第三章

 望月詩絵里とは高校の入学式で知り合った。

 広い体育館。大勢に見守られながらステージに登壇する詩絵里を見て、育ちの良さそうなお嬢様だと思った。人前に立つことにさも慣れたようなしっかりとした足取りだったし、人の注目を集めるのにも長けた顔をしていた。つまり容姿端麗だったのだ。

 新入生のスピーチが終わって席に戻るとき、莉愛の側を彼女が通った。そのときの匂いは、きっといつまでも忘れないだろう。多くの女学生に共通する市販のシャンプーや柔軟剤の香りではない。まるでよくできた陶器人形から香るような、パウダリーな香りがした。

 莉愛は以前、人の香りが周りにもたらす影響について調べたことがあった。人間の印象は匂いで決まると言ってもいい。どんなに見た目が美しくても、ドブの臭いがすればその人の評価は一気に下がる。たとえ相手がその臭いを嗅いでいなくても、嫌な臭いだと本人が自覚しているなら、それは表情や声色として現れるのだ。つまり、本人の自身喪失に繋がるから相対的に相手からの評価も落ちることになる。

その点で言えば、望月詩絵里の印象は周りと一線を画して莉愛が思う完璧に近かった。


 彼女とは同じクラスになっても話すタイミングがなかった。実際に話すようになったのは夏の始まり頃からだ。

 六月十日、二日間に渡る球技大会も残り三種目となった。

 莉愛が参加したバレーボールは午前最後の競技だった。学年優勝一歩手前で敗れたが、その悔しさもほどほどに、莉愛はチームメイトの輪から抜けた。チームメイトはみんな大げさに悔しがっていた。中には泣いてしまう人もいた。莉愛にはスポ根魂のような気持ちが理解できなかった。だから申し訳なくなって早めに退場することにした。

戻った教室には学校行事に積極的でない生徒が数人いて、なんとなく空気が悪く感じた。今日に限って莉愛は単独行動を強いられている。一緒に行動するような友人は、球技大会の運営委員で得点の集計を手伝いに行っていなかった。

机にかけたリュックから弁当を取り出して、中庭に移動する。

 中庭は意外と空いていた。試合は終わっているはずだが、グラウンドの方から正体の分からない歓声が聞こえる。気になったが、いちいち確認しに行くほど莉愛は派手好きではなかった。

 なんとなく、ここも居心地が悪いように感じた。ここはグラウンドから校舎に繋がる抜け道でもある。きっとあと少しすれば、歓声を上げていた生徒がぞろぞろと来るだろう。

 しょうがないな、と莉愛は小声で呟き、のそりと立ち上がった。腰を落ち着ける穴場はまだ数えるほどしか知らない。先客がいないことを祈りつつ、莉愛はグラウンドとは反対の方向に歩いた。

 そうしてはじめて望月詩絵里が一人でいるところを見た。彼女は水道で顔を洗っていた。

 本来その水道は校庭脇の花壇に水やりをするためにある。だから蛇口は比較的低い位置についていた。頑張っても手しか洗えないだろう。詩絵里は制服のスカートを太ももやふくらはぎに沿って丁寧に折りながらしゃがんで、手で水をすくいながら顔を洗っていた。

 一瞬だが彼女が顔から手を離したときに、手の平の溝に溜まった水が赤くなっているように見えた。はじめはただの見間違えだと思ったが、彼女に気付かれないようにしばらく見ていると、やっぱり水が赤いことが分かった。血だ。

よく見ると彼女のTシャツには薄っすらと赤いシミがついていた。おそらく彼女は鼻血を流したのだと思う。

「望月さん、大丈夫?」

 声をかけないわけにはいかなかった。彼女が莉愛に気付いて顔を上げる。水滴がぽたぽたと彼女の顎から落ちた。

「うん、気にしないで。大丈夫」

 詩絵里はそう言って腰に巻いたジャージの袖で鼻の辺りを拭った。ハンカチは持っていないらしい。莉愛はすぐにハンカチを差し出す。

「これ、よかったら使って」

 詩絵里はしばし固まって、やがて莉愛からハンカチを受け取った。

「ありがとう。近いうちにお返しするね」

「いいよ、それくらい。鼻血出たの?」

「うん。ボールが当たっちゃって」

「大丈夫?保健室に連れて行こうか?」

「遠慮する。気にしないで」

「そう?でも保健室には行った方がいいと思うよ。鼻が腫れてる。もしかしたら骨が折れてたりするかもしれない」

「いいの。保健室は満員だろうし、さっきサッカーの試合で何人かぶつかって倒れていたから、混んでると思う。波賀野さんはバレーに行ってたから知らないだろうけど」

 どうやらサッカーの試合ではホームランを蹴ってしまったり、ラフプレーをする生徒がいたらしい。自分本位だが、正直、バレーの方に行って正解だったと莉愛は思った。

「そんなことがあったんだ。でも心配だから病院には行ってね」

 詩絵里はこくりと頷いた。鼻が赤いせいか、幼く見える。

「ところで、どうしてここで顔を洗ってたの?」

「誰かに見られたくなかったから。気を使わせたくなかったから。でも、波賀野さんに見つかって、ハンカチまで貸してもらっちゃった」

 詩絵里は恥ずかしそうに笑った。他のクラスメイトと話していても、そんな表情になることはあまりないと思う。莉愛は高揚した気持ちを抑えて、努めて冷静を装った。

「そんな。鼻血だってすぐに治るわけじゃないんだから、保健室には行くべきだよ。それに、その水道は花壇の水やり用だから、あまり綺麗ではないと思う」

「うん、わかってる。でもいいんだ」

「なにがいいのか全然わからないな。いつも一緒にいる三人はいないの?」

 莉愛は辺りを見回す。誰もいないことは明白だった。少し声を抑えないと、空間に声が響いて通りすがった人にまで会話を聞かれそうだった。そのくらいがらんとしている。

 詩絵里はハンカチを畳みながらかぶりを振った。

「鼻血を出したとき、三人も一緒にいて心配してくれたけど、私が断った」

「どうして」

「心配かけたくなかったから」

「それでも——」

 詩絵里はずっと、心配かけたくなかったからの一点張りだった。友達にそこまで遠慮するのは、彼女自身のプライドうんぬんよりも人間関係にありそうだった。根拠はないが、莉愛はそうであると確信した。

「もしかして、あの三人と喧嘩した?」

「違う、喧嘩なんかじゃない。どうしてそんなこと聞くの」

 詩絵里は切迫した声で言った。

「望月さんは本来、謙虚の度を超すほど遠慮はしないと思う」

「それは誤解だよ。信じてくれないかもしれないけど、私は結構遠慮するタイプ」

「じゃあ、遠慮しすぎた」

「それも違う。でも、ある意味正解かもしれない。今回は波賀野さんの言う私は謙虚になりきれなかった」

 まるで幼少期からの癖であるように、彼女は左右の指同士を顔の前で合わせた。

「たしかに、あの三人には比較的謙虚に接していた。高校生になったばかりなんだから、当たり前だと思っていた。そして今日、二か月間無意識で縛っていた自分の身体の縄を、自分で解いた」

「何があったの」

「何もなかった。きっかけもない。だけど原因はある」

「原因?」

「波賀野さんにはまだ教えない」

「私、そんなに信用ないかな」

「信用はあるけど今は教えない。そもそもまともに話したのは今日がはじめてなんだから、まだお互いのこと知らないでしょ?」

「そうだね」

「ハンカチありがとう。返すときに、色々話せたらいいね」

 そう言って、彼女は校内に入っていった。


 それから一か月、莉愛にも詩絵里の言う〈原因〉がなんとなく分かってきた。ハンカチはまだ返してもらっていない。

「最近望月さん見ないよね。どこで食べてるんだろ」

 昼休み。莉愛の友人の宝井萌音がサラダを食べながら言った。

「見てないね」

 球技大会以降、詩絵里は教室で昼食をとらなくなった。後方窓際を占領している詩絵里の友人たちは、彼女の不在に何も疑問を抱いていないようだ。

あの日、詩絵里と話してから、莉愛は身体のどこかに見えないしこりを感じていた。それは感覚を研ぎ澄ませると消える、靄のかかったものだった。

「そういえば。望月さん、バスケ部の宮内先輩から告られたらしいよ」

「宮内先輩って二年の?」

「そうそう。一緒に映画を観に行って、その帰りに告ったらしい」

「どうして知ってるの」

「美術部の先輩から聞いた。宮内先輩と同じクラスの人がたまたま二人一緒にいるところを目撃して、そのことを教室で聞いたら宮内先輩、大声で全部話しちゃったんだって。それからあっという間に話が広まって」

「望月さんは告白受けたの?」

「いいや、断ったらしい。というか、映画館デートもつまらなそうにしてたんだって。宮内先輩、何回か声かけただけで映画館に誘ったらしいから、そりゃそうなるのもわかるわって感じだけどさ。ファンの子は相当怒るよね」

「ファン?なにそれ」

「莉愛、もしかして宮内先輩をご存じない?あの人、中身は賛否両論だけど、とにかく顔が良いんだよ。だからひっそりと推してる人が多いの」

 萌音はウインナーを口に放り込む。

 ふと、教室の隅から鋭い視線を感じた。莉愛は目の前の友人に声を潜めるよう手で伝える。

「実は、望月さんといっつもいるあの三人組も、宮内先輩のファンらしい」

「あ、三人ともなんだね」

「うん。一人で宮内先輩と関わらないように、同盟まで組んでるんだって。望月さんは蚊帳の外で、ただ三人の話を聞いてたんだって」

 ひそひそ声が向こうにも聞こえたのか、隅にいた三人組は教室を出て行った。

 萌音は頭の後ろで手を組んで言う。

「それにしてもさ、どうして恋愛ごときで友人を省くかね」

「三人は望月さんを省いたわけではないんじゃない?」

「いいや、あれはもう省いたも同然でしょ。いじめてはいないと思うけど、明らかに雰囲気悪いよ」

 彼女はさっきまで三人組がいた方向を指差す。

 詩絵里が言っていた〈原因〉とは、恋愛絡みのことだったのか。きっと詩絵里は宮内に話しかけられた時点で、三人からよく思われなくなったことを察したのだろう。もしくは宮内とのデートについて、あの三人から何か言われたのかもしれない。

「どうして映画館、断らなかったんだろう」

「さぁね。望月さんも実は宮内先輩のことが好きだったんじゃない?」

「でも、つまらなそうにしてたんでしょ?」

「それは、本当はつまらなそうにしてたんじゃなくて、緊張してたとか。人の表情って意外とわかりずらいじゃん」

「本人から聞いたわけじゃないから、それは証拠にならないか」

「あの三人も陰湿な方向に行かないで、可愛くなる努力をすればいいのに。シンデレラの意地悪な継母と姉妹みたいになってるじゃん」

「萌音、さすがにそれは言い過ぎ」

「ごめん。でも、あの三人だって一軍女子ではあるんだから、もっと努力すれば宮内先輩もイチコロのはずなんだよ」

もったいないなぁと言いながら、萌音は自分の席に弁当を仕舞いに行った。


八月八日、夏休みも折り返しに入った。莉愛は駅の近くにある猫カフェに向かう途中、映画館の前に詩絵里が立っていることに気付いた。

映画館の手前には大小さまざまなポスターが貼られていて、3DCGで構成された子供向けの作品から、納涼を求める人々に人気の洋画ホラーまで、メジャーな作品は網羅されていた。

詩絵里はそれらのポスターのうち、恋愛映画を見つめていた。なんでも主演男優が有名なアイドルグループのメンバーで、五月の公開以降、リピート観賞をする女子が後を絶たないらしい。たしか先月、萌音から一人で観に行ったという話を聞いた。彼女の感想は「自分の好みじゃなかったし、あんな恋愛はファンタジーだ」と、どうやら今ひとつのようだった。

 詩絵里も宮内が好みでなかっただけで、顔の良い男性はしっかり好きなのだろう。莉愛はそう思い、詩絵里を見たことは忘れようとした。

「波賀野さん?」

 気付くと莉愛の目の前に詩絵里がいた。彼女の目の先にあるポスターにばかり気を取られていて、詩絵里のことを追えていなかった。

「あれ。望月さん、こんなところでどうしたの?」

「え?」

 莉愛は誤魔化すように本来詩絵里がするべき質問を先に彼女に投げかけた。彼女は虚を突かれたように硬直する。

「映画観るの?チケットはあっちだよ」

 莉愛はそう言ってから入口奥のチケット売り場を指差した。

「いや、私はポスター見てただけだから」

 知ってる。詩絵里がポスターを見ていたことも、それが恋愛映画のポスターであることも。しかしそれが彼女にばれて、ストーカーだと思われるのが莉愛は嫌だった。何とか話を逸らすしかない。

「望月さん、この後予定ある?」

「特にないよ」

「じゃあ、よかったらお茶しない?」

 しばしの沈黙の後、詩絵里はこくりと頷いた。


 猫カフェは映画館の五軒隣にある。こじんまりとした平屋の扉を開けると、柔らかい音色のベルが鳴った。

 二人は奥の角席に案内され、向かい合うように座った。壁側に座った詩絵里の視界には、大きなキャットタワーがある。タワーの頂上では毛足の長いペルシャ猫がくつろいでいて、その下で別の猫がペルシャ猫の尻尾を捕まえようとしていた。

二人は店員を呼んで紅茶とミルクレープを頼む。

「あのさ、噂で聞いたんだけど」

「あぁ、宮内先輩のことでしょ?」

「うん」

 詩絵里は莉愛の予想に反して、随分とあっさりしていた。

「困るよね。まだお互いのことをよく知らないのに、いきなり告白してくるんだもん」

「やっぱり、一緒に映画を観た後に告白されたの?」

「そうだよ。だから概ね噂通り」

「望月さんが、デート中つまらなそうにしてたことも?」

「うん。でも宮内先輩の言い分には語弊があると思う。だって、思ったことは遠慮せずに何でも言っていいからって、先輩が言ったんだよ」

 なるほど、詩絵里がつまらなかったのは事実で、それを露見させたのは宮内本人だった。それで詩絵里に振られて、恨みがましく彼女の醜聞を広めたのだ。

 店員が二人のテーブルに紅茶を運ぶ。詩絵里はスプーンを使ってレモンを紅茶に沈めた。

「それで、それが波賀野さんの話したかったこと?」

 違う。詩絵里を猫カフェに誘った時点で、莉愛は彼女に断られるだろうとばかり思っていた。しかし実際に今こうして一緒に紅茶を手に持っているのなら、それは謙虚さで塗り固めたビジネス上の付き合い程度だということだ。だから莉愛は、彼女が心から訝し気な表情を浮かべたことに驚き、同時に嬉しくなった。

 莉愛はまだ熱くて飲めない紅茶をすすって答える。

「いや、本題はまだある。望月さん、球技大会のときに話していた〈原因〉についてなんだけど」

 思えば、恋愛沙汰だけでは説明しきれないことがある。球技大会で、望月さんは保健室に行かなかった。別にあの三人に頼らずとも保健委員はいたんだ。

「やっぱり、私には〈原因〉はわからなかった」

「当たり前だよ、あんまり二人で話したことないんだから。教えるつもりはないよ?」

「まだ、でしょ?球技大会のときは、まだ教えないって言ってた」

「それは言葉のあやというもので——」

「いや、望月さんはいつか私に〈原因〉が何かを教えるつもりだった。だから、まだなんて言った」

「そんなこと、どうして言い切れるの」

「だって、望月さんははじめから私には正直だった。遠慮しなかった。そのときは私に対して謙虚でいてくれているんだと思った。でも、謙虚なら〈原因〉について教えない、なんて意地悪なこと言わないでしょ?」

 詩絵里は視線を落とした。手元の紅茶がレモンで色薄くなっている。そろそろ取り出しても良い頃だ。

「そっか、そういうことだったんだ」

 彼女も紅茶の色が薄いのに気付いたらしい。急いで取ったスプーンがソーサーに当たってカチャンと音を出す。

「正直、どうして波賀野さんに突き放すようなことを言ってしまったのか、私自身わかっていなかったの。私、波賀野さんに憧れたんだと思う」

「憧れた?憧れの的はそっちなのに」

「私からすれば、波賀野さんは理想の女子高生だよ。気ままに過ごして、学生スクープには頓着しない。結局私のことで気にかけさせたようだけど」

「そんな。そんな子はどこにでもいるよ。私は普通すぎて何も個性のない、ただのモブなんだから」

 詩絵里はかぶりを振った。

「違う、私にとってはそれが憧れだった。球技大会の日、波賀野さんは外に出て、一人で弁当を食べようとした。普通、女学生なら一人でいることを恥じるはずだよ」

「昔の学生ならそんなこと思ったかもしれないけど、今はそんなことないよ」

「そうね。でもそういう風に言う人はみんな誰かと群れてるの。でも波賀野さんはあのとき、さも当たり前のように一人で行動していた。誰よりも早く、波賀野さんは大人になっていたんだよ」

 詩絵里の言うことが莉愛には理解できなかった。群れる?大人?私はいつも萌音と一緒にいる。望月さんのことだって、球技大会から二カ月も引きずっている。割り切ることができなかったから。そんな子供じみた諦めのなさを、大人と言えるのだろうか。

「えっと、申し訳ないけど私には理解できない。でも望月さんと友達になることはできる。私はまだ子供だから、そのくらいしか思いつけなかった。ごめん」

 ミルクレープが運ばれてくる。蜂蜜がかかっていて、生クリームより甘そうな印象を受けた。

 詩絵里は分かりやすく口元が緩んでいた。期待を込め、歓喜に満ちた幼い目を莉愛に向ける。

「波賀野さんと群れてもいいの?」

「その言い方はないでしょ」

「じゃあ、波賀野さんと一緒に弁当を食べたり、一緒に話しながら体育館に移動したり、してもいいの?」

「もちろん。萌音も来るもの拒まずだから、きっと受け入れてくれるよ。というか、そこに許可って必要?」

「ありがとう」

 詩絵里は借りていたハンカチをカバンから出して、莉愛に返した。


 詩絵里と一緒に過ごして分かったことがある。

「さっき滝川先生が言ってた漫画が気になるんだけど」

「あぁ、あれ今人気だよね。アニメも三期に入ったんだっけ」

 萌音がスマホを取り出して検索する。詩絵里は彼女がスマホを操作するのをじっと見つめていた。

「詩絵里、インターネットも使ったことないの?」

 彼女はこくりと頷く。

 莉愛と萌音は詩絵里のことを呼び捨てにするようになった。そして詩絵里も二人のことを呼び捨てにしている。

「パソコンは使ったことあるよ。でもネットは使わせてもらえない」

「ネットできないなら、パソコンで何してるの?」

「マインスイーパーとか」

「何それ」

「数字の書かれたマスを見て、地雷を回避するゲーム」

「今調べてみたけど、二〇一二年まではパソコンに入ってたゲームらしいよ」

「オンラインゲームじゃないの?」

「当時はストアで買うとかじゃなくて、最初から入ってたみたい」

「じゃあ詩絵里のパソコンって二〇一二年よりも古いってこと?」

 詩絵里は小首をかしげる。

「わかんない。でも、コンピュータ室のパソコンよりは古いと思う」

 コンピュータ室のパソコンは全て据え置き型で、モニタが最新のものよりも少し厚めだ。あれよりも古いとなると、詩絵里が使ったことのあるパソコンは相当年季の入ったものと思われる。

「今どき珍しいよね。スマホを持ってない高校生とか」

 萌音が言った。

「まだ普及してないならわかるけど、今って無いと困るじゃん?何か調べるときとかさ」

「そういうのは全部参考書とか電子辞書で賄ってるよ」

「いや、勉強の話じゃなくて」

 萌音はスマホの画面を詩絵里に見せる。画面には、先刻詩絵里に言われて調べたアニメのホームページが写っていた。

「こういうの。興味持ったものを調べるときに必要じゃん。ちなみに、ウチの家に原作全巻あるはずだから、今度よかったら読みに来て」

 詩絵里は礼を言ってうつむく。

 結局、詩絵里の言っていた〈原因〉は、厳密には恋愛関係の話ではなかった。

 詩絵里はスマホを持っていない。それだけでなく、インターネット関係にほとんど触れたことがなかった。当然、今流行りのSNSのことも何も知らない。名前を聞いて、時計のおもちゃだと思っていたという発言が何よりの証拠だった。

 かつて行動を共にしていた三人には、そのことを裏でからかわれていたのだと言う。たまに面と向かって馬鹿にされたこともあったそうだ。

「酷いよね、自分じゃどうしようもできないじゃん」

「しょうがないよ。スマホ使ったことがないのは事実なんだから」

「でもさぁ、それなら色々良いことも悪いことも教えてあげろよって話じゃん。結局あいつら詩絵里が可愛いから仲間に入れて、それで自分たちも可愛いでしょ?って周りに自慢したいだけなんだよ」

「萌音、さすがに言いすぎ」

 萌音は少々口が過ぎるが、莉愛や詩絵里にとっては場の空気を明るくしてくれる良き友だった。彼女がいなければ、詩絵里と共にどんどん自己嫌悪の奥底に沈んでいくだろう。

「でも、詩絵里が気に病むことは一つもないのは確かだから」

「ありがとう。そんなこと言われたのはじめてだから、なんだか新鮮」

「そんなに過酷な環境で生きてて、よく今までおかしくならなかったね」

「まぁね。私、これでも一応頭いいから」


 その日の帰り道、バイトに行く萌音と駅で別れて、莉愛と詩絵里は一駅分歩くことにした。

 詩絵里とは最寄り駅が同じだった。そこから家までは莉愛は徒歩で、詩絵里はバスに乗って帰る。

 二人は開店準備をする居酒屋の横を通って、だらだらと歩いていた。夕方に差し掛かろうという時間だが、空はまだ青く、鳥も帰巣せずに路地を闊歩していた。

「詩絵里って本当に頭いいよね。なんか勉強のコツとかあるの?」

「ないよ。とにかく勉強するだけ」

「絶対それだけじゃないよ。地頭がいいっていうか」

「本当に地頭がいい人とは、莉愛は会話できないと思うよ」

「なにそれ。馬鹿にしてない?」

「ごめんごめん。ちょっとからかいたくなった」

「でも、詩絵里は本当にはじめから頭が良かったんだろうなぁ。遺伝なのかな?」

「どうだろ」

「そうだ、詩絵里のご両親は何の仕事してるの?」

「お父さんが公務員で、お母さんは専業主婦」

「公務員って、市役所とか?」

「ううん。教育委員会」

「へぇ、じゃあお父さんは学校関係とかに詳しいんだ」

「そうだね。前は先生やってたらしい」

「スマホを禁止したのもお父さん?」

「うん。お母さんが電磁波過敏症なんだって」

「なにそれ、聞いたことない」

「インターネットを使ってる人が側にいると、眩暈とか頭痛とかがするらしい。私も詳しくは知らないけど、とにかく電波が身体に悪さするんだって」

「じゃあ、詩絵里の両親もスマホ持ってないんだ?」

「いや、お父さんは仕事の連絡とかしないといけないから持ってるよ。でも、お母さんの前では使わない。使うときは自分の部屋に行ってる」

「テレビは?」

「テレビはない。その代わり、新聞はとってる」

「そっか。そういえば受験のときに時事問題もあったから、ニュースくらいは知ってないとだめだよね」

「うん。こう見えて私、時事問題の点数が満点だったんだよ」

「そんなこと教えてもらえるの?」

「教えてもらえるっていうか、自己採点で。入試後、学校行ってみんなで採点しなかった?」

「そういえばしたような。解放感で点数悪くてもどうにでもなれって感じだったから、記憶薄いかも」

「あぁ、その気持ちはわかる。点数次第で入る高校変わるっていうのに、試験後はあんまり緊張しなかったな」

「自暴自棄になるっていうかなんというか。でも詩絵里は入学式で挨拶するくらいだから、相当点数良かったんだね」

「そうなるように勉強したからね」

「すごいなぁ、目指してるところが違うや」

「そうしてるのも全部親のためだよ」

「親って、お父さんの?」

「そう。教育委員会の委員の娘が勉強できないだなんて、親の教育が悪いんじゃないかってお父さんが疑われるでしょ?だからそうならないように必死で勉強してるの」

 詩絵里はわずかにはにかんだ。そして彼女は無理しているような表情で言った。

「私は親の期待に応えなきゃいけない。実際、私はそうした親に束縛されているお陰で勉強ができて新たな知見が得られてる。だから私はむしろ親に感謝してる」


 次の駅までは徒歩で二十分かかった。そこからいつもの路線に乗って家に向かう。電車のデザインは何も変わらなかったのに、駅が違うだけでまるで別の所に向かっているような気がした。

 改札を出て莉愛と別れた詩絵里は、いつも乗るバスに間に合わなかったらしく、時間を潰そうとコンビニに向かう。

 莉愛は再び歩き始めた。詩絵里がさっき話していたことを思いだしていた。

 彼女が新入生代表を務めたのは、それなりの理由があるからだ。莉愛はただ勉強ができる天才肌なのだとしか思っていなかった。中学のときの新入生代表が、まさに天才児というような何でもこなせる男子だったからだ。実際、詩絵里はその男子と負けず劣らずな優秀振りを見せていたから、そう思うのも無理はなかった。

 詩絵里と話すと、彼女は生まれ持っての天才ではないことが分かる。どちらかといえば秀才だ。世間——主に同年代が触れるコンテンツには疎くて、他の生徒と一線を画していたから周りにも天才だと言われていた。しかし彼女は莉愛がこれまで出会った天才児とは何かが違う。

詩絵里は不器用だ。天才みたいに飄々としていられない。余計なことを考えてしまう。

莉愛はそんな彼女の人間臭さが好きだった。人間関係に悩み、翻弄される姿が可愛らしかった。詩絵里の見せる幼い笑顔が自分にだけ向けられればいいのに。


 帰宅すると、夕食を作り終えた母がリビングに皿を並べていた。

 数十分違うだけで随分と遅く帰宅した気になった。

 食事を終えて寝る支度を済ませてから、莉愛は書斎のパソコンで改めて詩絵里の両親のことを調べた。

 調べものをするときは家のパソコンを使っている。萌音には不評だが、画面は大きい方が見やすいし、タイピングの練習にもなるから良いだろうと思っていた。

 莉愛はまず教育委員会について調べた。

 ——あった。

 教育長が一人、委員が五人。その委員の一人が詩絵里の父のようだ。名前は望月聡。

 簡単に友人の父親を知れてしまった。ついでに教育委員会の職務内容も調べる。

 教育委員会は教育機関の管理や学生の入学や転校、退学に関すること、また学習指導など、とにかく学生が把握していない教育に関する業務を担っているようだった。

 次に電磁波過敏症について調べる。

検索バーに「電磁波過敏症」と入力すると、次に続く検索予測に「アルミホイル」や「思い込み」といったワードが出てきた。やっぱり胡散臭い。

莉愛はそれらを無視して「電磁波過敏症 症状」と検索した。

症状は詩絵里が言っていた通りで、眩暈や頭痛、他には皮膚が発赤したり、酷いと記憶喪失になったりするらしい。

電磁波については中学理科で習った。たしか電子レンジなどの家電製品も電磁波を発していたはずだ。

 詩絵里の家は家電を置いていないのだろうか。彼女が使ったことのあるパソコンは、症状を引き起こさないのだろうか。

 いくつかサイトを開く。WHOは電磁波過敏症について科学的根拠は無いと見解している。根本治療の術もないため、症状に合わせて薬を服用するしかない。つまりは今のところ思い込みによるものだと考えられているようだった。

 たとえば父が厳粛で、母が思い込みの激しい性格なら、娘はどのように育つのだろうか。

 詩絵里のようになるんだろうな、と莉愛は思った。

 彼女が不幸中の幸いだったのは、生きる世界が狭かったところにある。親の異常な干渉を前にしても、それが間違っているとは思わない。インターネットがないのだから、世間が母の持つ病気の異常性を話題にしていても気づけないのだ。

 そうして彼女は親が作った見えない箱庭に入れられ、結果的に友達を失った。

 ——だめだ。このことを考えるのは止そう。詩絵里の母が電磁波過敏症だと言うのなら、きっとそれで間違いない。会ったこともない人のことを「思い込みの激しい人」などと決めつけるのは間違っている。詩絵里本人だって自分が不幸だとは思っていないだろう。それなら余計な干渉をする方が野暮というものだ。

 莉愛は詩絵里に対してストーカー紛いのことをしたのだと察し、罪悪感から検索履歴を削除した。そして改めて普通の家庭に生まれたことを感謝した。両親は共働きで日中はほとんど家を空けているが、その間の莉愛の行動には何も口出ししない。スマホだって友達付き合いに必要だろうからとすぐに買ってくれた。もちろんまだ子供だから使用時間は限られているが。それでも十分に恵まれているのだ。



 十二月に入る頃には、一駅分歩くのが当たり前となっていた。ただし、萌音がいないときだけである。萌音がいるときは彼女が無駄に歩くのを嫌うため、そのまま最寄り駅に入る。彼女は頑固だから、看板の癖が強い居酒屋、路地の角で寝そべる野良猫や変な顔の犬について話しても、一度面倒臭がったことには頑なに興味を示さないのだった。

 北海道で初雪が降ったというニュースを見て、莉愛のいる地域も極端に日の入りが早くなったように感じた。あと少しで冬至だ。それから間もなくしてクリスマス。たしか詩絵里は駅前の大きな通りがライトアップされるのを見たことが無いと言っていた。機会が合えば、三人で観に行きたい。

 冷たい風が吹いたので、莉愛はジャケットの襟をつかんで口元まで引き上げた。そろそろ厚手のコートを出した方が良いかもしれない。マフラーも用意しないと。

 ——このところ、詩絵里は一駅分歩くのを断っている。

 二ヶ月前、詩絵里は中間試験の結果が振るわなかったのか、返された解答用紙を見てこの世の終わりのような落ち込み方をしていた。

 莉愛と萌音はからかい半分に詩絵里の解答用紙を見た。どの教科も八十点以上。十分に高い点数だ。

「そんなに落ち込んで、いっつも何点取ってんだよ」

「九十点以上」

「たっかいなぁ。さすが勉強星のお姫様。でもさ、漢検十級でも八割以上で合格なんだよ。うちらの高校では三割以上、ほとんどの大学では六割以上。そう考えれば今回の点数は最強以外の何でもないじゃん」

「でも、この点数じゃ私がだめなんだよ」

 萌音の精一杯の慰めも、詩絵里の暗然とした面持ちの前には手も足も出ないようだった。むしろ詩絵里の意識の高さが余計に際立って、彼女のネガティブキャンペーンに拍車をかけている。

「勉強に精を出すのはいいけど、たまには息抜きもしなよ。特にテスト明けは」

「萌音と違って、そんなことする暇ない」

「喧嘩売ってる?私は詩絵里のこと心配して言っただけなんですけど」

「心配しなくても、私は大丈夫だから気にしないで」

「前もそう言ってたじゃん。それで結果が出なかったんだから、いい加減やり方変えた方がよくない?」

「うるさいなぁ」

「そこまで。今回は二人とも悪い」

「だって——」

 少し前から詩絵里と萌音は一触即発の状態になることがしばしばあった。三人でいるときの空気がなんとなく悪い気がする。

 莉愛はどちらの味方につくこともなく、完全に中立でいようとした。しかし毎回どちらかがそっぽを向いて輪から外れてしまう。三人の仲に亀裂が走ったのは明らかだった。


 彼女と一緒に帰らなくなったのは、それから少し後のことだった。

 高校の最寄り駅までは三人で向かうが、詩絵里はそこからいつもふらっといなくなる。

 詩絵里いわく、「家庭教師を待たせているから先に帰るね」だとか「勉強する時間を確保するため」だとかで、車で駅まで迎えに来てもらっているようだが、母は車を運転できないと言うし、父も仕事を終えてからにしては毎度早すぎる時間だったため、莉愛と萌音は彼女が何か後ろめたいことをしているのではないかと不審に思っていたのだった。

 しかし莉愛は、その後ろめたいことを想像して間もなく、詩絵里を目撃した。

 その日、莉愛は駅前のコンビニに寄るために一足早く二人と別れた。萌音はアルバイトに行く予定があったので、駅には詩絵里一人が向かった。

莉愛はコンビニで単語帳とのど飴を手に取ってレジに並んだ。レジは帰宅途中の学生で長蛇の列になっていた。それにレジの進みが遅い。運動部のような身体の逞しい男子学生が、レジ横のホットスナックを必ずと言っていい程買っている。最近ではそれらを自分で取ってレジに出す方式が増えてきているが、莉愛が寄ったコンビニはやや寂れた老舗であったため、未だ店員が取り出す方式だった。

 結局、二つしか購入していないのに、コンビニには十分近く滞在した。購入品をリュックに入れながら外へ出ると、空は水色から赤へとグラデーションを作っている。それを見て、莉愛は更に疲弊した。

 詩絵里を見たのはコンビニから対向車線に渡るために青信号を待っているときだった。ポップな黄色い軽自動車の後部座席に彼女は乗っていた。

 運転手は若い男性だった。髪型やファッションの傾向を見る限りでは、彼は大学生だろうと莉愛は思った。

 彼氏だろうか。もしくは——。

 軽自動車が通り去る一瞬の間しか確認できなかったが、少なからず運転をしていた男性は詩絵里が得意としないタイプだと思った。それならば、やはり何か後ろめたいことをしているのかもしれない。


 次の日の朝、莉愛は思い切って詩絵里に聞いてみたが、帰ってきた答えはひどくあっさりしたものだった。

「誰って、家庭教師だけど」

 詩絵里は目をぱちくりさせながら、「どうしてそんなどうでもいいこと聞くの」という風に不思議がった様子である。

 こんなに単純なことに、どうして気が付けなかったのだろう。彼女は「家庭教師を待たせているから」と何度も言っていたじゃないか。莉愛はてっきり詩絵里の家庭教師が女性で、彼女の母が家に上げて談笑しながら待っているとばかり考えていた。

これじゃあまるで視野が広いのに正面は見えないモルモットだ、と莉愛は思った。隣で聞いていた萌音も弁護する余地がないようである。完全に莉愛の勘違いからなるものだった。

「それで、その家庭教師ってどんな人なの」

「えっと、頭がいい」

「当たり前じゃん、家庭教師なんだから。年齢は?」

「大学二年生」

「顔は?」

「顔はいい方だと思う。私のタイプではないけど」

「詩絵里のタイプは留学でもしない限りいないでしょ」

「そうなのかなぁ」

「それで、誰に似てるの?」

「誰に似てる、か。この間、今野先生が好きって言ってた韓国のアイドルに似てるかも」

「韓国のアイドル?あぁ、この人か」

 萌音はスマホで先日今野先生が言っていたK―POPアイドルの画像を検索した。詩絵里はそれを覗いて、うんうんと頷く。

「そうそう、こんな感じ。塩顔って言うんだっけ?」

「うーん、この顔は塩というより、しょうゆ顔かなぁ」

「へぇ、そうなんだ。塩分高いね」

「塩分って」

 萌音は噴き出した。

「旦那のお腹を心配する主婦かよ」

 莉愛も萌音のスマホを覗いた。たしかに、強いて言えばだが、雰囲気が似ていなくもない。

「性格は?」

「普通にいい人だよ。教え方もわかりやすいし」

「どこで知り合ったの?女性じゃないってことは、親戚とか?」

「ううん。親戚じゃなくて、お父さんの職場関係で紹介されて来たって」

「なんだかよくわからない繋がりだなぁ」

「まぁ、私が興味ないから。今度聞いてみるよ」

 その後も何度かあの黄色い軽自動車を見たが、莉愛は車の後部座席に乗っている詩絵里に向けて手を振るだけで何もない。お互いどちらかが気づいて手を振る頃には、相手は十五メートル先にいるような、そんな関係だ。

 莉愛は一人になると相変わらず次の駅に向けて歩いていた。


 冬休みは莉愛にとって酷く孤独なものだった。

 期末試験が終わった直後、莉愛はコロナウイルスに感染した。

 はじめは喉が痛むだけだった。学校に行く準備をしているうちに、徐々に寒気がし、熱を自覚した。三十九度だった。

 感染の心当たりは試験後に萌音、詩絵里と三人で行った外食だ。幸いにも他の二人は陰性だった。

 萌音は「自分が言い出しっぺで外食に誘ったから、莉愛が感染したんだ」と電話で謝っていたが、莉愛はぜえぜえと呼吸を荒くするだけで、まともに返事をすることができなかった。

 そしてその状態は一週間過ぎても変わりなく、とうとう学校は冬休みに入った。

 クリスマスを前にしてようやく症状が落ち着いた頃、萌音から連絡があった。

 ——体調どう?

 莉愛は「だいぶ治ったけど、まだ咳が出る」と返事をした。

——じゃあ今回はライトアップ観に行くのやめとこう

 期末試験後の外食で、クリスマスに街のライトアップを観に行く話をしていた。

 萌音と詩絵里の二人で観に行けばいいのに、と莉愛は思ったが、それでは二人が罪悪感を抱くことも分かっていた。

 莉愛は「わかった。私のせいでごめんね」とだけ返事をして、ベッドに横になった。身体を横に向けると咳が止まらなくなる。だからと言って仰向けになると、今度は鼻水が喉の奥に流れてきて窒息しそうになる。熱は出ていないが頭が働かなかった。


 それから二時間ほど寝て、十三時頃に目が覚めた。

 スマホを確認すると、萌音から返信が来ていた。

 ——気にしないで。ちなみに今暇?

 療養中は暇と言えるのだろうか。

 返信は二時間前に来ていたから、きっと今返事をしても相手はすぐに気が付かないかもしれない。

 それでも既読無視をするよりかはましだと思って、莉愛は「ごめん寝てた。今は暇だよ」と送った。

 十分後に返信が来た。

 ——電話かける

 宣言通り、萌音から電話がかかってきた。

「ごめん、本当は直接話したかったんだけど我慢できなくて」

「そんなに話したいことって何?」

「いやぁ、実はさ…あ、まだ咳出ると思うから、無理に声出さなくていいから」

 萌音が一呼吸置いたり相手のことを気遣うときは、大体話が長いときだと莉愛は過去の経験で知っている。

 莉愛は「わかった。じゃあ咳して話遮ると悪いから、私の方はミュートにするね」とだけ言って、スマホの画面をタップした。ついでに萌音の声がスピーカーから出るようにする。

「本当に無理だったら電話切ってくれていいから」と言う萌音の声を聞きながら、莉愛は椅子に座った。昼寝する前よりも、呼吸が楽になっていた。

「実はわたくし、彼氏ができまして」

 思わずミュートをオフにした。

「え、本当!?」

「本当。わざわざ電話してまで嘘つかないよ」

「どこで知り合っ」まで言って、莉愛は咳込んだ。すぐに自分の声をミュートにする。

「大丈夫?まぁ、驚くのもわかるわ。一番驚いてるのはウチだからね。バイトの先輩に告白されたんだよ。いっつも優しくしてくれるじゃんって思ってたら、実はウチに惚れてたって」

 萌音が人差し指を横にして鼻をこするのが、莉愛にはありありと想像できた。

 莉愛はチャットに「よかったね」という文と、人を祝うときに使う絵文字を、考えられる限り全て打って送った。

「ありがとう、ありがとう。それで莉愛には悪いけど、クリスマスは彼氏と過ごそうと思う」

 萌音は申し訳なさそうに声音を少し落ち着けた。

「彼氏に誘われたんだよね、クリスマスに一緒に遊ばないかって。莉愛が元気なら絶対断ってたんだけど」

 ——私が元気でも彼氏の方を優先してよ

「いや、ウチは彼氏より友達を優先したいんだよ。お互い何も考えず遊べるのって、今だけだと思うから。だから」

 ——気にしないで

   もしかしたら将来の旦那さんになるかもじゃん

   彼氏も大事にしないと

「まじでごめん」

 それから他愛もない言葉を二、三交わした後に電話を切った。

 萌音が恋よりも友情を優先したいというのはおそらく本当なのだろう。しかしこれまで交際経験がなかった萌音の言葉だ。いつか一緒にいる時間も途切れ途切れになって、遊びに行かなくなるかもしれない。それまではたくさん萌音と遊ぼう。もちろん詩絵里も入れて。

 莉愛は「青春だなぁ」と掠れた声で呟いてベッドに倒れた。


 莉愛の予想はすぐに当たった。

 年越しの頃には莉愛の体調は全快していていたから、初詣にクリスマスのリベンジをと萌音を誘ったのだが、彼女はその誘いを断った。

 誘うのが遅かったらしい。彼氏は一つ年上の高校二年生で、来年は受験生だから一緒に行けないかもしれないと、萌音が絶対に断れないような約束をしていた。

 この場合は誘ったタイミング云々の話ではないだろうと莉愛は思ったが、萌音は「今年だけだから」とあくまで友情を優先するの一点張りだった。そもそも受験期に初詣にも行けないような切羽詰まった人間が、大学受験に合格できるわけがないのではないだろうか。その辺りは詩絵里に質問するとして、萌音が恋人を優先し始めたというのは事実として変わりないように思えた。

 冬休みが明けると、詩絵里は莉愛と萌音にお土産を渡した。

 父が教育委員会に所属してからは、毎年、年越しをどこかの旅館で過ごしているそうだ。

お土産は中にみっちりと餡が詰まった小さな饅頭のセットだった。詩絵里はお土産を買うのは小学生以来だと言う。

「温泉に入りすぎて、肌がかさかさになっちゃった」

 詩絵里がそう言って手の甲を擦るので、莉愛はハンドクリームを貸した。

「テレビは観なかったの?」

「うん。お母さんと一緒の部屋だったから」

「あぁ、それはもったいない」

「毎年大晦日にしか観れない番組があるって聞いたから、今年こそはって思ったんだけど、部屋に入った時点でテレビが無くなってて」

「今まではあったの?」

「うん。でも今年は予約の段階でテレビを取っ払ってもらったんじゃないかな。女将さん、お母さんの知り合いだって言ってたから」

「へぇ」

「萌音は何してたの?」

 萌音は触っていたスマホを机に置いた。

「ウチはひたすらバイト」

「嘘つけ。その前後で彼氏といちゃついてたんでしょ」

 莉愛に指摘され、萌音は後頭部に片手を置く。

「いやぁ、まぁね」

「どこまで進展したの?」

「まだ何も進んでないよ。初詣のときに、寒いからって手を繋いだくらい」

「しおらしくなっちゃって。萌音らしくないぞ」

 頬を赤らめる萌音に、莉愛は肘で小突いた。

「いいじゃん、初めてなんだから」

 こうして見ると、萌音も高校生なんだと莉愛は思う。

 萌音は他の二人をよりも先に、アルバイトという形で社会に出ている。大人だ。

 莉愛や詩絵里は、まだアルバイトも恋もしたことがない。青春は思春期の延長にあるのだと信じている。

 だから一足先に本当の青春を体験している萌音を見て、莉愛は良き友に置いていかれた気持ちになった。


 その日の帰り道、駅で萌音と別れると、詩絵里が珍しく一緒に歩くと言ってきた。

「家庭教師はいいの?」

「うん。今日は休みだから」

「珍しいね」

「テストがあるんだって」

「へぇ、大学の試験って冬休み明けなんだ」

 久々の二人きりだ。会話が続かない。莉愛は雪空に向かって大きく伸びをした。

「冬休み中も家庭教師に習ってたの?」

「うん。ずっと。旅館でもずっと勉強教えてもらってた」

「旅館って、年末年始の?」

 詩絵里は頷いた。

「言ったじゃん。旅行に行くようになったのは、お父さんが教育委員になってからだって。同僚の家族がみんな集まって宴会するんだよ」

「じゃあ、詩絵里の家庭教師って」

「そう、同僚の家族。お父さんの上司の息子さん」

 教育委員の上司。以前莉愛が調べた組織図には、上司は教育長しかいなかった。

「すごい人から教わってるんだね」

「そうかな?お父さんがすごいだけだと思うよ」

「淡泊だなぁ」

「だって、本人は勉強はできるけど、全然すごいとは思えない」

「どうして?」

「お酒に溺れるから」

 詩絵里は身に着けた手袋をぎゅっと縮ませた。

「初めて酔った先生を見た。顔真っ赤にして、私のことべたべた触ってきた。さっき萌音は彼氏と手を繋いだって言ってたけど、私はもっとたくさん触られたと思う」

 莉愛は絶句した。

 その様子を見て、詩絵里はダムが決壊したように話す。

「前から変な人だなとは思ってたんだよ。やけに指が触れるし、距離が近くて。私のことが好きだからそんなことしてるのかなって。だけど萌音の話を聞いたら私、ずっと気持ち悪い人に勉強を教わってたんだって気付いて」

「お父さんにはそのこと話してないの?」

「話せないよ。だって、私のせいでお父さんの仕事に支障が出るかもしれないじゃん」

「でも娘が嫌な思いしてるって知ったら」

「だめだと思う。だってお父さん、私が男にべたべた触られてるとき、向かいにいたんだよ。目の前で自分の子供が嫌な思いしてるっていうのに助けてくれなかった。きっと、私が大人しく触られてないといけない事情があったんだよ」

「そんなわけないじゃん。普通に考えておかしいよ。だって」

「それ以上は言わないで」

 居酒屋のひさしで雪を避けていた猫が、突然語気を強めた詩絵里に驚いて目を見開いた。

「お父さんの仕事に誇りを持ってるの。だから私なんかがお父さんの仕事に傷をつけるわけにはいかない」

「でも」

「二月にね、お母さんが家にいない日があるの。ママ友と遊びに行くんだって」

「それって」

「うん、家に誰もいない日。そして、家庭教師が来る日」

「具体的にいつなの」

「どうしてそんなこと聞くの?知っても気分悪くするだけなのに」

「いいから」

「二月三日、節分の日」

「わかった」

「急にどうしたの?怖いんだけど」

「いいの。詩絵里は気にしないで」

私が魔法をかけるから。



 二月三日は午前で学校が終わった。

 生徒が昼食をとり終わって、午後の授業が始まろうとしたときだった。

 あのとき、あの帰り道で、莉愛が何かを決意したこと。そして家庭教師と二人きりになる可能性がある今日、いつもより早い時間に下校していること。

 詩絵里は、午後の授業が無くなったのは莉愛が関係あると考えている。

 ——でも、どうやって。

 考えたくはなかった。

 急な休校の知らせに生徒達は驚いたが、その理由を探る者は少ない。

土日を挟んだ後も、学校は入学試験のため二日間休みだ。だから元々休みが四日あったのが四日半になっただけなのだが、学校がない日にわざわざ友人と会うよりも、下校中に遊んだ方がずっと効率が良いという理由で、生徒達はむしろ都合が良いと喜んでいた。

教師からは、どこかで遊んだり寄り道をせず、すぐに帰宅するようにと言われていたが、それを守ろうとする生徒は少ない。

 実際に、萌音はこのところ金欠気味だったため、すぐにバイトのヘルプに向かった。


 萌音が先に帰った後、残された二人も例に漏れず寄り道をしようという話になった。

「いっそのこと、半日でできるだけ遠くに行くとか?」

「行った後どうするの?」

「うーん、考えてない」

 詩絵里の渋い顔を見て、莉愛は諦めたような表情をした。

「じゃあ、せめて普段行かない駅に行こうよ」

「それなら、まぁ」

「決定ね」

 詩絵里は半ば強引に電車に乗せられた。

 電車の窓から見える景色が、すぐにいつもと違うものに変わる。

「不思議だよね。こうして乗る電車を変えるだけで、もう学校から遠く離れたところにいる気分になる」

「そう?」

「うん。あまり乗らない路線だからかも」

「そっか。私も、莉愛や萌音とは結局一度も遊んでないから、新鮮」

「うん」

「ねぇ」

「うん?」

「莉愛は本当に何も知らないの?」

「なんのこと?」

「今日の午後、休校になった理由」

「うーん、知らないと言えば嘘になるかな。でも絶対に教えない」

「どうして」

「教えたら魔法じゃなくなるでしょ」

 詩絵里は黙った。

 そして莉愛は微笑んで、

「そろそろ降りようか」

 と言った。

 高校の最寄りから九つ先の駅だった。


 車内は熱気が充満していたが、駅構内に降りると人が少なくて風通しが良かった。

見渡す限り、学生は詩絵里と莉愛の二人だけだった。同じく街に繰り出した生徒は、ここから三駅前のもっと栄えている街に出たのだろう。

「どこ行く?ゲーセンとか?」

「ゲームセンターは抵抗ある。お父さんが嫌ってたから」

「そんなぁ、普通に楽しいところだよ。ちょっと音が大きいけど」

「どうしても苦手。音が大きいならなおさら」

「そっか。まぁ、無理して入るのはよそう」

 それから五分ほど、商店街とその周辺を探索した。

 莉愛の裁量で降りた駅は、どこか寂し気な商店街の外れにあった。商店街はどの店も普通に営業していたが、塗装にひびがあったり、看板が茶けていたりと、いくつかの店は外観の古さが目立つ。逆に改修したばかりであろう小綺麗な店もいくつかあった。

きっとこの商店街は、蛇のように脱皮途中なのだろう。詩絵里はそう思った。

 そしてその脱皮を終えた小綺麗な店の一つに、こじんまりとした雑貨店があり、詩絵里と莉愛は入ってみることにした。

 外観は青と白を基調とした、こじんまりとし落ち着いた雰囲気の雑貨店だった。

 中には北欧雑貨がたくさん置かれていた。文房具から食器類まで様々だが、一際二人の目を惹いたのは、店の奥にあるガラス張りのスペースだった。

 いくつかのパソコンと、何かしらの機械が置かれている。その機械の隣には、店員と思われる男がこちらに背を向けて座っていた。

「3Dプリンターっぽいね」

「なにそれ」

「立体的にプリントできる機械。って、それじゃあ説明にならないか」

「へぇ」

 詩絵里は3Dプリンターを知らなかった。それぞれの単語の意味から想像したのは、彼女が以前読んだSF小説のような、もっと巨大で余計なネオン光を放つ装置だった。

 ガラス張りのスペースの横には、花瓶や文鎮など、小さめのオブジェクトが陳列していた。それらの下には、制作費用と時間を書いた厚紙が束になって置かれている。

「私達も作れるってことなのかな」

「そうかも。ほら、『お気軽にお声がけください』って書いてあるよ」

「作ってみる?」

 莉愛は一番値段が安いキーホルダーの料金票を手に取ってレジに向かった。店員と二、三言葉を交わした後、彼女は振り返って詩絵里を手招きした。

「今すぐ作れるって」

 二人は店員に連れられてガラス張りのスペースに案内された。

 ガラスに背を向けていた店員が振り返る。口ひげを丁寧に整えた丸眼鏡の男だった。

「キーホルダー、二人です」

 二人を案内した店員は、口ひげの男にそれだけ言ってレジに戻った。

「こんにちは。初めてのだよね?」

「はい」

「すぐには完成しないけど、大丈夫?」

「今日受け取るなら、何時まで待ちますか?」

「そうだな、二人合わせて六時間として、八時頃また来てもらえれば渡せると思う」

「では大丈夫です」

 莉愛は即答した。

 完成品を取りに行くのは後日でもいいのに、莉愛は今日受け取ることを約束した。これで詩絵里が家に帰らない理由ができた。

 詩絵里は下を向いた。

 親の言いつけを破ることになる。足のつま先から冷たくて真っ黒な血が流れ込んでくる感覚に襲われた。

 莉愛は既にパソコンに向かって、キーホルダーの素体を決めている。

「詩絵里、これとかどう?」

 莉愛が詩絵里を手招きして近くに来させた。

 画面中央には兎のポリゴンが立面表示されていた。兎の色は灰色だ。

「へぇ、こうやってデザインするんだ」

「学校でもこういうことしたことないよね」

「どうして灰色なの?」

「これはデフォルトの色。ここから身体や目の色を変えていくの」

 莉愛はそう言うと、画面端のパレットで色を選択して兎の胴体を白くした。

「すごい。こんなことができるんだ」

「このパレットにある色なら基本何でもプリントできるからね」

 後ろで見守っていた店員は誇らしげに言った。

「せっかくならお揃いで作ろうよ。色違いで」

「色違い?お揃いなら同じ色じゃないの?」

「私が詩絵里と同じ色を持っても、私には似合わない。だから形はお揃いでも、色はお揃いであってはいけないと思う」

 そういうものなのだろうか。詩絵里は中学生の記憶を呼び起こした。中学二年の修学旅行、私服の着用が許された最終日に、たまたま同じ服を着た女子が二人いた。

二人は特別恥ずかしがったりはしなかった。

 そのことを莉愛に話したが、彼女は悲しそうに笑った。

「それは、その二人が同じレベルの人間だったから。もしその二人のヒエラルキーに圧倒的な差があったら。片方は憤慨して、もう片方の服を剥ぎ取ってただろうね」

「でも、それなら私と莉愛は同じレベルだから、お揃いの色を使ってもいいんじゃないの?」

 莉愛は首を横に振った。

「私は詩絵里が思っているより低レベルの人間だよ。詩絵里ほど勉強ができないし、考えも浅はか」

「そんなことないよ。浅はかなんて言わないで」

「残念だけど、これは事実だから。詩絵里は白でいい?」

 詩絵里と話している間に、莉愛は兎のデザインを完成させていた。

「うん、私は白でいい」

「それじゃあ、これでお願いします」

 画面には白い兎と薄茶の兎が写っていた。

「はい。じゃあ、今から六時間後だから、八時半頃に来てくれるかな」

「大丈夫なんですか?ここって、八時でお店閉めますよね?」

「いいよ。何か事情があるみたいだし、今回は特別ってことで」

「ありがとうございます」

「あ、でも親に迷惑はかけないようにね」

 店員はそれだけ言うと、3Dプリンターに向かって作業を始めた。

 レジにいた女性店員が、莉愛の連絡先を聞く。

 莉愛が電話番号を書き終えると、店員は「夜道に気をつけてお越しください」と言って二人を店の外まで見送った。

結局、詩絵里はパソコンを一度も触らせてもらえなかった。それは慣れていないから仕方がないとして、詩絵里は莉愛がどうして低レベルで考えが浅はかなのか分かりかねていた。

もし本当にそうなら、キーホルダーの色だけでなく、形も別のものを作るべきだと思った。


 雑貨店を出ると、雪が降っていたのか、アスファルトに黒い染みができていた。

 外は駅を出たときよりも寒くなっている。鋭い冷気が制服の袖から侵入して、詩絵里は身震いした。

 莉愛はキーホルダーの製作費用を払うときに、レジ横にあったレターセットも購入したらしい。店を出るときに受け取って、リュックに大事そうに仕舞っている。

「手紙書くんだ」

「うん。何となく目に入って、気に入ったから買った」

 莉愛はリュックを背負いなおして手袋をはめた。

「次どこ行く?」

「私、カラオケに行ってみたい」

「カラオケ?音大きいけど、嫌じゃないの?」

「大丈夫だと思う。カラオケって個室なんだよね?一回休みたいなって」

「そういうことなら、行こうか」

 二人は商店街の中にあるカラオケチェーンに向かった。

 カラオケ店は改修工事前で寂れていたが、ちょうど下校途中の他の高校の生徒が何人かグループになって入っていくのが見えたから、意外と繁盛しているのかもしれない。

「ここ、結構安いんだね」

 莉愛は看板に「学生 30分50円」と記されているのを見て、感心しているようだ。

「莉愛はカラオケよく行くの?」

「よくは行かないけど、何回か萌音と行ったことがある」

「いいなぁ。私は行ったことない」

 詩絵里は以前共に行動していた三人にカラオケに誘われたことがあったが、何も歌えない、知らないのでは気をつかわせると思って断っていた。

「じゃあ今日がカラオケデビューになるんだね」

「うん」

 それが、今では自分からカラオケに行きたいと言えるようになっている。そうさせてくれたのは目の前にいる莉愛だった。

 もっとも、莉愛自身は詩絵里と壁を感じているようなのだが。

 店の自動ドアを開けて、二人は中に入った。

 店のカウンターで、莉愛はスマホに入れたアプリの会員証や学生証を店員に見せ、コップを二つ受け取った。

「何時間ここにいるかわからないから、フリータイムにしちゃった」

「そんなのあるんだ」

「うん。その代わり一品頼まないといけないんだって」

 メニュー表を見たが、たくさんありすぎて詩絵里は少し困惑した。

「たくさんあるね。どれがおすすめ?」

「うーん、私もあまりこういうのは頼まないんだけど、萌音はいつも唐揚げを頼んでるかな。油が喉をコーティングして、歌いやすくなるんだって」

「そうなんだ。じゃあ、私も唐揚げにしようかな」

 莉愛の希望も特になかったので、ただ何となく唐揚げを頼むことにした。

 カラオケ店の廊下は寒かった。換気で扉が開け放たれていた個室も、必然的に寒く感じた。莉愛は部屋の明かりをつけて、エアコンに手を伸ばす。

「たくさん歌うなら寒いくらいでちょうどいいんだけど」

「莉愛、歌わないの?」

「私はあんまり。萌音が勝手に歌っててくれるから、私は気が向いたら歌うくらい」

「そうなんだ」

 萌音は少々自己主張の強い女子のように思う。俗世を学ぶにはうってつけの対象かもしれないが、詩絵里は少し苦手だった。

 厚手のジャケットをハンガーにかけ、ソファに腰を落ち着ける。部屋は目一杯明るくしたはずだが、ほのかに薄暗く感じられた。

 なるほど、こういう閉鎖的な部屋に長時間もいれば、隣人はすぐに親友になるわけだ。そういえば、あのとき誘ってくれた三人も、カラオケに行った翌日にはよりお互いの距離が近くなり、より自分との間に見えない壁を感じた気がする。私も今日からその当事者になるのだ。

 莉愛はタブレットを見ながら歌う曲を吟味していた。詩絵里は特に歌うつもりはないので、室内を観察することにした。

 詩絵里が背を預けている壁には、マスクの着用を促す注意喚起の紙や、『Tell your mind あなたの声を聴かせて』と仰々しく記されたポスターが貼られていた。後者には美少女キャラクターがこちらに手を伸ばしていて、そのすぐ下に「バーチャルアイドル」という文字とキャラクターの名前が載っている。一体どのようにコラボしているのかは詩絵里には分からなかったが、どうやら歌のコンテストであることは理解できた。

 他には「汁物あります」と活字体で記されているものや、さっき頼んだ唐揚げ(有名らしいどこかの中華料理店が監修している)の食事関係の広告がA4用紙にプリントされて貼られていた。

莉愛は萌音みたく歌わないようだから、わざわざ唐揚げを頼んで喉を油まみれにするよりも、豚汁などで身体を温めた方が良かったのかもしれない。

 詩絵里がそんなことをぼんやりと思っていると、突然曲が流れ始めた。莉愛が入れたらしい。大きな画面に表示された曲名を見ても、詩絵里にはちんぷんかんぷんだった。

 歌いだし、莉愛は口を開いて掠れた声で音程を取った。普段の明朗で活発な声とはまるで違う、優しい歌い方だった。

 莉愛は背筋を伸ばしたまま規則正しく歌う。歌のピークに入ると、今まで落ち着いていた音程に突然幅ができて、莉愛は声を荒げるように歌った。

 それを何度か繰り返して、曲が終わる。

「歌手ってみんな声高い。全然上手く歌えないよ」

「そうなの?」

「悲しくなるくらいね。私はどちらかと言うとアルト寄りの声だから、AメロかBメロしか上手く歌えない」

「萌音は?」

「萌音も中学のときはアルトだったよ。でもあいつはカラオケになると、途端に喉が別人のものになるから歌が上手い」

 莉愛はそう言って、萌音が悪だくみをするときのような不敵な笑みを浮かべた。

「詩絵里は合唱するときのパート、何だった?」

「私はソプラノだったな」

「ぽいよね。詩絵里は声が高い方だと思う」

「そうかな。でも裏声なら誰だって高い声出るでしょ?」

「それは大きな間違いだよ。今からそれを証明するために合唱曲を歌おう」

 莉愛は素早くタブレットを操作して、曲を選んだ。

 画面に映し出された曲名は詩絵里も知っている曲だった。中学三年の合唱コンクールで、隣のクラスが歌っていた曲だ。

 莉愛ははじめこそ主旋律を歌っていたが、次第に雲行きが怪しくなり、とうとう堪えきれなくなってアルトパートを歌いだした。

「いやぁ、ソプラノのメロディって意外と覚えてないもんだね」

 ラスサビの前の間奏で、莉愛はガブガブと水を飲んだ。上手く歌えなかったのが余程恥ずかしかったのか、薄暗い照明の下でも彼女の頬は紅潮して見える。

 詩絵里は莉愛がなんだか可哀想に見えたので、まだ一度も手を付けていなかった充電中のマイクを取って、ビニールカバーを外した。

 その曲一番の盛り上がりどころに間に合った。詩絵里が立って歌うので、莉愛も合わせて立ち上がった。二人の声が和音を作って一つの束になる。

 詩絵里は控えめだが堂々とした声だった。

 歌い終えてピアノ伴奏だけになると、二人は笑い合った。大ホールで歌うような曲を狭く閉鎖的な空間で歌うのがおかしくて堪らなかった。

 莉愛は高揚しきった様子でスマホを取り出して、詩絵里に身を寄せた。一緒に写真を撮ろうということだった。

 詩絵里は咄嗟に反応できなくてぎこちないポーズになった挙句、シャッター音が鳴ると同時に目を閉じてしまった。

 案の定、二人とも酷い顔の写真が出来上がった。写真を撮った莉愛も半目になっているし、撮った瞬間によろけたから少しぶれている。

「ちょっと、これはひどすぎ」

 莉愛はそう言って再度写真を撮ろうとした。詩絵里も片手でピースサインを作って写真用の笑顔になる。

 今度は上手く撮れた。詩絵里は「さっきのは恥ずかしいから消しといてよ」と言ったが、莉愛は涙目になって笑いながら「はいはい」とだけ言って受け流した。


 その後も知っている合唱曲を二人で歌って盛り上がった。結果的に唐揚げを頼んで正解だった。

 約三時間滞在して、いよいよお互い知っている合唱曲が尽きると、二人はカラオケを後にした。外は陽が沈んで暗くなりかけているところだった。

 二人は白い息を吐きながら商店街を歩いた。

 詩絵里はこんな時間に友人と一緒にいることは今までなかったため、緊張で宙に浮いたような気持ちになっていた。きっと今頃、私が帰宅しないのに焦って家庭教師が両親に連絡をしているだろう。委員会活動で遅くなる、とでも言っておけばよかった。

 罪悪感はある。だけど莉愛と話している間は何もかも忘れられた。

 これが莉愛の言っていた魔法なのかもしれない。私に逃げる勇気を与えてくれた莉愛は、まさしく魔法使いだ。

 莉愛は腕時計を見て言った。

「まだ三時間あるね。たくさん歌ったらお腹すいちゃった」

「レストランで三時間過ごす?」

「それはできないから、ご飯食べた後は漫画喫茶に行こう」

「漫画喫茶?」

「そう、漫画がたくさんあるところ。詩絵里も読んでみたい作品いくつかあるでしょ?」

「うん。そこに行きたい」

 二人は商店街から少し離れたところにある喫茶店に入った。古民家カフェを謳っているが、開店したばかりで小綺麗だった。

 先客は何人かいたが、学生はいないようだった。大学生と思われるカップルが向かい合って談笑している。奥の方でも老齢の夫婦が静かに食事を楽しんでいた。さっきまでいたカラオケ店とは打って変わって、とても静かだ。

詩絵里はオムライスを、莉愛はドライカレーを注文して、それらが運ばれてくるまで他愛もない話をした。萌音の彼氏のこと、文理選択のこと、そして今後のこと。

「家に帰ったら、正直に家庭教師のこと話してみようと思う。お父さんが何て言うかわからないけど」

 本当に何て言われるか分からない。場合によっては殴られることも覚悟しなくてはならないと思う。そのことを承知の上でここまで来たのだ。

「莉愛、私のために色々とありがとう。もう私、何も怖くなんてないと思う」

「違うよ。私が勝手に連れ回しただけ。詩絵里は何も責められることなんかない」


 それから運ばれて来た料理を平らげ、漫画喫茶に向かうことにした。

 二人はレジ近くの人目につきやすいところに案内された。恐らく防犯のためだろう。

 詩絵里は以前映画館で見たポスターと同じタイトルの漫画を見つけたので、それを読むことにした。登場人物はみんな奇抜な髪色をしていた。

 ぱらぱらとページを捲る。周りのクラスメイトが映画の感想を言っていた。それと大きく変わりはないようだ。

 一冊読み終える。そして次の漫画に手を伸ばす。その繰り返しだった。

 莉愛は漫画を読んでいないようだった。木製の衝立で区切られているから何をしているのかは分からない。詩絵里はさっき漫画を取りに行くときにばれないように覗いてみたが、机の上にはノートが開いて置いてあった。

 勉強しているのかな。たしかに、学年末試験は今月下旬にある。不真面目な生徒でも勉強しようと思う時期だ。

詩絵里は一気に現実に引き戻された気がした。魔法をかけてくれた莉愛が、彼女の意図せぬ形で魔法の力を弱めた。

もう少し。もう少し魔法に酔っていたい。そう思うのだが、時計は二十時を指していた。


 漫画喫茶を出た後、莉愛はコンビニに行きたいと言い出したので、詩絵里もそこで温められたココアを買うことにした。

 莉愛はコピー機の前でスマホを見ながら、なにやら奮闘していた。ただコピーをとるだけなら、そんなに難しくないのに。

 かれこれ五分ほど経って、莉愛はコンビニから出てきた。一枚の写真を持っていた。

「はい。これで詩絵里も写真ゲットね」

 カラオケで撮った不細工な写真だった。何度見ても可笑しいし、恥ずかしい。

 それから莉愛はリュックから手紙を出した。雑貨店で買ったレターセットの手紙だった。

「これもどうぞ」

「ありがとう。もしかして、漫画喫茶でこれを書いてたの?」

「そう。思ったより時間かかっちゃった」

 本当に長い時間手紙を書いていた。詩絵里が知る限り、莉愛はほとんど漫画を読まなかったのだ。

 しかし手紙はかなり薄かった。おそらく一枚しか入っていない。

 あんなに時間をかけて、莉愛は何を書いたのだろう。

 詩絵里は手紙をカバンに仕舞いながら、莉愛が書きそうな文面を想像した。今まで莉愛のことを分かっていたような気でいたが、改めて考えると言葉で表現できない。

 莉愛は普通の女子高生だった。

 普通。

 今や普通が何たるかが分からない。もしかしたら自分も普通の女子高生なのかもしれないし、それよりもっと醜いものなのかもしれない。

 ——莉愛、本当に何をしたの?

 悪寒が走った。冷たい風のせいではない。


 二人は雑貨店に行き、兎のキーホルダーを受け取った。

 ころんと手の平に乗るサイズだ。継ぎ目がないのが3Dプリンターの特徴なのだろうか。安物ではないと一目で分かる。

 莉愛の兎は薄茶色の胴体をしていて、目が紺色だった。どちらも淡い色使いで優しそうな兎だ。

 詩絵里は生身の兎を優しく手で包んでカバンに仕舞った。本当は早速どこかに着けて、みんなに自慢したかった。しかしこの後、親に没収されるかもしれないことを考えると、今は隠しておくのが賢明な判断だと思われた。

 帰り道。電車に乗って窓の外を見る。外は暗くて、行きの景色とはまったく違って見えた。

 車内の暖気が心地よかった。

 ——駅から出れば、魔法が解ける。

 短かったけど楽しかった。今日のためだけに生まれてきたのだとさえ思えた。

 何も怖くない。


 家に帰った詩絵里は、予想通り父に殴られた。駅から家に向かうまでに殴られても痛くない方法を考えたが、怒る父を前にするとそれどころではなく、頬の内側の肉がえぐれる始末となった。

 母はヒステリックを起こして、何度も詩絵里の胸ぐらを掴んで前後に揺らしていた。

 家庭教師は既に帰っている。その方が都合がいい。

 詩絵里は今までのことを全て打ち明けた。目の前にいるのに父は助けてくれなかったこと、その他諸々。

 莉愛が導いてくれたことは話さなかった。今日行った所は、全て一人で気になっていた所だと話した。

あまり整理して話せなかったから、いくらか矛盾しているかもしれない。しかし詩絵里が初めて感情的になったのを見て、両親はようやく娘のことを理解する気になったようだ。

家族会議が終わって自室に入ったのは、日付が変わった頃だった。初めてのことだらけで身体はボロボロだった。

詩絵里は勉強机に向かって、莉愛から受け取った手紙を開いた。


魔法が解けるまでの気分転換に

最悪なツールをどうぞ


最悪なツール。

あの不細工な写真のことか。

莉愛らしい。詩絵里はコンビニの前で受け取った写真を取り出す。

どこを見ても笑える写真だった。半開きになった目や中途半端なピースサイン。二人の後ろには、あのバーチャルアイドルのポスターと、おすすめメニュー。

「"Tell you 汁"って。ふふ」

緊張がほどける。それまで身体を巡っていたアドレナリンが一気に引いた気がした。途端に瞼が重たくなる。

 休みが明けたら莉愛に伝えないと。魔法をかけてくれてありがとうって。

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