37.5℃

芥子菜ジパ子

第1話 手巾落とし

「君の気を引かんと落とす手巾ハンカチの 立てる音など誰も知らない」



 手巾落としの鬼は――いいえ、あらゆる鬼ごっこの鬼は、捕まらなければならないのです。鬼ですから、逃げても逃げても、やっぱり捕まらなければならないのです。そうでなければ、鬼ごっこは終わりませんから。だから、手巾落としの鬼である私は、あなたに捕まえて欲しいはずなのです。そうでなければ、筋が通らないのです。

 それなのに私は今、決して誰にも気付かれぬよう、捕まえられることのないよう、静かに静かに手巾を落とそうとしています。

 それは、つまらない恐れです。鬼ごっこの終わりを、私は恐れているのです。そうちょうど、五時の鐘を恐れる幼子のように。だって、鬼ごっこが終わった時の「また明日」の「明日」が本当に実現するかどうか、分からないのですから。それに、落とした手巾に気付かれなかったり、気付いても追いかけてもらえなかったりすることや、捕まったものの、そのまま鬼を引き受けてもらえず、鬼でも人でもない、何物にもなれぬままということだって、あるのですから。

 未来は眩く白く光り、それ故に見ることのできないものです。一見すれば、その光は美しいのでしょう。その向こうに理想の天使を見ることだって出来ましょう。けれど私には、見えぬということそれ自体が、どうにも恐ろしいのです。理想の天使を見ることなぞ出来ません。かといって悪夢を見ることもありません。ただただ「無」なのです。私にとって未来は、真白ましろの無重力空間です。何もありません。

 ですから私は、鬼をやめたいはずなのに、あなたに捕まえて欲しいはずなのに、このいつの間にか始まっていた手巾落としを終わらせることを恐れているのです。

 ですが、時間は私の気持ちも都合も無視して流れてゆきます。そのせいでしょうか、この手の内の手巾はいつの間にか、すっかりと私の手の汗を吸って、随分と重たくなっていました。握りしめた拳も、びりびりと痺れてきました。

 ゆっくりと腐ってゆく死体のようにガスを発生させ、どろりとした質感になってゆく手巾を、それが腐りきってぼとりと音を立て地に落ちる前に、五時の鐘が鳴るそのぎりぎりの時に、私はそっと地面に置きます。勿論、誰にも気づかれぬように。捕まえられることのないように。

 それでいいのです。片想いなんて、それでいいのです。真白の無重力空間を恐れながら、流されるまま其処に向かうくらいでいいのです。くしゃくしゃに丸まった手巾に誰も気づかぬまま、五時の鐘が鳴ればいいのです。そして私は「また明日」、新しい手巾を用意して、それを唇に当てながらあなたを見つめます。ほんのりと洗剤の香りが残る手巾に甘い恋の吐息を吸わせ、そのまま再び、腐らせてゆきます。真白の無重力空間を「今」に染め、そうしてようやく、私は安堵の溜息をつくのです。

 私は永遠に手巾落としの鬼です。でも誰も、そんなことは知らなくていいのです。

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