたような、願っているような、曖昧な言葉。でも、それは彼女の本心だと私は感じた。

「ねぇ、一緒に歌おうよ。」

 そう彼女に問えば、噛み締めるように、「うん。」と笑顔を見せた。あの時と同じように、横に並ぶ。彼女の顔は見えない。

「自由曲、一人じゃ歌えなかったんだ。」

 過去を思い返すように彼女は言う。

「私も、この曲は二人じゃないと歌えない。」

 そんな彼女に寄り添うように言葉を伝える。

 二人合わせて吸う息は、強い意志を持っていた。

過去は思い出になるだけじゃない。またいつか、未来へ進む追い風になる。立ち向かう覚悟を決めたその息は、迷うことなく私達の身体を満たしていく。吸い込んだ空気が全身に澄み渡り、やってくるその一瞬。歌声は静寂を破り、私達を未来へと引き連れた。

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満開の歌 Renon @renon_nemu

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