第四章

 莉愛の様子がおかしい。

 あの日、植物園で写真を見た後。彼女の様子が落ち着いたものから一変して、頭をかきむしったかと思えば深くうなだれて沈んでしまったりと、妙に忙しなくなった。

 それがあまりにも見ていられないほどだったので、三累は莉愛も参加しているまほう少女部のグループチャットからラブレター一式の写真を送信取り消しして、無かったことにしようかとも思ったくらいだ。それほどまでに、莉愛の変わりようは甚だしいものだった。

 あれから莉愛は部活に顔を出していない。

 もっとも、彼女には試験勉強という大義名分があるので、無理に参加しろとは言えない。そもそも彼女はまだ仮入部なのであるから、活動に参加するしないは三累や夏梅に伝える必要がないのだ。自由気ままにしていればいい。

 そのような理由から、三累は莉愛を気兼ねなく部活に誘えないでいた。

 過去に何かあったのだろうか。

 音楽室を後にし、渡り廊下に出たとき、向かいの扉から衣良が飛び出してくるのが見えた。

「あれ?あんた、美術受けてたわよね?」

 衣良も三累に気付いて目を合わせた。

「そうそう。美術室に絵の具忘れちゃって」

 美術室は音楽室の一つ下の階にあった。それぞれ授業から帰ってきた生徒が「床から地鳴りのような音が聞こえたんだけど、そんなに椅子重いの?」だとか、「天井からアヴェマリアが聞こえてよく眠れた」だとか、教室が天井もしくは床一枚隔てた関係であることをよく話題にしている。

 三累はさっきの授業でシューベルトの野ばらを歌った。一人ずつピアノの前で歌わされて、緊張で上手く歌えない生徒が続出した。

 衣良が絵の具を取りに行ったということは、美術の授業でも音楽と同じく実技があるということだ。図形の内側を濃い水彩絵の具で均一に塗る、とかそういう類の。

 それなら選択科目は美術にしておけばよかった、と三累は思った。美術史などの歴史を覚えるのは苦手だが、手先は器用な方だ。みんなの前で歌わされるよりは幾分かましかもしれない。

 そんなことを考えていた一瞬の間に、衣良は風音を立てる勢いで三累の横を通り過ぎて行った。こちらは莉愛と違って常に忙しない。

「急ぎ過ぎて転ぶんじゃないわよ」

 別館の奥の方から能天気な「はぁい」という声が反響して聞こえた。


 教室に戻ると、莉愛が次の授業の教科書を机に並べているところだった。

 ここで何か他愛のない話のひとつでもできたらいいのだが、二人はまだ出会って二週間も経っていない。ピンとこない話題を振られても、上手く会話できなくて余計気まずくなってしまう。だからといってお互いのディープな趣味を探るにも、もう少し段階を踏むべきだ。

 こういうときに衣良がいれば、と思う。

「あの、三累」

「え?」

 虚を突かれた。莉愛は三累の席の真横まで来ていた。

「お願いがあるんだけど」

 莉愛は視線を斜め下に向ける。後ろめたいお願いなのだろう。

「何?」

「この間のラブレター、まほう少女部のみんなに共有したの三累だよね。あれ、送信取り消ししてもらえないかなって」

 言われなくてもそうしようかと思っていた、とは三累は言わなかった。

「いいけど、どうして?」

「ええと」

 莉愛はしばらく考え込んでから答える。

「なんか、あれを書いた人が恥ずかしがると思って」

 絶対嘘だ。ラブレターは一人ではなく複数人の下駄箱に入れられていた。三累のクラスにも一人、同じラブレターを受け取った人がいたのだ。そうして周知されようとしているのに、恥ずかしがるわけがない。

 三累はため息をついた。

「申し訳ないけど、私はそれに納得できない。莉愛、何か隠してることない?」

「やっぱり私、怪しく見える?」

「うん」

「そうだよね」

 莉愛はうなだれた。

「ごめん。平静を装いたかったんだけど、無理だった」

「莉愛って意外と素直なのね」

 三累は小さく笑った。莉愛がうなだれたまま頬を両手で覆う。

「どうしてだろ。ポーカーフェイスは得意なはずなんだけど。前の学校に置いて来ちゃったかな」

「どうしてポーカーフェイスでいなきゃいけないの?ボードゲームで遊んでるわけじゃないんだから、もっと思った通りの顔をしていいと思うよ」

「うーん。そうだよね、そうなんだよね」

 莉愛が急にまっすぐに目を合わせたので、三累はびくっと肩を縮めた。

「でも、ごめん。今は話せることが少ないや」

「しょうがないわ。まだお互いのことを、よくは知らないんだから」

 三累は笑った。


 その日は久々に莉愛を連れて部室に向かった。

 渡り廊下を歩いているとき、向かいから小春が走ってくるのが見えた。

 小春は向かいから来るのが三累だと分かるやいなや、どたばたと走るのを止めて、静かに歩き始めた。部活の先輩は風紀委員か何かだと思っているのだろうか。

「小春、どうしたの?」

「嘉城先輩、こんにちは。机の中に筆箱を忘れたので取りに行く途中です」

 小春は「あ、波賀野先輩、お久しぶりです」と付け足して、おしとやかにお辞儀した。

「お久しぶりです」

 莉愛も小春に連れられて、ぎこちないが丁寧にお辞儀した。

 挨拶もそこそこに別れると、どたばたと走る音が遠ざかって聞こえた。小春がまた走り出したのだ。

 おそらく転びそうになるだろうが、三累はあまり心配していない。彼女は衣良と似ているところがあるが、ブレーキの調整ができる。最近分かってきたことだ。

 莉愛は別館の階段を上がるとき、転入時から変わらず息を切らしていた。

「美術室行くとき大丈夫なの?ひとつ下の階とはいえ、三階でしょ」

 莉愛は踊り場で休憩するために立ち止まった。

「美術のときはなぜか大丈夫なんだよね。ゆっくり歩いてるからかな」

 私のスピードが速すぎたか——と三累は思った。本来であれば三累と莉愛は選択科目のときでも三階までは一緒に行けるはずである。しかし三累は授業の準備を手伝う役目を負いがちであり、それは音楽の授業でも例外ではなかった。

 今後も別館に行くときだけは単独行動をした方がいいかもしれない。

「でもさ、どうして一階分違うだけでこんなに疲労度が変わるんだろうね」

「三階に行くときはゆっくり歩いてるからじゃないの?」

「それだけじゃないと思うんだよ」

 莉愛が言った。

「例えば千円と九百九十九円って、一円しか違わないのに千円の方がものすごく価値があるものって思ってしまうのと同じで、私は四階と三階の間にものすごい差を感じてしまっているのかもしれない」

「いや、単純に莉愛の体力が三階で限界を迎えるってだけの話じゃないの?」

 莉愛は心外とでも言いたげな顔をしたが、すぐに噴き出した。

「そうかもしれない。でも昨日、階段の段数を数えたら、三階と四階の間だけ一段多かったから、やっぱりその一段が悪さをしてると思う」

 それは三累が知らなかった情報だ。そういえば、段差も少し高い気がする。

「きっと特別教室の天井を高くするためなんだろうね」


 部室には既に夏梅がいた。受験生だというのに呑気にアニメを観ている。

「こんにちは」

「こんにちは。波賀野さんも、久しぶり」

「お久しぶりです」

 莉愛はぺこりとお辞儀した。

「夏梅さん、何してるんですか?」

 明らかにアニメを観ているだけだったが、三累は一応聞いてみることにした。

「何って、アニメの最新話を観ているんだよ。あ、うん、そうだな、もっと細かいことを言うと、麻波さんを待っていた」

 アニメは戦闘シーンに入っていた。小春と一緒に観ていたようである。

「もしかしなくても、小春を待たないで先に観てるんじゃないですか」

「そうだ。いいだろ、麻波さんは観るの二回目なんだから」

 夏梅は口を尖らせた。

 ああ、それならまだ許せる。そもそもこのアニメというのは日曜日に放送されるのだから、魔法少女に全てを捧げる小春が木曜日までに観ないわけがないのだ。

「ちゃんと勉強もしてくださいよ。部活のせいで大学合格しなかったら、罪悪感半端ないんですから」

「わかってるよ。アニメを観終わったら、小春と勉強するつもりだったんだ。どうせ、あと二か月しか部活にいられないんだし、もっと一年生と親睦を深めようってね」

 テレビの中で三人組の少女が怪物を倒した。実に呆気ない戦闘シーンだった。魔法少女が怪物の攻略に慣れてきたのだろう。もしかしたら来週の放送で悪の親玉が怪物を操る部下を叱責するかもしれない。それで部下も本気モードになって——。

 と、テレビを観ながらぼんやりとしていた三累の横で、莉愛が口を開いた。

「あと二か月しかいられないって、どういうことですか?」

「あれ、言わなかったっけ?うちの部活は大人になったら引退するんだよ。私の誕生日は七月十二日だから、二か月後に引退」

「そうなんですね」

 莉愛はうつむいた。夏梅とはまだ親しくないとはいえ、先輩の引退が迫っているのが心苦しいのだろうか。

「あの、この間のラブレターの件なんですけど」

「あぁ、あれね」

 夏梅はそういうと机の下からアタッシュケースを取り出した。魔法少女がプリントされていて、全体的にピンクだ。

 夏梅はその中から件の写真と手紙を出した。

 莉愛がぎょっとする。

「どうしてここに——?」

「図書委員の後輩からもらった。つまりこのラブレターは三通、もしくはそれ以上の生徒に渡っていたわけだ」

 そう言って夏梅は空になった魔法少女のケースを仕舞った。三累は見慣れていたが、彼女が幼児向けのグッズを無表情で扱うのは、傍から見て滑稽で仕方がないだろう。

「夏梅先輩は、これ、何だと思いますか」

 三累の隣に座っていた莉愛が、写真を凝視しながら言った。

「暗号」

「ラブレターでも、手紙でもなく?」

「そうだ。もしこの文章で完結しているなら、あまりに内容が薄いじゃないか」

 夏梅は短いメッセージが書かれた紙をつまんで、顔の横でひらひらさせる。

「だからと言って、暗号だと思うのもどうかしてます」

「その暗号を解いて、どうにかしようとしている本人に言われてもなぁ」

「もう解いたんですか」

 莉愛の表情に怪訝な幕が降りた。

「写真はね。手紙の方はまったくわからない」

「手紙はいいんです。写真だけわかればそれで」

 やっぱり莉愛は、この手紙が暗号だということに気付いていた。そして何か隠している。

 二人の視線が交わって、火花を散らしているようだった。三累はレフェリーにでもなった気分だ。

「どうして通報しない?」

「通報なんてできないです。こんな遠回しに言われて、取り合ってくれる大人なんてどこにもいないですよ」

「そうだね。賢明な判断だよ」

 そして夏梅はまっすぐ莉愛を見据えて言った。

「残念だけど、波賀野さんの思い通りにはさせない」

「何のことですか」

 莉愛はとぼけた表情をしているが、目からは敵意を隠せていない。

「わかってるくせに。波賀野さんは私達を共犯者にさせたくないから部活から手を引いたんだろう。入部は一か月間保留にできるって、わざわざ杉崎先生に確認したらしいじゃないか。保留にしても意味が無いだろうに」

「私にはそうするしかないと思ったんです」

 莉愛が答えた。

「だって、これは私に向けた手紙なんです。私にどうにかしろと言っている手紙なんです」

個人の問題なんですよ——と莉愛は小声で付け足した。

「いいや、違う。確かに、これは波賀野さんの知り合いが書いた手紙かもしれない。しかし宛てた相手は波賀野さんじゃない。そうじゃなきゃ、どうしてこんな古風な手段でみんなに送る必要がある」

 莉愛に宛てた手紙ではない、というのは半分嘘だ。莉愛が部活に顔を出さなくなってから、夏梅はいくつか考察を披露していた。そのひとつが既に手紙もといラブレターを受け取ったのが、福田玲果、疋田円、そして図書委員の後輩である野口舞と、名前を五十音順にしたときに波賀野莉愛の「は」に近いことだ。更に受け取った生徒がみな二年生であること、生徒玄関の靴箱にクラスと出席番号が表記されていることから、手紙の差出人が莉愛の靴箱に投函しようとしたのまで想像できる。

 それに莉愛はどこまで気付いているのか、というところで夏梅は賭けに出たのだ。

「そう考える根拠はなんですか?無差別に手紙を送りたいなら、スマホ一つでできるじゃないですか」

 莉愛はそう言って夏梅が差し出した写真を裏返して憂うような苦しい表情をつくった。そこには写真用紙の製造メーカー名が印字されている。

「この写真を撮ったのも、手紙を書いたのも、全て私の友人がやったことです。だから私が応えないと——」

 部室の扉が開いた。小春だった。

 小春はすぐに状況を察したらしく、「失礼しました」と言ってそっと扉の外に戻った。そこに今度は衣良がやってくる。遠くの廊下から小春を呼ぶ声と部室目掛けて体当たりする音が聞こえた。おそらく衣良が小春に抱き着こうとして失敗したのだ。三累はため息をついて扉を開けた。

「ちょっと、何してるのよ」

 衣良が廊下で尻もちをついていた。えへへ、と言って頭の裏を掻いて立ち上がる。

「おっ、莉愛ちゃんいるじゃん。久しぶり、でもないか」

 そのまま莉愛の隣に座った。さっきまで三累が座っていた席だ。

「入部してくれる気になった?」

「いや…今それ以前の話をしてて」

「そっかぁ、そうだよね。でも莉愛ちゃんが来てくれたってことは、手伝ってくれるんだよね?作戦」

「はいはい、衣良ストップ」

 三累は衣良の頭にチョップをしようとしたが、衣良に白刃取りをされた。こいつは空気をぶち壊すのが本当に上手い。今はそれで殺伐とした空気が和んだから、いくらか助かったのだが。

「まず、そこはさっきまで私が座っていたの。勝手に座るんじゃないわよ」

「あ、確かに少し温かかったかも。でも、みかちゃんが座ってたなんて私にはわかりようがなかったから、仕方がないよ」

 そう言いながら衣良は渋々三累に席を譲った。三累も衣良が言う通りだと思ったが、一度叱った手前、また衣良に座らせるのもおかしいと思ったので「悪かったわね」とだけ言って椅子に座った。

「小春も、入ってきて。もう大丈夫だから」

「あ、はい」

 小春は夏梅の隣に座った。衣良はテレビの前にあった椅子を引っ張ってきて、机の短辺側に座った。夏梅と莉愛、どちらの意見も最大限尊重して、あくまで中立であると主張するように。

 ——これでまほう少女部が全員揃った。

「早速だけど、莉愛ちゃんには裏門の監視をお願いするって話だったよね?」

「それは危険ではないかという話ではなかったですか?実際に当たりだったとき、波賀野先輩が危険だって」

「だから裏門の監視は少し離れた所からしようって」

「あの、聞いてないんだけど」

 莉愛は自分が何の話に巻き込まれているのか分からない様子で、困惑して言った。

「あれ?莉愛ちゃん知らないの?」

「知らないよ。その前に、波賀野さんは今回の件について単独行動するつもりだったようだから説得していたんだ」

「うへぇ、まだその段階かぁ」

 衣良は大げさに仰け反った。

「逆に単独行動で解決するものなの?想像できないんだけど」

「あるんだよ。ひとつ、確実な方法が」

 ただし、一人が犠牲になる。

 莉愛にそんなことを実行する勇気があるのだろうか。三累からすれば、にわかには信じがたい行為である。

 しかし夏梅からこっそり聞いたその方法と莉愛の転入時期、そして莉愛がどの高校から来たのかを考えると、妙に納得できた。莉愛のいた高校には三累の友人もいる。学校内部で囁かれている噂を聞くのは簡単だった。

「ううん、気になるけどそれは置いておこう。莉愛ちゃんもみんなで一緒に解決した方が安心でしょ?」

 何とも軽い口調だったが、有無を言わさぬ質問である。莉愛を誘導するには、衣良のような天真爛漫さが案外必要だったのかもしれない。

 莉愛は沈黙していた。

 それを見て小春は「だから急すぎたんですよ。もっと波賀野先輩の意思を汲まないと」などと小声で言っていたが、彼女も先ほどまでの会話を一片しか聞いてないはずであるから、実際に莉愛の意思がどうだったかなんて知るよしもない。

「波賀野さん、逆に考えてみるのはどうだろう。私達の作戦にはちょうどあと一人足りない。波賀野さんが我々に加われば、犠牲者が出ない。他人も、自分も。一石二鳥だ」

「誰も犠牲にならないという根拠は?」

「根拠はないよ。でもそれは波賀野さんの方法でもそうだろう?学校にいる人をなるべく少なくしたいのなら心配いらない。だってその日は試験対策週間と言って、午後に授業は無いんだ。ほとんどが家に帰る」

「それに、部活は自由参加。この時期なら吹奏楽部が何人か残って練習するくらいかしら」

 うちの学校はライトな部活が多いから——と三累は付け足した。

「でも、一人でも誰かいたら——」

「その辺は大丈夫。まかせて」

 莉愛はもう頷くしかなくなっていた。

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