第五章

「こちらマグノリア、席につきました」

 五月三十日。莉愛は裏門の近くにあるカフェ〈喫茶lamp〉の窓際席に座っていた。

 校舎には生徒はほとんどいない。食堂はやっていなかったし、弁当を持ってきてまで学校に居座るのは、練習熱心なごく一部の吹奏楽部員と、試験問題の編集に勤しむ教師、そして用務員くらいだった。

「ラズベリー、配置につきました」

 右耳のイヤホンから小春の声が聞こえた。スマホの画面にはまほう少女部員四人と莉愛のアイコンが、計五人分写っている。

 各々をコードネームで呼ぶようにしたのは特に意味がない、と思う。言い出しっぺは衣良だった。彼女は「犯人に名前を知られたくないから」ともっともらしい理由をつけていたが、おそらく魔法少女が仲間を本名で呼ばないのと同じことがしたかったのだと思う。

 部員にはそれぞれに植物の名前が割り当てられた。莉愛には名前が含まれているからという安直な理由で、マグノリアというコードネームが付けられた。

 腕時計を見る。長針は八分を指していた。

 十五時半まで、あと二十二分。

 写真の置き時計が指していたのが午後のことであるという保証はなかった。あれが午前三時半を指していたのであれば、こんなに神経をすり減らすようなことをしなくても済むのに。

 しかし今日の授業は通常通り行われてしまったのだ。それが何よりも、そしてやはり犯行は午後になるという根拠になった。

 ふと、夏梅の言葉を思い出す。

「犯人は複数いるだろう。時間は午後で間違いない。じゃなきゃわざわざ生徒に予告する意味がないし、目的も薄まる」

「目的って?」

「学校の評判を落としたいんだよ。うちは女子高だから。一度襲撃された学校に、我が子を入学させようとは思わないだろう?もう一度狙われるかもしれないんだから」

 ——だから絶対に日中でなくてはいけないのだ。生徒がいる日中でなくては。

 話しながら、夏梅は日本史の問題を解いていた。作戦がある程度固まってからは各々部室で勉強していた。

 学校が襲撃されて来年の新入生が激減しても、高校生活は止まることなく続くのだ。試験だって、予定通り行うに違いない。学校というのは、スケジュール管理の徹底された完璧な時計なのだ。どれか一つ、小さな歯車が外れただけで全てが台無しになる。時が止まってしまう。

 ただしそれは莉愛にとって監獄に違いないのだった。昨年二月三日に自ら歯車を外したあの日から、莉愛は毎日時計のオーバーホールを強要されている。部品が欠けているのに、誰も信じてくれない。あれは仕方のないことだったのだ。そう納得したいのに。

 ——本当に仕方がなかったの?

「こちらスノードロップ。廊下から生徒が来ました。下校するようです。どうしますか?」

 三累が言った。彼女は小春と一緒に生徒玄関で待機している。犯人が来たときに、生徒を非難させる役割を負っていた。

 時刻は午後三時十分。本館四階から正門を監視する夏梅は、三累に「放っておいていい」と告げる。夏梅は司令官だった。

 衣良はというと——彼女は植物園で花の手入れをしていた。生徒がいるかもしれないという理由からだが、今のところ誰もいないそうである。

「こちらダチュラ。今ダチュラの手入れをしてます」

 呑気である。衣良は喜怒哀楽の間二文字が欠如しているのだろうか。

「ちなみにもう少しで花が咲きそうです。いまハダニを見つけたから、退治しようと思います」

 霧吹きの音がする。

「あんた、しっかり見張ってなさいよね」

「えぇ、だって、誰もいないんだよ」

 衣良は大声でそう言って、植物園の反響音を四人に聞かせた。

「だからって——」

「先輩、誰か来ました!」

 小春が小声で叫んだ。莉愛のイヤホンから足音と用務員の声が聞こえる。

「あ、あの。今、動画撮ってて——」

 必死に弁明する。どうやら用務員は小春の格好が気になったようだ。

 小春は現在、コスプレをしている。

 部室で準備しているところを見たが、意外と似合っていた。強いて言えば、彼女の上腕筋がパフスリーブを内から押し破りそうだったのが違和感を持つポイントだ。あとは着痩せしやすい体系なのか、可憐な魔法少女と言っても過言ではない格好だった。

 小春の撮影係——という設定で一緒にいる三累は学校指定ジャージを着ていた。こちらは撮影しているというていで堂々とスマホを手に持って通話している。

 要するにこれが莉愛に「まかせて」と言った方法なのだった。

 用務員は生徒玄関の二人に軽く注意しただけですぐに去っていった。

 小春は「早く着替えたいんですけど」と泣きそうな声で言う。

 それに対して他の部員は適当に励ましたり、むしろからかったりなどする。

「波賀野先輩、もう着替えちゃだめですか」

「ごめんね。小春ちゃん、その格好似合ってて可愛いよ」

 腕時計の長針は数字の四を指していた。スマホでもちょうど午後三時ニ十分になった。

 平和すぎる。本当にあと十分で、学校が襲撃されるのだろうか。

 テーブルに置かれた豆乳ラテが、カランと鳴って氷を移動させた。

 客は莉愛とクロスワードパズルを解く老婦人だけだった。莉愛は少し薄くなったラテを飲む。

 そのときだった。

 喫茶店の扉が開き、新しい客が来る。清潔なワンピースを身にまとった女だった。

「詩絵里——?」

 彼女はぽかんと口を開く莉愛に気付き、小さく手を振る。店員に何かを告げて、彼女は莉愛の席までやってきた。

「学校、抜け出してきちゃった」

 彼女にあか抜けた印象を抱いた。髪はばっさり切ったようで、腰まで伸びていた髪は肩にかかる程度の短さになっている。

 健康的だった身体は少し骨ばっていた。

 しかし、紛れもなく詩絵里である。

「どうして、ここに?」

「莉愛に会えるかもって思ったから」

「どうして——」

「どうしてって、聞きたいのはこっちの方だと思わない?莉愛」

 詩絵里は顔を歪ませた。

「ゆるしてって言われても——一方的に関係を絶たれて、納得できるわけない」

「莉愛、どうしたの?」

 イヤホンから三累の心配そうな声が聞こえた。申し訳ないが、これは個人の問題だ。

 莉愛はマイクをミュートにして、ポニーテールを解いた。どちらかを放っておこうなんてことはできない。


 莉愛のアイコンにミュートマークがついた。何かトラブルでもあったのだろうか。

 横にいる小春もスマホの画面を見て、眉根を寄せていた。

「嘉城先輩、波賀野先輩がミュートにしたみたいです」

「みたいね」

 三累と小春は生徒玄関の壁に背を付けながら、来たるときに備えて休憩していた。

 生徒玄関からだと別館が邪魔して裏門が見えない。小春が心配だが、莉愛が今どういう状況なのか分からない以上、裏門にも意識を向けておくべきだろう。

「小春、ちょっと莉愛の様子を見に行こうと思うんだけど、ここ任せても大丈夫?」

「誰か来たら指示を仰げばいいんですよね?恥ずかしいけどそのくらいは任せてください」

「頼もしいわ。よろしく」

 三累は軽く屈伸運動をしてから生徒玄関を出た。

 莉愛は近所の喫茶店から裏門の監視をすることになっている。あの喫茶店は裏門からだとちょうど死角になっていて気付かれにくいのだ。

 予告された時刻までは八分しかなかった。莉愛の様子を確認して戻ってくるのにおおよそ十分かかる。三時半には間に合わない。もし時間ぴったりに生徒玄関を襲撃するつもりなら、小春一人に現場を任せることになってしまうだろう。犯人が三時半にどの位置にいる予定なのか検討がつかない以上、三累は駆け足で動くより他はない。

 急いで喫茶店に向かった。とりあえず莉愛が今何をしているのか知れるだけでもいい。そして戻ってくる最中に犯人が裏門にいたら、自分は緑の塀を越えよう。以前、誰かが作った通り穴がある。先生が気付いて修繕してなければ、まだ使えるはずだ。遠回りになるかもしれないが、仕方がない。

 そして喫茶店の窓が見える所まで来た。

 莉愛は——その向かいに座る誰かと話している。結んでいた髪を解いて、真剣な表情を浮かべていた。

 スマホを確認する。莉愛のアイコンにはミュートマークがついたままだった。

 だけど通話には参加している。莉愛は相手にイヤホンをしているのがばれないように、髪を解いて耳を隠したのだ。

「莉愛、聞こえていたら飲み物を飲んで」

 窓の先にいる莉愛が、一瞬顔をこちらに向けたように思えた。それからグラスを持ってゆっくりと飲み物を飲む。

 ——よかった。こちらの声は届いているようだ。まさか、誰かと話していたとは思わなかったけど。

 問題は裏門の監視をどうするかだ。莉愛はおそらく会話に集中する。三累が見張るしかなさそうだった。

「こちらスノードロップ。諸事情あって私が裏門を見張ります。ラズベリー、本当に申し訳ないけど、少し一人でいて」

 小春は「了解です」と元気に返事した。

 三累は裏門から少し離れた所に立って、スマホをいじる振りに努めた。


「本当にごめん。私がしたことは、誰からも許してもらえないものだって理解してる。でも、詩絵里を助けたかった。私には、ああすることしかできないと思ったから」

 詩絵里はこんなこと言われて、どんな顔をしているだろうか。向かいに座る彼女の顔を直視できない。突然山頂に行かされたような息苦しさを感じる。

「私は別に、助けて欲しいと言ったわけじゃないんだよ。たしかに莉愛のお陰で私は汚されずに済んだ。だけど、私が本当にして欲しかったことは」

 ——私が汚されても、莉愛が側にいればそれでよかったのに。

 莉愛は詩絵里の顔を見た。彼女は微笑んでいた。

「莉愛、聞こえていたら飲み物を飲んで」

 突然イヤホンから名前を呼ばれた。三累だった。

 心配で様子を見に来たのだろうか。莉愛は詩絵里から目を逸らす振りをして、努めて自然な動作で顔を窓に向けた。窓の奥にポツンと人影がある。三累だ。

 莉愛はすぐに視線を下げて、豆乳ラテを口に含む。緊張で喉が乾燥していた。むせないようにゆっくりと飲み込む。

「こちらスノードロップ。諸事情あって私が裏門を見張ります。ラズベリー、本当に申し訳ないけど、少し一人でいて」

 視界の端で人影が消えるのが見えた。

 作戦を外れることに対する罪悪感はもちろんある。しかし、今は目の前の友人と話すべきだと思った。

 それに、今回のことについて聞かなければならない。今聞かなければ、詩絵里はこの先一生会ってくれない気がする。彼女はその決断をしにここに来たのだろう。

「どうして手紙を書いたの?」

 私宛てじゃ、駄目だったの?莉愛はそこまで言おうとしたが、喉がつっかえて言葉が出なかった。

 詩絵里の手元に、ダージリンティーが運ばれてくる。彼女はそれをティースプーンでぐるぐると混ぜながら物憂げに言った。

「あーあ。せっかく意を決して告白したのに、スルーされちゃった」

「それは——」

「いいよ、もう。私、あの後も家庭教師から勉強教えてもらってるの。部屋に監視カメラを設置したから、前よりは触られたりしてない。それで、彼が私に今回のことを教えてくれた」

「どうして家庭教師が——あっ」

 良くない想像をした。家庭教師はどうして詩絵里にそんなことを話したのか。

「言ったことあるよね?あの人の父親は教育委員会のトップだって」

「じゃあ、教育委員会はこのことを知ってて——」

「そう。私のお父さんも知ってるみたい。あとは莉愛が想像した通り」

 血の気が引いた。

「どうして——どうしてそんなことしたの」

「莉愛のことを助けたかったから」

 詩絵里は即答した。当たり前とでもいうように。

「莉愛が私にしたことと同じように、私は莉愛を助けたの」

 何も言い返すことができなかった。そして、これがさっき喉がつっかえた理由だった。

 詩絵里のやせ細った手首は、こんなにも弱々しかっただろうか。こんなにも彼女は、自暴自棄だっただろうか。

 全て自分のためにしてくれたことなのだ。

 莉愛はそれを、心のどこかで拒絶していた。

 自己犠牲による救済。それをされた側は、こんなに苦しく、罪悪感に押しつぶされるのだと、今知った。


「こちらプラム——正門に怪しい人影あり。相手は二人と思われる」

 イヤホンから夏梅の声がする。時刻は午後三時三十二分だった。

 本当に、あの暗号通りに来たようだ。

 三累は持ち場を離れるか迷った。おそらく犯人もとい犯行グループは正門の二人で間違いないが、それだけだとは思えなかった。正門から生徒玄関までは約八分。裏口からは約五分——いや、走って三分だ。もう少し待っても十分間に合う。

「いいか、危険だと思ったらすぐに逃げろ」

 夏梅はそう言って大きく息をついていた。深呼吸をしているのだろう。

「やっぱり緊張しますね」

 衣良が緊張しているとは思えない気の抜けた声でそう言った。

「まぁ、でも一番接触しやすい嘉城さんや麻波さんの方が大変だから」

「そうですよ。私なんて、まだ入学して数カ月ですよ。まほう少女らしく、先輩方も動いてくださいよ」

 監視役の二人は後輩に痛いところを突かれて乾いた笑いをする。なんだかんだ衣良は三累より運動が苦手だ。しかし体力はあるから挙動がおかしいなりにきびきびと動く。そして、それでも余った体力は知的好奇心を埋めるのに使われているのだった。

 笑い声を聞いて三累は少し気が楽になった。大丈夫、まだ体力は消耗していない。

 三累はなるべくスマホの画面を見ながら、人の気配を全身で見張る。

 裏門に近づく影が二つあった。どちらも女性のようだが、相手はマスクをしていて顔がしっかり見えなかった。

 三累は下を見てスマホをいじりながら、ゆっくりと裏門から遠ざかる。

 ——こっちにも二人来た。裏門をくぐったら急いでそっちに向かう。

 グループチャットでそう送ったが、誰も気付いていないようだった。小声で「チャットに送った」と呟く。次いで横断歩道を渡る振りをして、裏門の方を見る。が、誰もいなかった。

 しまった。片耳イヤホンじゃ相手の走る音に気付けなかったのだ。

「裏門に二人いましたが、見失いました。急いで向かいます——」

 すぐに抜け道を探す。

 目印の飛び出たプリペットの花は切り落とされていたが、おおよその位置を覚えていたので、残された茎の断片をすぐに見つけることができた。そこから向かって右に三歩歩いたところの肩ほどの高さに、大型犬ならするりと入れるような穴がある。今はいくらか枝が伸びて、すぐには気付かないようになっていたが、木々のちょうど間だったので、よく観察すれば他の木々より縦に伸びた隙間が広いことが分かる。

 三累はなりふり構わずすぐに飛び込んだ。枝が何本か折れて、着ていたジャージの糸がほつれる。

「あっ、見えた。こっちには来ないみたい。でも一人バットを持ってる。気をつけて」

 植物園から並木道の様子を見ていた衣良が言った。

「バットは生身?」

「うん。金属バット」

「なら不審者ってことで通報しよう」

 夏梅がグループ通話から外れた。

 金属バットを持っているなら、相手は破壊活動をするつもりなのかもしれない。どちらにせよ、生徒玄関で待ち伏せして、相手が危険かどうか判断する必要はなかった。

「小春、急いで一階に人がいないか確認して」

「は、はい」

 生徒玄関にはあと一分半はかかりそうだった。その前に相手と鉢合わせるか、もしくは間に合わないか。

「衣良、なんとかして先生に伝えられない?」

「難しいよ。先生方、みんなテスト作るのに集中してるもん」

「失敗した。あんたに通報をお願いして、夏梅さんに先生の所に行ってもらうべきだったわ」

 こういうときに効率的な行動ができないのが、自分達が未熟である所以なのだ。

 こうなったら、小春に職員室に行ってもらって、私が一人で食い止めるしか——そうは思ったものの、相手は複数いて、武器まで持っている。三累にもいくらか手段があったが、明らかに分が悪い。

 そうこうしているうちに、生徒玄関が見えてきた。息が切れて、肩を上下させないと上手く空気が吸えない。

「こちらプラム。通報して、先生方にも知らせてきた」

 夏梅が言った。

「ありがとうございます。よかった、夏梅さんが先生に知らせてくれなかったら、小春に行かせるところでした」

「それはなにより」

「それじゃあ小春、息を整えて、慎重に生徒玄関まで来て。敵を迎え撃とうじゃないの」

 そして三累は、生徒玄関の入口のガラスを、今まさに割った二人に話しかける。

「こんにちは。どうされましたか?」


 衝撃音で莉愛は我に返った。詩絵里が来てからどれくらい経っただろうか。さっきまで白昼夢を見ていて、突然現実に引っ張り戻されたような感覚だった。グラスの氷は完全に解けきって、豆乳ラテが層になり始めている。

 イヤホンの先で、何が起きたのか分からなかった。不審者が来て、夏梅が通報して——。

「そろそろかな。莉愛が私の期待に応えてくれなかったから、もしかしたら怪我人とか出るかも」

 莉愛は血液が巡りだしたばかりの震える手を握って、詩絵里を覗き見るようにする。彼女は無邪気に笑っていた。

「あのときも本当にこうなっていればよかったのにね。そうすれば、莉愛がわざわざ嘘をつかなくても、私は救われてたのに」

 目の前の旧友がただただ怖かった。どうすれば彼女の機嫌を損なわずにいられるのか、それだけを考えていたかった。

「どうして、あんな方法で教えてくれたの?」

 詩絵里は「なんだ、そんなこと」と言って答えた。

「莉愛さえ助けられればどうでもよかったの。もし今、莉愛が学校にいて被害に遭っていたらと思うとゾッとする。でも、莉愛みたいなことは絶対にしたくなかった」

 詩絵里は窓から見える沙羅女の生垣を見ていた。

「だから莉愛が作った暗号で手紙を書くことにした。写真ゲット——いや、捨身月兎なんて何の冗談かと思ったけど。だからキーホルダーも兎なのね」

「でも、あの暗号も欠陥品だったよ。わざわざ文中から〈つきうさぎ〉を拾わなくても、ただのアナグラムとして解くことができるんだから」

「知ってる。私もそうやって解いたから。莉愛以外が助かればそれでよかったけど、莉愛の靴箱がどれかわからなかった。だからあてずっぽうで五か所に入れた。それで莉愛が手紙を見る機会があればいいと思って」

 莉愛の転入が遅れたことについては、詩絵里は知らないようだった。福田玲果がインフルエンザにかかっていなければ、莉愛は手紙のことを知らずにのうのうと過ごしていたのだ。しかし、莉愛の手元にその手紙は届いた。単なる偶然とは思いたくなかった。

「そうやって、私にあの時と同じことをさせたかったんだ」

 詩絵里の気持ちがようやく分かった気がする。自意識過剰かもしれないが、彼女はそうやって莉愛を取り返したかったのだ。同じ過ちを起こして、何も変わらないまま戻ってきて欲しかったのだ。

「私ね、莉愛がどうして兎のキーホルダーなんかを作ってくれたのかわからなくて、色々調べてみたの。まぁ、インターネットは使えないから、図書館でだけど。はじめは兎の性格が神経質で臆病だって知って、意味がわからなかった。私が神経質で臆病?あまりピンとこなかったし、莉愛がそんなことを暗示するとも思えなかった」

 まぁ、あなたと未練がましく話している時点で私は神経質なのかもしれないけど——。

「暗号を解いて、手紙の意味を知って、はじめてあの兎がただの兎なんじゃなくて、月兎だっていうことに気付いた。私の苗字は望月だから、兎も月に関係しているものじゃなくちゃね。莉愛が同じデザインにしなかったのにも納得。それから月兎のことを調べた。もちろん、〈捨身月兎〉のことを」

 捨身月兎。捨て身の月兎。仏教における釈迦とその周りの前世の物語——ジャータカ神話の、月に兎がいる所以となった話である。猿と犬、カワウソ、そして兎の四匹は、バラモンの姿になった帝釈天に食糧を提供する。が、兎は何も用意できなかった。だからバラモンに火を起こさせ、兎は自ら火の中に飛び込んで身を捧げたのだ。

 それに感動した帝釈天は月に兎を配した——。

「ジャータカ神話では火に飛び込んだ兎は帝釈天の力で焼かれることはなかった。だけど今昔物語では本当に焼かれてしまった。そして月に映る兎は、焼かれている姿なんだってね。あの月には、ベトナムで焼身自殺した僧侶の写真の、兎バージョンを見せられているようなものなのよ。なんてグロテスク」

 詩絵里は紅茶をすすった。

「因幡の白兎についても調べた。ワニザメを騙して馬鹿にした末に皮を剥がれた白兎を、オオナムチが助けたっていう話。まぁ、原文では〈素兎〉って書かれているみたいだから、もしかしたら白兎じゃなくて皮のない丸裸な兎なのかもしれないけど。これって、まるで私と莉愛のようじゃない?」

「どうして?」

「だって、莉愛は私を適切な方法で救った気になってる。そうするしか方法がなかったと思ってる。私は白兎として辱めを受けた。それをオオナムチの莉愛が救った。莉愛は内心そう思ってるに違いないって、私は確信してる」

 完全に言いがかりだ。莉愛はそう言い返したかったが、否定できなかった。心のどこかで、そう思いたいという願いがあったからだ。

 自らの過ちにもっともらしい理由をつけて正当化しようとするのは誰にでもあること。しかし、それで友人を傷つけるようなことは絶対にしたくなかった。

 これ以上、取り返せなくなるのは嫌だった。

「わかった?私のやったこと。立場を逆転させたんだよ」

「私がそれを望んでいなくても、詩絵里は同じことをしてしまったんだ」

「同じじゃないよ。莉愛は誰も救ってないけど、私は割りと救ったと思う。莉愛が最後のピースをはめてくれれば、完璧だったのにね」

 そんなことできるはずがない、というのは、一度できてしまった人が言えたことではない。

「私が詩絵里の言う最後のピースをはめて、それでめでたく元に戻りました、とはならないよ」

「別に元に戻って欲しいとは言ってないよ。元に戻ったら私もまた辛い思いをしなくちゃいけなくなるでしょ?」

「でも、詩絵里は——」

「私、やっぱり親友を作ることに向いていないんだと思う。莉愛の一挙手一投足が、私に多大な影響をもたらしてしまうから。私は莉愛があのときと同じようにしてくれなかったことにすごく傷ついた。それだけじゃない。もう新しい友達ができている。イヤホンしてるんでしょ?莉愛、暑がりだから滅多に髪下ろさないじゃん。この会話も友達に聞かせてるの?外してよ」

「——わかった」

 莉愛は大人しくイヤホンをテーブルの上に置いた。耳から外すとき、志水先生の声が聞こえた。

 莉愛の脳内で、何かがカチッとはまる。

 そして頭の中が酸素で満たされたような感覚になった。全てがクリアになっていく。過去の失態、友人からの責苦。そして、まほう少女部。

 後ろ髪の束を持つ。

「やっぱり、髪は結ぶに限るよ」

「ほらやっぱり。バレバレだよ」

「でも、私の声は聞こえないようにしてたから安心して」

「へぇ。じゃあ何?友達と一緒に学校を守ろうとしてたの?お互い正門と裏門を見張って」

 莉愛は素直に頷く。今なら対等に話せる気がした。

「そう。でもいいの?見張りをしただけじゃ、被害は抑えられないよ」

 たしかに、見張りだけじゃ被害が出る。だがそれは見張りが動かなかったらの話だ。

「大丈夫。私、まほう少女になったから」

「は?」

 莉愛の突飛な発言に、詩絵里はきょとんとする。

「まほう少女って何?」

「私の友達はみんな、まほう少女なの」

「だから何?友達が魔法を使って、暴力を止めるって言うの?」

 莉愛は思わず吹き出した。

 自分自身にである。

「そう、ある意味まほうだった。詩絵里、私も詩絵里と同じだったんだよ。持つべきは何でも話せる大人ってね」

 詩絵里はますますわけが分からなさそうに顔をしかめる。

「私も詩絵里も自分一人で解決しようと躍起になって、一つの考えに固執してた。私達はまだ一人の子供として守られてるんだから、そこまでする必要はなかったんだよ」

「莉愛には前に言ったはずだよ。お父さんもお母さんも、私が辛い思いをしてるのを知ってて、見ないふりしたって」

「それ、それなんだよ。一番近い親が見て見ぬふりをしたら、まるで大人全員がそうであるように錯覚しちゃう。大人全員が頼ってはいけない存在になってたし、そう思い込んでたんじゃん。実際には他の大人に話したりしてないわけでしょ?先生に話せばこうならずに済んだかもしれないのに」

「それは莉愛も同じでしょ?いや、莉愛は大人だけじゃなくて、私にすら相談してくれなかった。当事者を差し置くほど他人を信頼できないんだ」

「そうだよ」

 結局、自分達は子供以外の何者でもなかった。悪い大人だけを見て、社会を知った気になって。子供らしく、大人に頼るべきだったのだ。

「お互いに愚かだった。悪いことでしか悪人に太刀打ちできないって、誰が言った?私達はただ視野が狭かっただけなんだよ。そうしなくても方法はたくさんあった」

「でも、視野を狭めたのは大人でしょ?自分の手の届く範囲に置いて、子供の世界を狭めてる。学校だってそう。子供に道徳的な価値観をもたせたくて情操教育なんてものをしてるけど、あれは言葉の通り情報操作された綺麗な世界に子供を閉じ込めてるだけなんだよ。そうして実生活において綺麗な世界から逸脱すると、子供はすっかり萎縮して、都合のいい人形になっちゃう」

「たしかに、学校教育に性善説が持ち込まれてるのは否めない。だからって、本当に視野を狭めに来てるかと言われると、それもまた否定できると思う。今ならスマホがあって、望んでなくても酷いニュースを見る。スマホが無くても新聞やテレビで見ることは避けられないし、そうして子供は世界を徐々に広げてるんだと思う」

「だから、私にはそれがなかったんだよ」

「あったよ。いくらでも見る機会があった。授業用のタブレットがあったじゃん」

「あ——」

「あれ、自由に入れられるアプリが一つだけあったんだよ」

「ニュースアプリ」

「そう。それに図書館では新聞が読めた。いくらでも外の世界を知ることはできたんだよ。だからわざわざ自分を犠牲にしなくてもよかった。私なんて、詩絵里を助けた——実際には助けられなかったわけだけど。で、その後に親にこっぴどく叱られた。お父さんにビンタされた。自分の力でどうにかしないことって。今まで納得いかなかったんだけど、ようやくわかった気がする」

 全て自分のせいだ。だけど責任は親に向かった。莉愛はそのことに納得がいかなかった。全て覚悟の上でしたことなのに、誰も裁いてくれない。唯一の救いである詩絵里も、報われなかった。

 詩絵里は莉愛の話を聞きながら窓の外を見ていた。ため息をついて、席を立つ。

「莉愛の言う通りかもしれない。方法はいくらでもあった。だけど、私もまだ納得がいってないの。莉愛とは違って子供だから。いや、私はまだ子供でいたいから」

「私も、まだ子供でいたかったよ。無遠慮に遊びたい。無茶したい」

 莉愛は口角を上げる。詩絵里も破顔した。

「この先、会うことはないかもしれないね。私、電話使えないし」

「もしまた会えたら、そのときは微笑もう」

「そうだね」

 詩絵里はレジに向かって会計をしてから喫茶店を出て行った。

 それから少し経って、三累が入ってくる。

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