『雨の女』

鳩鳥九

第1話

雨の女


改札を抜けて帰路に向かう。絵に描いたような順調な人生設計に唾を吐きたくなる気持ちを抑え、帰りのコンビニで適当な本を買う。

出来るだけページ数の多いものが良い。でないと数日で読み終えてしまうのだから、

尤も、最近は本の質が落ちてきていると感じることが多い、この本もどうせ新聞の経済欄を切った貼ったしたような眉唾モノの為替予測に決まっている。

ほら見ろ、いきなりの土砂降りだ。この時期のスコールは質が悪い。何よりも自前のスーツが濡れて不愉快だ。ありあわせの折り畳み傘の防水面積は狭い。

大学を終えてからずっと〝こう〟だ。祖父から一流の男になるように言われ、それに従った顛末がこの有様だった。夜の曇りの区別がつかないような気分だ。

生憎酒のストックも無い。生涯の親友だった男も、高校で端末の機種を変えてから連絡手段がなくなった。もし退屈に色があるのなら、限りなく黒に近い灰色なのだろうと、

ビル街の灯りに照らされて、辛うじて雨雲が見える夜の空を見て思う。

娯楽に疎いことは自覚している、遊ぶのが下手であることも……まさか、成人過ぎてからそんなことが人生に響くとは思っていなかったからである。


「……粗大ごみ?……いや……」


家賃がそこそこの自宅アパートの裏路地、細長いカーテンのような物体が雨風に濡れていた。夜目が効かないのでよく見えないが、それはあまりにも違和感のある光景だった。

オレのアパートの周りに、異物を放置してあるのはいただけないので、……

若干、好奇心というものがあった。今の彼は怖いモノ知らずとまではいかない物、

退屈という名の勇気をその足に浸してしまっている。そのまま近づいていった。


「あら……見つかっちゃったわね。」

「……女? 」


見ず知らずの女が、路地の片隅に立ち、近づいた彼に声をかけてきた。

偏屈な恰好をしている、ローブともマントとも言えないような布を身に纏い、

傘なども差さずにこちらを見ている。


「お前は誰だ?……いや、何だ? 」

「まず自分から名乗るのが礼儀ってもんじゃないかしら? 」


常識を知らない外国人観光客?……違う。言葉は通じている。

この時彼は注意してその足元を見るべきだったのだ。そのなんだかよくわからないような布の下に見えている裸足の足を……、雨と泥で落ちかけているマニキュアを、


「お生憎様だが、怪しい女に名乗る名前は持ち合わせていないものでな。

ここはオレのアパートだ。迷惑になるようなら警察を呼ぶぞ? 」


こちらが有利であることを分からせてやる必要があると、彼は端末を取り出した。

それと同時に、彼女の正体を考える。

……こんな若い女がホームレスになるほど、この街は落ちぶれていなかったはずだが、

旅行中に財布を盗まれ、帰れないのだろうか?


「それよりもアンタ、食べ物と……そうね。バスタオルを用意してくれないかしら?

お礼はいくらでもするわ。見たところ独り身ね。どう?

興味がないこともないでしょう? 」


彼は取り乱すことはなかった。動揺することも、

そして彼女の声の震えを聞いた。あたかも甘い台詞でこっちのペースを握ろうとする口調が裏目にでる。彼に情報を与え過ぎた。


「何故震えている?寒いからか? 」

「な、によ。……はやく持ってきなさいよ。なんでもいいって言ってるでしょ? 」


弱弱しい威嚇、狼狽する声、睡眠をとっていないのだろうか?

彼女の化けの皮がはがれていく、自尊心も、だった。

どうやら帰る場所も、人も、連絡を入れる手段も無いようだ。

それどころか、現金も持ち合わせていないような口ぶり、

その鋭くも脆い声は、助けを求めているようにも聞こえた。


「……身体を売るなんて馬鹿な真似をしていたんだな?

それで、途中で男から逃げてきた……一切の貴重品も持たずに」

「な、なによ!?テキトーなこと言ってんじゃないわよ!

張っ倒すわよ!いいから持ってきなさいって言ってるでしょ! 」


ヒステリック、警察を呼んでほしくないのは、図星だから……

この有様だと、その日暮らしで町を転々としているのだろうか?

図太く生きてきたのだろうか、彼女は今まで、どのような人生を送ってきたのだろうか、

彼のような仄暗く、生温い人生とは違い、それは激情に溢れた真っ赤な刃物のような人生だったに違いない。


「……おい、風呂と食事と寝床をくれてやる。しばらくは家にいろ。

退屈凌ぎにはなるだろう。」

「なによ……取引?いいわ。あなた顔立ちは整ってそうだもの。

そ、その代わりあんたは私に何をしてほしいの? 」


もう何もかも限界なはずだろうに、つくづく強情な女だと彼は思った。

ここでそのセリフを吐かなければいけない世界しか彼女は知らないのだろう。


「何もしなくていい。……そうだな、お前の昔話でも聞かせてくれ、」

「……」


驚いた顔をした。まだ警戒を解いていないその顔で、


「どうした?来ないのか? 」

「い、……行くわよ。」


俯いてそのまま後ろをついていく、そのまま室内に吸い込まれるようにゆっくりと入ってくる。普段彼しか使っていない部屋に、


「こういう言い方はしたくないのだが、……そのおかしな恰好の中は……」

「ええ、そうね。男物の汚い服で我慢してあげるわ。」

「……どういう状況になったらそうなるんだ。」

「縛られそうになって、一回の窓からカーテンを破って逃げたの。

みんな、私の身体目当てなの、私はこの身体のせいで不幸になる。」

「面白い女だな。」

「変態」


適当な衣服を押し付けてシャワールームに押し込めて鍵をかける。

退屈さえ凌げばあとは何万か渡してお引き取りを願うつもりだったが、

彼女にも色々あるようで、聞きがいのある話を期待してしまう。

十数分でシャワーを終え、ドア越しで会話をする。

少しドアが開いてボロ雑巾のようなビジネスホテルのカーテンが捨ててあった。

身体をタオルで拭く音のするドアの向こうからは女の匂いが強かった。

オレは再び鍵のかかったシャワールームのドアにもたれかかりながら、熱いココアを飲む。


「……あんたは私を襲ったりしないのね。」

「遠目から見たお前は、とても美女には見えなかった。」

「じゃあなんで、」

「お前にオレの気持ちはわからない。ただの気まぐれだ。」

「じゃあこのあと気まぐれで私を襲うことも? 」

「お前がオレ好みならな」

「……そう、なら最悪ね。」

「うるさい女」


その後、彼女の家庭が崩壊していく過去や、その生き別れの弟の話を聞かされた。

30年前の下町ドラマでしか見たことが無いようなその悲壮な話を、

彼は映画を見ている客のように聞き入る。確かに、退屈ではなかった。

痛快な話ではなかったが、確かに彼の求める何かがその物語にはあった。


「どこかのエリートの成功物語なんかより、ずっと私は生きてるのよ。」

「そうだな。」


彼女はよく飲む。そのココアは何杯目だというのだろうか、


「オレは今から寝る。その間に、泣いてもいいんだぞ? 」

「勝手言わないで、……」


彼はテーブルのハンカチを彼女の近くに置く、

勿論、まだ彼女は彼に対する……、男性に対する警戒を解いていない。


「そういえば、まだ……名前を聞いていなかったな。

お前の名前は? 」

「私は……」


滴が落ちた。

きっと彼はこの夜を忘れないだろう。


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『雨の女』 鳩鳥九 @hattotorikku

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