第二章
「あれ、先客?」
部室に入ってきたのは髪を編んだ生徒だった。
夏梅が指を差したのとぴったりのタイミングで扉が開かれたため、莉愛はしばし驚いた。それを見た夏梅は手を組んで顎を乗せる。そしてきまりが悪そうに言った。
「簡単だよ、二人分の足音が聞こえただけ。うち一人は明らかに馬鹿っぽいリズムだったから部員だと分かった」
「馬鹿っぽいとは心外だなぁ」
生徒は大袈裟にショックを受けていた。夏梅も冗談だったと謝る。
三累に自己紹介を促され、莉愛と彼女は互いに挨拶をした。彼女の名前は灰谷衣良。莉愛と同じ二年生で、理系クラスに属していた。
衣良は三累の幼なじみだという。なるほど、正反対だからこそ気が合うのかもしれない、と莉愛は思った。それだけ衣良は第一印象が明るかったし、好奇心に支配された落ち着きのない子供に見えた。顔の幼さは小春が勝つが、喋らせると衣良の方がはるかに幼く感じる。
向かいの席から二人の挨拶を見ていた夏梅は、頬杖をつきながら衣良に聞いた。
「灰谷さん、もう一人のお客さんは?」
「そうそう、相談があるっていうから連れてきた」
衣良が言うと、扉の影からもう一人が顔を覗かせた。莉愛が三累にされたように、彼女も衣良に手招きされて部室に入った。
「お邪魔します。二年D組の福田玲果です」
「なんか、手紙を失くしちゃったんだって。話を聞くだけでいいならっていうことで連れてきた」
玲果は扉側の真ん中の椅子に座った。最終的に夏梅、莉愛、小春の三人と衣良、玲果、三累の三人が向かい合って座ることになった。
「本当は誰にも言うつもりがなかったのですが——」
玲果が口を開いた。ちょうど向かい正面にいたのが一学年上の夏梅だったため、彼女は敬語で話す。
「先週の木曜日、ラブレターをもらったんです。靴箱に入っていました。なんだか古風だなと思いました」
女子高なのにラブレター?莉愛は声が出そうになるのをすんでのところで抑えた。玲果が女子からラブレターを受け取ったことを自覚していても、何も不思議ではないのだ。時代的にも同性愛は許容されつつある。とはいえ、莉愛の日常にはまだ浸透していないので、落ち着かない気持ちになった。
衣良や小春は大袈裟気味にうんうんと頷いている。相談されることがよほど嬉しかったのだろう。同性愛に対して理解はあると思うが、女子からラブレターを受け取ったことに気付いていない様子だった。もしくは同性愛について、自分よりも慣れているかのどちらかだ。ここではあえて何も言うまい。
玲果は話を続ける。
「実は私、ゴールデンウィーク前にインフルエンザにかかって、復帰したのが先週の木曜日だったんです」
今更だけど大丈夫だった?と衣良が聞いた。玲果は微笑んで小さく頷いた。
「ゴールデンウィーク中だね。つまりラブレターは福田さんが休んでいる間に入れられたかもしれないんだね」
「はい。なので時間は経っているのですが、捨てるのがもったいなかったので部活の道具箱に入れていました。あ、私、茶道部に入っていまして。でも、そうしたら次の日に失くなっていたんです」
玲果は声を抑えて言った。机の上に置かれた手は固く握られている。
次の日、というとゴールデンウィーク最終日だ。そこから土日を挟んで今日に至るから、ラブレターを失くしたのは三日前ということになる。その頃、莉愛は家で呆けていた。外出はおろか、誰とも連絡をとらなかった。インフルエンザが流行っていたことも知らないわけだ。
「道具箱は部室に置きっぱなしだったの?」
「うん、一人一つ道具箱を持っていて、部室にはそれをしまう棚があるんだよね。小学校と同じ感じ」
「他の道具箱に紛れ込んでいた、とかは?」
三累の問いに玲果は首を振った。
「考えられないってわけじゃないけど、道具箱には誰のものかわかるように印つけてるし、盗みでもしないと失くならないんじゃないかなって。でもそうは考えたくないんだよね」
莉愛は唸った。休日の学校。校内にいる生徒はほとんどが部活をしに来ていた。きっと茶道部だけではなかっただろう。しかし部室で失くしたのなら、部員に疑いの目を向けるのが普通ではないか?
そう思ったのは小春も同じだったらしい。小春は、盗みを働く人は絶対悪なんですから許してはいけません、とでも言いたげな顔をしている。
玲果も小春の険しい顔に気付いたのか、慌てたように言った。
「別に見つからなくてもいいんだよ。仮に盗まれたんだとしても、犯人探しをしたいってわけじゃない。誰かに聞いてほしかっただけ。ここに来たのも衣良ちゃんに誘われてだったし。そもそも誰からラブレターを受け取ったのかわからないし、返事をしても遅いと思うから。でも、まほう少女部に話せば悩みが解決するって噂を聞いて、もしかしたら手紙が戻ってくるかもって思ったんです」
まほう少女部に話せば悩みが解決する、というのはなんとも変な噂だった。もしかして、これが夏梅や三累の言う〈まほう〉なのかもしれない、と莉愛は思った。
「福田さん、悪いけどうちの部は失せ物を探す活動はしていない。ただ話を聞くだけだ。それで気持ちが楽になるならいいんだが、期待はしない方がいい」
「そうですよね、わかってます」
「でも、気が付いたときに探すようにするよ。ラブレターはれいちゃんの物だもんね」
そう言ったのは衣良だった。三累や小春も同意を示すために頷いている。莉愛も二人に続いて何度か頷いた。
玲果が部室を出た後、残された莉愛を除く四人は頭を抱えていた。
「本当に、毎回期待だけはしないで欲しいと思うのよね」
三累が唸った。
「失くし物は探さないって、さっき部長が言ってなかったっけ?」
「それは〈まほう〉を使うためにしたことだ。これが実態だよ」
夏梅が口を挟んだ。
「つまり訪問者の悩みを聞いて、それをひとりでに解決しようと?」
「そういうこと」
莉愛は魔法少女が題材となる作品を数えるほどしか知らない。しかしおおよそ秘密裏に活動する話であることはなんとなく想像できた。魔法少女は広く認知されてはいけないと暗黙の了解は語っている。まほう少女部はその約束を守るつもりらしい。
これまでに観たアニメを思い出す。世界の滅亡、もしくは人類や小さな妖精にとって悪い環境にしようとする怪物を、奇抜な格好をした登場人物が倒す。その間、被害者が発生する。少なくともヒーローや魔法少女が登場するきっかけとして。そうして彼ら彼女らに助けられ、逃げおおせた被害者は何を思うだろう。
怖い——というのが莉愛の率直な感想だった。
それは怪物が倒れた後の話である。年端もゆかぬ若者が不思議な力で助けてくれた。
全て解決した後、被害者はふと襲われた現場を見に行きたくなる。するとどうだろう、綺麗さっぱり修復されているのである。怪物の攻撃で砕けたはずのアスファルトには、襲われる前に見た、車が急ブレーキを踏んだタイヤ跡があり、被害者は過去に戻ったか幻覚を見たのではないかと錯覚する。しかしそうした人が大勢いるうちは現実であることを受け止めなければならなかった。さもなくばもれなく全員が病院を受診することになる。理由が分からないまま。
魔法を使えない一般人が見るのは、物語を構成する序破急のうち序と急だけである。人によっては序とエンドロールかもしれない。一つの作品における都合の良い登場人物であるのなら意義はないのかもしれないが、現実はそうはいかない。
そういう意味では、〈まほう〉はなんとも無責任なものに感じた。習ってもいない数学の問題に対して、〈まほう〉は勝手に計算して正解だけを教えるようなものだ。天才ならそれだけでも充分に理解できるのかもしれないが、普通は方程式を教えるべきだろう。でないとどうにも気味が悪くて仕方がない。
また、部活である以上はノーリターンでないといけないものの、あまりにノーリスクでもあるように莉愛は感じた。これでは匿名性により名誉が守られる代わりに、失敗をしてもどこにも償えない罪悪感が生まれてしまう。
——どこまでも子供で、ご都合主義だ。
莉愛は黙ってしまった。
「波賀野さんが考えていることもわかるよ。あまりにも無責任だろう?私もそう思う。部員全員が一度は考えることだ。だから〈まほう〉を使うのは未成年までだと部則で決めている」
「子供だから無責任でいられるということですね」
「そう。その代わり自分たちが解決したって自慢できないけどね」
大人に一番近い夏梅が、冗談めかしく笑った。
「さて、状況を整理しよう」
机の下からホワイトボードを取り出し、五人が見える位置に置いた。すかさず小春がメモ帳を手にする。魔法少女のグッズであるようだった。
「ゴールデンウィーク前、福田さんの靴箱にラブレターが入れられる。しかし福田さんはインフルエンザにかかっていたため、ラブレターはしばらく放置。そして先週の木曜日に福田さん復活」
夏梅はぶつぶつと言いながらホワイトボードに線を引いていた。玲果の話を時系列順にまとめているようだった。
「次の日にラブレター消失か。急ですね。福田さんがラブレターを手に入れたところを誰かが見ていたなんて線はないですか?それか前から福田さんがラブレターを受け取ることを知っていたとか」
「犯人は明らかにいますよね。前日のことを知っていたかはわかりませんが」
「れいちゃんの着物姿、しばらく見てないなぁ」
思索にふける四人をよそに、衣良が呟いた。早速考えることを放棄したらしく、椅子に座る姿勢を崩している。小春も考えに行き詰ったのか、衣良の話に乗った。
「そういえば、茶道部は部活紹介で着物を着ていましたよね。着物って可愛い柄が多いから憧れるんですよね」
「わかるよ。逆に真っ黒な着物を着て大人っぽくするのもいいよね」
「いいですね。でも私が着ると喪服っぽく見えちゃうかも。私、黒が似合わないから」
「あはは、私もあんまり黒い服着ないから喪服っぽく見えちゃうかも。お葬式には今は制服で参列してるけど、高校卒業したら喪服を着るんだろうなぁ。全然想像できないや」
衣良は立ち上がって資料棚からファイルを取り出した。
「そういえば、着物の魔法少女って見たことないよね」
「そういえばそうかもです」
「魔女がヨーロッパ発祥だから、和装と合わないのかなぁ」
「あっ、でも一応はあるみたいですよ」
いつの間にかファイルを覗きに来ていた小春が、ページを捲る衣良の手を遮った。
「ほらここ、着物じゃなくて巫女装束ですけど」
「本当だ、巫女ならいるんだね。でも巫女なら魔法少女というより陰陽師に近いんじゃないかな」
「ステッキよりもお札を持つ方が雰囲気に合ってますもんね。この巫女さん、ほうきを持っているからきっとこれで空を飛ぶんですよ」
「なんだか世界観がごちゃ混ぜになってるように感じるなぁ。神様の力を借りて変身するのかな?聖女が神のご加護で物理攻撃しちゃう的な?」
「気になりますね。部室にはDVDは無いみたいなので、帰りにレンタルビデオ屋さんで探してみます」
二人が和気あいあいとしていると、三累が口を挟む。
「脱線してないで、あんたたちもしっかり考えなさいよ。あと、アニメ鑑賞会は中間試験が終わってからね」
衣良は口を尖らせ、小春はしょんぼりとしたが、結局席に戻っても五人は良い考えにたどり着くことはなかった。
その後は各自解散という形で莉愛も部室を出た。今日行く予定だった植物園は、衣良が美化委員として花を育てていると言うので、明日案内してもらうことになった。
入部はまだ保留である。しかし部長の夏梅が一度顧問に顔を見せた方がいいと言うため、莉愛は帰る前に職員室を訪ねることにした。
職員室は閑散としている。休み明けだからか、部活に出ている先生がほとんどのようだった。机が向かい合うそれぞれの島には、教師は二人ほどしかいない。
莉愛は職員室に入って、手近な教師に顧問の名前を伝えた。教師が右奥を指差したため、莉愛は礼を言って奥に進んだ。
進んだ右奥の窓側には教師は一人しかいなかった。黒いカーディガンを羽織っているせいか、逆光を浴びてパソコンに向かって集中している様子が陰気臭く見える。莉愛が近付くと、気配に気付いて目線を動かした。
「何か用ですか?」
教師は真ん中で分けた長い前髪をかき上げて聞いた。しばらく水分をとらなかったのか、声は久々に喋ったときのように掠れていた。
「あの、まほう少女部に入部を考えていて。あ、転入生の波賀野莉愛です。二年B組の」
「ああ、噂はかねがね。三年E組担任の杉崎志乃です。まほう少女部の顧問もしています。今は三年生の社会科目を教えているから関わるのは来年だろうと思っていたんですけど、まさかこんなにも早く。しかも、まほう少女部に興味を持つとは思っていなかったわ」
杉崎先生はそう言うと椅子をくるりと回転させて莉愛の方にまっすぐ向けた。窓から入る光が先生に当たって、紅潮した頬を浮かび上がらせていた。彼女は皮膚が薄いらしい。
「はい、クラスメイトのみか——あ、嘉城さんが入ってるって聞いて興味を持ったんです」
「三累ちゃんね。部室には行った?」
「行きました。魔法少女のDVDがたくさんあってびっくりしました」
「すごいよね。あそこの資料は年々増えているし、そろそろ部室を広くしてもいいんじゃないかと思っていたんだけど、部員が増えてくれるなら上に打診する口実になって助かるわ」
「えっと、まだ入部すると決めたわけではなくて——」
莉愛は言葉が詰まった。入部をためらっている理由。その最たるものが外部には秘密なのである。その範囲は顧問にまで及ぶのか、莉愛には分からなかった。
「そういえばそうね。考えているだけだもんね」
先生は腕を組んで納得したような仕草をする。
「ところで、波賀野さんは魔法少女好きなの?」
「まぁ、人並みには」
「そう。今の部員は並々ならぬ熱意を持っているから少し引いちゃうこともあると思うけど、優しい目で接してもらえると嬉しいわ」
先生はそう言ってウインクした。
「入部を即決できない理由もわかるわ。特殊だもんね。それに他にも魅力的な部活はある。運動部はそこまで強くないけど初心者大歓迎だし、文化部も外部の催しに参加することが多いから、どの部活もやりがいがあると思うよ」
それに比べたら、まほう少女部は自由度が高いと思う。何をするわけでもない。魔法少女もののアニメが放送されれば観て、たまに感想を言い合う。そもそも部室に行く行かないも自由だから、部員が全員集まる日は珍しい。
「よろず屋の開店休業みたいなときはね」
「先生は、まほう少女部の活動を知ってるんですか?」
「顧問だからね。それか、元まほう少女部員って言った方がいい?」
杉崎先生は活動内容を全て知っているようだった。そして莉愛がそれについて悩んでいることもお見通しのようだった。莉愛が驚いた表情になると、先生は柔らかい笑みを作ってデスクに向き直る。
「まぁ、一か月間は仮入部ってことにして、気楽に参加してね。色々と思うことはあると思うわ。ゆっくり考えてちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
職員室を出て、校舎を後にした。
並木道を歩いていると、植物園に続く小道から声が聞こえる。
「おーい」
声の主は衣良だった。手には雑草が詰まった小袋を持っている。
「さっき職員室の窓に莉愛ちゃんっぽい人が見えたんだけど、何してたの?」
「杉崎先生に挨拶してた。夏梅先輩に、入部はまだしないにしても顧問に顔は見せとけって言われて」
「そっかぁ、なっちゃん先輩らしいかも」
「衣良ちゃんは何してたの?」
「水やりとミントむしり。ミントってめっちゃ繁殖するから、他の植物を食い荒らしちゃうんだよね。ゴールデンウィーク前に一年生が苗を植えたらしくて、そのこと上級生は知らなくて放置されてたんだって。今朝見たら他の子の土に侵入してて大変だったよ」
そこまで言うと、衣良は手に持っていた袋を突き出した。清涼感のある香りが莉愛の鼻に届いた。
「ゴールデンウィーク中は気付けなかったんだね」
「そうそう。学校が休みのときは当番制で水やりしてるから、細かいところまで目が届かないんだよ。今年のゴールデンウィークは結構天気良かったし、一週間も放置したら深いところまで根が張っちゃって」
言いながら衣良は空いている方の手で腰を叩く。
それから莉愛をその場に待たせて、ミントが大量に入った袋を捨てに行った。
戻ってきた衣良の肩にはカバンがかかっていた。腕についていた土汚れなどは洗われて無くなっていた。
「おまたせ。今日は飽きたから私も帰る」
「途中でやめちゃって大丈夫なの?」
「うん。今日は応急処置だけして帰るつもりだったから」
「そっか。衣良ちゃんの花は大丈夫だったの?」
「全然平気だったよ。花壇の角を使ってるからかな。でも私も繫殖力が強い植物を育ててるから、ミントを植えた子に先達として色々教えなきゃいけなくなっちゃった」
「大変だね」
「本当。お陰でしばらくは部活に顔出せそうにないよ」
この学校の名物である植物園が全てミントで埋め尽くされたら一大事だ。だから植物園の管理もこなさなければいけない美化委員は、精力的な部活とほとんど変わらない拘束力を持っているのだろう。
「ところで、衣良ちゃんは何を育ててるの?」
「色々。年間通して花が咲くようにしてるよ。もう少しすればスズランが咲くと思う。繫殖力が強い植物はダチュラっていうアサガオを育てていて、それは夏頃に咲くよ」
「ダチュラって、確か毒があるんじゃなかったっけ?」
「うん、あるよ。チョウセンアサガオとか、トランペットフラワーとか呼ばれてるね」
「やっぱり。小説に出てきて知ったんだよね」
莉愛は小説の名前を衣良に告げた。
「そうなんだ。先生にも同じこと言われたなぁ。ダチュラ自体は園芸界隈でもよく育ててる人がいるんだよね。毒があることもみんな知ってるんだけど、やっぱり綺麗だから。ほら、美しいものには毒があるって言うじゃん」
「たしかに、小説でも幻想的というか、すっごく綺麗に書かれてた気がする」
「でもダチュラってそれだけじゃないんだよ。知ってる?世界初の全身麻酔薬はダチュラから作られたんだよ。しかも日本人が作ったんだって。それよりもっと前から薬として使われていて、今では薬の原料として使われてる。すごくない?」
「薬の原料を育ててるって思ったら、すごいかも」
「でしょ?だから、私はそういう歴史的な浪漫を育ててる」
「じゃあスズランにもそういう歴史があるんだね」
「そうだね。スズランは昔ヨーロッパで使われてたらしいよ。今はどうか分からないけど」
そこまで話して、莉愛と衣良は正門を出た。
「私、駅あっちだから」
「へぇ、莉愛ちゃんそっちの方向なんだ。珍しいね」
「うん。というか、定期券の取るときに一駅分間違えたみたいで、しばらくは遠回りしないといけなくなったんだよね」
「あぁ。それ、みかちゃんも同じことしてたなぁ」
どうやら、新入生なら誰もが一度は犯すミスのようだった。
二人は歩き出す。衣良は莉愛と一緒に遠回りをする方向に進んだ。
「三累って、衣良ちゃんと幼馴染なんだよね?」
「うん。幼稚園どころか、生まれた病院も同じだよ」
「すごい。じゃあ、今までずっと一緒だったんだ」
「そうだね、気付いたら。意外?」
「少し意外かも。なんていうか、三累と衣良ちゃんって性格真逆っぽいし」
「もしかして、みかちゃんのこと真面目なインテリ眼鏡ちゃんなんて思ってない?」
「そんなことないよ。でも、見た目は多少そうかも」
「あぁ、あれはね、中一の冬頃かなぁ。眼鏡をかけ始めた頃に、見た目だけで内申点を上げてみるって言って、それに成功したんだよ。それまでは男の子みたいな見た目でさ、ザ・やんちゃって感じで——」
「こら」
気付いたら後ろに三累がいて、衣良にどついていた。
「私の話はするんじゃないって言ったでしょ」
「ごめんごめん。それにしても、追いつくの早かったね」
「あんたが莉愛と仲良く帰るのが見えたのよ」
「あはは。だって、みかちゃんが猫かぶってるのが面白くて」
「猫なんてかぶってないわよ。ただ見た目に気を使っているだけ」
「そう言うけどさ、みかちゃん普段着は——」
「それ以上言ったらあんたの秘密もばらすわよ」
「あはは、二人とも仲良しだね」
夫婦漫才のようなやり取りをしていた衣良と三累は、莉愛という第三者の存在をようやく思い出して口を閉ざした。
「と、とにかく。莉愛、こんな奴のことは話半分に聞き流してればいいからね」
「そうそう、私も脊髄反射のようにしか喋らないからさ。で、いつか三人で遊びに行こうよ。みかちゃんの私服見たらびっくりするから」
三累は再び衣良のことをどついた。莉愛もそれ以上は聞かないことにした。
結局、転入初日の夜は三累のノートを写すので終わった。次の日には返さないといけない教科が多かったため、いちいち内容を理解する暇はなかった。
それでも三累のノートは教科書を読まないでも内容が分かるように整理して書かれていたため、写しながらいくらか勉強できたように思う。そうでなくても教科書のページがしっかりとメモされていて、すぐに授業に追いつけそうだった。これほど有用なテキストは他のクラスメイトからノートを借りてもなかなか無いだろう。人運に恵まれているかもしれない。
莉愛はスマホで、交換した三累のⅠDをタップしてチャットで礼をした。今度喫茶店に行って、ドリンクの一つでも奢るよと送った。
翌日も莉愛は三累と一緒にまほう少女部に出向いた。途中で衣良と合流して、他愛のない話をしながら徐々に人が少なくなっていく別館の廊下を歩いた。
部室には誰もいなかった。これといって決まった活動があるわけではなく、昨日福田玲果から受けた相談について熟考するのも一つの手だったが、莉愛の学業を優先して三人で授業の復習をすることになった。
窓から見えるグラウンドから運動部の掛け声が聞こえる。五月上旬とは言えど、外は夏を感じさせるほど暑かった。時折外にいる生徒の悲鳴が開いた窓から入ってきて、少しおかしかった。
莉愛が黙々とワークブックの問題を解いていると、三累が話しかけてきた。
「そういえば、莉愛」
「なに?」
「昨日、夏梅さんが文系っぽいって話をしたじゃん」
「うん。たしか夏梅先輩って本当に文系だったんだよね」
「夏梅さんが受けてる授業って、私たちとは少し違うんだって。私たちの代から教育カリキュラムが変わったから」
「そうなんだ。それじゃあ勉強を教えてもらうのは難しいかもしれないね」
衣良がぴくりと反応する。
「莉愛ちゃんって文系に行きたいの?」
「うん。理系が得意だから理系クラスに入ったけど、本当は文系に行きたい」
「へぇ、どうして?」
「ううん。そう言われると答えづらいかも。魔法少女っぽく言えば、未来を変える力が欲しいからかな」
「なにそれ、かっこいいね」
「でしょ?」
「未来を変える力といえば、魔法少女って頼まれて魔法少女になるキャラが多いよね。それもマスコットキャラのエゴで」
「そうだね。そういうときは大抵別の世界が滅亡に瀕してることが多いと思う」
「もちろん地球自体が危険に晒されてるっていうパターンもあるけど、自分で未来を変えたいって言うキャラはほとんどが未来人か同じ時間をループしてるよね。もしかして、莉愛ちゃんは未来から来たの?」
「そんなわけないよ。未来を変える力って言ったけど、実際は正しい逃げ道の選択肢が欲しいだけ」
「というと?」
「えっと、例えばカエサルが言った『ブルータス、お前もか』ってあるじゃん」
「あぁ、たしかブルータスってカエサルにすごく信頼されてたんだけど、裏切ってカエサルの暗殺に加担しちゃったんだよね」
「えぇ、どうして二人とも知ってるの?世界史でもまだ習ってないじゃん」
「私はブルートゥースの語源を調べて行きついただけ。調べてるとき衣良も隣にいなかったっけ?あと『ブルータス、お前もか』自体はシェイクスピアの作品で有名なはずだから、世界史っていうより文学なんじゃない?」
「うん。実は私もシェイクスピアで知ったの。で、カエサルが暗殺された理由が理不尽すぎるなって思った。ちゃんと歴史を勉強するとそうでもないことがわかったんだけど。それと一緒に、あっさり騙されるなとも思った。びっくりするくらい死亡フラグに引っかかるんだよ」
「まぁ、そう言われればそうかもね」
「で、そういう事例がいろんな歴史に散らばってるんじゃないかなって思ったの」
「じゃあ、莉愛ちゃんは色んな歴史を集めて死亡フラグを回避したいんだ」
「そういうこと。あ、語弊があるから先に言っておくけど、現実では死亡フラグなんてそうそうないから、あくまで例えばの話だよ。私が言いたいのは、過去の歴史上の人物が間違いを犯したとき、どんな悲惨な目にあったかを知っておけば、私自身が間違えることはほとんどなくなるんじゃないかなってこと。ゲームでいうと、絶対に失敗するであろう選択肢を先に知って、消去法で正しい選択肢を選べるみたいな、ある意味チート状態になれると思ったんだよ」
「なるほどね。数理は現象の予測はできても心象を読み解くことはできない。実際に生活に影響するのは人間関係であることの方が多い。莉愛はそう思ったわけだ」
莉愛は頷いた。
正直、莉愛は文学や歴史に対して面白いとは思えていない。莉愛にとって生きる上で学んだ方が良いと思ったのが文系科目だったのだ。
「文系かぁ。莉愛ちゃんの話聞いたら私も興味出てきた。そういえば、れいちゃんの友達が文系クラスだった気がするなぁ」
「れいちゃんって、昨日相談に来た福田さんのこと?」
「そうそう。たしか同じ茶道部の子が…そうだ、疋田さん」
「あぁ、そういえば。彼女はたしかF組よね。文系クラスだわ」
「今部室にいるかもしれないから呼んでくるよ」
衣良はそう言って勢いよく立ち上がった。
「えぇ、急すぎるよ」
「衣良はああいう子だから」
扉を開けて出て行く衣良には既に二人の声は聞こえていないようだった。莉愛も制止しようとして上げた手を引っ込める。
「でも、文理変更したいなら実際に文系クラスの子に勉強を教えてもらうのも大事かもね。私たちも文系科目は得意じゃないから、教えられることは限られてるし」
「まぁ、自習だけじゃ限界があるだろうし、過去問とか欲しかったから助かるんだけど」
ほどなくして、衣良が帰ってきた。誰もつれて来ていないということは、どうやら文系クラスの同級生は茶道部にいなかったらしい。
「よく考えたら、今日は活動してない日だった」
「そうなんだ。ちなみに、いつ活動してるの?」
「水曜日と金曜日だったかなぁ。どっちかの曜日に茶道の講師が来て和菓子を食べるって、れいちゃんから聞いたことある」
「うん?まって、それっておかしくない?今日は火曜日だから活動しないんだよね。なら木曜日は?福田さんは木曜日に学校でラブレターを受け取ったって言ってなかった?」
三累は机の収納ラックからホワイトボードを取り出して、そこに書かれた時系列を指さした。
「ほら、木曜日に学校に来てる。部活で来たわけじゃないってこと?」
「でもゴールデンウィーク中だよ。休みの日は例外的に活動してるんじゃない?」
そのとき部室の扉が開いた。夏梅だった。顔は心なしかげっそりとして見える。
「お疲れ。なんだ、今まで勉強してたの」
「あ、お疲れ様です。夏梅さんは?」
「私は図書委員の手伝い。新しい本の仕分け作業を手伝ってた」
そう言うと、夏梅は腕を回して肩をほぐした。
「図書館って、別館から結構遠いですよね」
「まあね。本当はそのまま帰ってもよかったんだけど、波賀野さんが部活に来てるんじゃないかと思って。これでも私、部長だし」
夏梅が得意げにしているのを、莉愛は苦笑いで流した。
三累がホワイトボードを差し出す。
「夏梅さん、昨日来た福田さんに関してなんですけど」
「あぁ、それについてはある程度わかったよ」
「わかったって、ラブレターがどこにあるかですか?」
「そう。あくまで偶然こうなったんじゃないかって話だけど」
「早速その推理を聞きたいところですけど、実はもう一つ疑問が生じて」
「なんだね」
夏梅はまるでカイゼル髭でも生えているかのような古風な喋り方をして、三累の向かいに座った。パイプ煙草でも持っていれば、もっと様になっていただろう。
「茶道部って木曜日にはほとんど活動しないらしいんですよ。でも福田さんは学校に行って部室にも入った。どうしてなんだろうって」
「簡単じゃないか。部活があったんだよ」
「だから、木曜日にはほとんど活動しないって」
「ほとんど、だろう?たまたまその日は例外だったんだよ。まったく、嘉城さんは真面目が過ぎて猪突猛進になるところがある」
「でも——」
「じゃあどうしてその日が例外だったかを考えてみようか。まず、その日は五月になったばかりで、ゴールデンウィークだった。翌日には茶道の講師が来る」
「どうして金曜日に講師が来るってわかるんですか」
「茶道部の子に聞いたんだよ。それとなくね。それでわかったことがあるんだけど、うちの茶道部は大会に出ている」
「大会?茶道にそんなものがあるんですね」
「まぁ、正式には伝統文化フェスティバルと言って、争うようなものではないらしいがな。そして、うちの茶道部はそのフェスティバルを目標に活動してる」
「今ネットで調べてみましたけど、それって十二月に開催しますよね。いくらなんでも早くないですか?」
「早いね。でも、三年生からしたら最後の青春の年を飾る大事な催しだ。集大成と言ってもいい。だから後れを取るわけにはいかないんだ。それに、茶道の講師は厳しい人だった。初心者にも厳しい」
「そっか!五月に入って、一年生が正式に入部したんだ」
それまで黙っていた衣良が急に声を上げた。夏梅は大きく頷く。
「そうだ。茶道って意外と難しいんだよ。経験のある子が入部すれば先輩も楽できるのかもしれないが、今年はなんと初心者が五人も入った」
「五人!?」
「ああ。二、三年の部員が合わせて三人しかいないところに、初心者が五人も入部した。仮入部中は稽古に参加していなかったが、五月の初稽古までにはせめて茶会の流れを教えておく必要があった。講師がそうしろと言っていたからだ。当然、一人の先輩が面倒を見れる人数は限られていて先輩は焦っていた。そして福田さんはインフルエンザにかかった」
「そんなことがあったんですね」
三累は唖然としていた。
「それなら木曜日に部活をするのも納得だろう?もちろん十分に休息をとった後で、福田さんは一年生を指導するために学校へと出向いたんだ。次の日の稽古に備えて」
夏梅はふう、とため息をついた。
「ここからが本題だが、福田さんは木曜日にラブレターを手に入れて、金曜日に失くした」
「稽古の日ですよね」
「そう。それが大きく関係している。稽古の日だから失くしたんだ」
「どういうこと?」
「福田さんの言葉を思い出してみてほしい。彼女はラブレターが古風だと言った。あのとき、私たちは手紙で告白すること、そしてそれを靴箱に入れることを古風だと言ったんだと思っていた」
「そうじゃないの?だって、そんなの昔の漫画でしか読んだことがないよ」
「それは灰谷さんの場合だろう。今でもそういうシーンはあるんだよ」
「でも、そう考える以外に何がありますか?」
「それがあるんだよ。私たちは福田さんの話しか聞いてなくて、実際にはそのシーンを目撃していないんだ。だからラブレターがどんな見た目をしていたか、そして何が書かれていたかまでは知らない」
三累は、あっと声を出した。
「そっか、ラブレターは縦書きだった」
「惜しい」
「えぇ、それじゃあ——」
「縦型の封筒だった?」
莉愛がつぶやくように聞いた。
「正解。私もそう考えたわけ」
「あぁ、そりゃ古風だ。古風というより、事務的だ」
「福田さんが事務的だと思わなかったのは、その封筒にいくらか装飾が施されていたからなんじゃないかな?」
「そういうの売ってますよね。縁に和風の絵が描いてあって、値段もそこそこの」
「そして、そんなラブレターが封筒ごと盗まれたんだ」
「ううん、なんでだろう。まったく話が見えません」
三累が唸る。夏梅は壁時計を見た。
「下校時間が近いから、あまり長くも喋ってられないな」
依然として正解に辿り着けない三人は、それぞれ開いていたテキストを閉じて、夏梅に注目した。
「木曜日、福田さんは部活に参加して、靴箱に入っていたラブレターを道具箱にしまった。金曜日の稽古当日、おそらく部長が講師に渡す月謝の封筒がないことに気付いて、たまたま福田さんの道具箱に入っていた封筒を使った。これが私の推理だ」
話を聞いていた三人はポカーンとしていたが、数秒しないうちに衣良が天井を見上げて大きくのけぞった。体重を預けられた椅子の背もたれが軋んだ音を出す。
「うわぁ、月謝かぁ。全然気付かなかった」
「そっか、その月一回目の稽古なら月謝を渡すわよね」
衣良と三累はやっと謎が解けた喜びを嚙みしめていたが、莉愛には疑問が残った。
「夏梅先輩、肝心の封筒の中身はどこに行ったんでしょう?」
「決まってるよ、封筒の中だ。福田さんが古風だと思ったのは、もしかしたら便箋が和紙だったからかもしれない。それなら薄っぺらくて、封筒の中に入っていても気付かないはずだ。今頃、お金と一緒にラブレターを渡された講師は困惑してるに違いない」
「それじゃあ、その講師から取り戻さないといけないですね」
「取り戻してどうするの?」
「福田さんにばれないように靴箱に入れる」
「問題は誰が取り戻しに行くかだな」
「私が行くよ」
椅子を傾けて揺れ動いていた衣良が、元の位置に戻って背筋を伸ばした。
「ちょうどお茶が飲みたかったんだ」
翌日、衣良は玲果に茶道に興味がある旨を伝えて講師を紹介してもらった。茶道部の見学をするつもりがないことは玲果にとってもありがたかったようで、特に疑われることはなかった。そして木曜日に茶道教室を開いているというので、次の日衣良は単身で教室に参加することにした。
茶道教室は講師である久保田佐代子の店で開かれていた。商店街からやや外れた通りに呉服屋があり、久保田はそこのオーナーに嫁いだのだと言う。見渡す限り床は畳で、衣良は初めて日本家屋というものに触れた気がした。
呉服屋の奥に通されると、まずは着物の着付けをしてもらった。久保田は着物初心者には着物で具合が悪くなる人もいると言い、呼吸がしやすいように緩めに衣良の着付けをした。着物は薄い朱色で、細かな白い点が描かれていた。
「あ、この模様知ってる。江戸小紋だっけ?」
「あら、よく知ってるわね」
「れいちゃん——福田玲果さんに教えてもらったんです。万能な柄なんですよね」
「そうですね。基本、小紋はおしゃれ着として着ますが、江戸小紋の紋付であれば結婚式などのフォーマルな場で着ることができます。特に今あなたに着せている江戸小紋は鮫と言って、江戸小紋三役という、より格の高い模様なんですよ」
「へぇ、それは知りませんでした」
衣良は他に、着物の格について玲果から聞いたことを話した。玲果とはいつも着物や和菓子の話をする。ほとんどの話が衣良にとって初めて知ることだったが、玲果は話を聞いてもらうだけでよかったし、衣良も新たな知識が得られて満足していた。
帯締めを結んで衣良の着付けが終わる。
一時は着物を無理矢理買わされるのではとひやひやしていたが、久保田にはまったくその気はなく、むしろ孫ができたようだと喜んで、衣良に和装グッズをプレゼントしようとさえした。その様子が、先日夏梅が言ったことと矛盾していたため、衣良には気味が悪く感じられたが、話を聞くと久保田は茶道部の顧問に言われてあえて厳しくしているとのことだった。
それから二人は階段を上がって茶室に移動した。階段は一段ごとの段差が小さく、着物姿でも上りやすいように設計されていた。ついでに綺麗な階段の上がり方を教わる。
茶道教室の生徒は衣良の他に二人いた。二人は先に茶室に入って畳に座っていた。どちらも衣良の母親より歳を取っているようである。衣良の顔を見るやいなや、二人は口を揃えてお互いの顔を見た。あらまぁ、といったように。
「見かけない子ねぇ」
「学生さんかしら」
「はじめまして、灰谷衣良です。高校二年生です」
衣良が挨拶すると、二人は揃えた手を口に持ってきて表情を更に明るくする。平安時代に十二単を着た人がするような動作だった。
「あらまぁ、若いのねぇ」
「高校って、沙羅女のことかしら。あそこの植物園はしょっちゅう行っているわ」
「はい、植物園いいですよね。私、あそこで花育ててるんですよ」
「あら!じゃああなたも花がお好きなのね?今度うちで育てている花を紹介させて」
「はい、ぜひ」
わざわざ話題を考えなくても簡単に輪に入れそうだ、と衣良は思った。
その後も衣良はいくらか質問責めにあって、疲弊し始めたところで茶道教室が始まった。
慣れない着物で動きがぎこちなくなっていたが、先達の二人が何度もアドバイスをくれたお陰で衣良は無事稽古を最後まで受けることができた。
着物を返した後、久保田と一緒に外に出る。
「ありがとうございました。練り切りも美味しかったです。まさか季節ごとにモチーフが変わるとは」
練り切りはつつじの花がモチーフになっていた。舌に染みる柔らかい甘みを、衣良は感動しながら味わっていた。それだけを楽しむために教室に通うのもありだと思うくらいだ。
「私も衣良ちゃんみたいな子が来てくれて嬉しいわ。またうちで稽古受けてね。和菓子もたくさん用意しておくわ」
「はい、ぜひ。一緒に稽古受けてくれたお二人にも、よろしくお伝えください」
そう言って衣良が呉服屋に背を向けたとき、ふと忘れていたことを思いだした。急に眠気から覚めたように、はっとする。好奇心旺盛なあまりに、一番成し遂げなければいけないミッションが頭から消えていた。
ええい、単刀直入に聞いてしまえ。衣良は急いで振り向いた。
「佐代子先生、大事なこと聞くの忘れてました!」
急に振り向いた衣良に、久保田は引き戸を閉める手をびくりと跳ね上がらせた。
「どうしたの?」
「あの、この間の茶道部の稽古で月謝が渡されたと思うんですけど、渡された封筒に手紙とか入ってなかったですか?玲果ちゃん——福田さんが間違って入れたかもしれなくて」
目の前の少女にまくし立てられて一瞬驚いた久保田は、数秒考えこんだ。そしてかぶりを振った。
「いいえ、いつもより豪華な封筒だとは思ったけど、中にはお金しか入っていなかったわ」
「そうですか」
衣良はがっくりと肩を落とした。
美術室に向かう途中、後ろから衣良が抱き着いてきた。莉愛は驚いて首だけ振り返る。
「衣良ちゃん?」
「莉愛ちゃんも美術を選択したんだね」
選択科目は理系と文系それぞれ四クラスごとに合同で受けることになっていた。教科は美術、音楽、書道の三つだ。クラスあたりの生徒数から計算すると、一度の授業で受ける人数はおおよそ五十人弱だった。多少窮屈に感じるかもしれないと莉愛は思ったが、それぞれの教室は普通教室よりも倍以上大きく、杞憂であることがすぐに分かった。
転入してから五日、初めての単独行動である。それまではもっぱら三累と行動を共にしていたが、彼女の選択科目は音楽だ。
莉愛が一人で行動するのは、授業のルーティーンを一周する金曜日にして初めてだった。
「れいちゃんも美術選択なんだ。三人で並んで座ろう」
莉愛は衣良に抱き着かれたままで後ろを確認できなかったが、どうやら玲果も一緒らしかった。
「玲果ちゃん、月曜ぶりだね」
「うん、月曜ぶり」
「ラブレターは見つかったの?」
玲果の返事はなかった。そして莉愛の耳元で衣良が言う。
「実は、そのことで話がしたかったんだ」
「え?」
「まぁ、まずは授業を受けなきゃ」
隣の席で授業を受ける衣良と玲果は、終始無言だった。
集中できない。ラブレターは見つかったのだろうか。玲果はどうして返事をしなかったのだろうか。そんなことを考えるうちに授業は終わっていた。
美術室を出ても、衣良はラブレターの件を話さず、ずっと茶道教室に行った話をしている。玲果も真剣に聞いているから、話を切ることもできない。
渡り廊下に出たとき、前を歩いていた衣良の提案で一緒に昼食をとることになった。
四時間目のチャイムが鳴ると、活発な生徒は財布を握りしめて教室を飛び出す。購買競争は女子高でも盛んだった。
莉愛から話を聞いた三累も一緒に昼食をとることにした。弁当袋を持って二人で生徒玄関に向かう。今日は曇り空でやや天気が悪かったが、それでも外で昼食をとろうとする生徒は多いのか生徒玄関は賑わっていた。
待ち合わせ場所の植物園に向かうと、玲果が既に待っていた。衣良の姿は見当たらない。
「おまたせ。ごめんね、結構待った?」
「ううん、全然。衣良ちゃんは購買に寄ってから来るって」
「あの馬鹿、今日に限って弁当じゃないのね」
「あはは。三累ちゃん、それは辛辣だよ。先にご飯食べてていいって衣良ちゃん言ってたから、お言葉に甘えて先に移動しちゃおう」
三人は植物園の側にあるテラスに移動して、それぞれ持参した弁当を食べた。玲果は華奢な見た目に反して大食いだった。成長期真っ只中の男子と同じ大きさの弁当箱を抱えて、大きな一口を頬張る。半分の量しか持ってきていない三累よりも、随分と早く完食した。
莉愛はそんな彼女の姿がリスのようだと思った。
「一方的で悪いんだけど、昨日あったことを話していい?二人とも食べてていいから」
二人は弁当を口に含みながら頷いた。
「昨日、部活中にラブレターのことを話したんだ。どこに行ったか知りませんかって。そうしたら、部長が稽古の先生に月謝のお金を入れて渡しちゃったって」
とうとう話したか。そして夏梅の推理通りだったか。しかし、それならラブレター本体も昨日衣良が手に入れていても良いはずである。衣良は昨日茶道の稽古を受けた後、まほう少女部のチャットに作戦失敗と送っていた。
「それで、じゃあ中身はどこかって聞いたら、部長は分からないって言うんだよね。円が中身を抜いて、封筒は使ってもいいって言うから部長は使ったって」
「え!?円ちゃんって、F組の疋田さんのこと?」
驚いて急に声を出したせいで、三累はせき込んだ。
「酷い。だって疋田さんは福田さんのものだって知ってて手紙を抜き取ったんだよね?」
「うん。私もびっくりした。でも円にそのことを問い詰めたら、悪いのはあんただって。あのラブレターは私のだって言い出したんだよ」
「いやぁ、それだけ聞くとガキ大将みたいだよね」
テラス席の入口の方から衣良が来て言った。手には空になったパンの袋を持っている。
「あんた、歩きながら食べたのね」
「ごめんごめん、着いた頃にはみんな食べ終わってるだろうと思って」
衣良は三累に向けて空の袋をひらひらとさせると、スカートのポケットに手を突っ込んで紙パックを取り出した。苺のイラストが描かれたそれにストローを刺す。
「遮っちゃってごめん。続けて」
「うん。円とは少し喧嘩になっちゃったんだ。でも実は円も同じラブレターを受け取ってたことが判明してね。そのせいで私が円宛てのラブレターを盗んだんだって思ったらしい」
「そっか。よくよく考えたら、ラブレターには宛名が書かれていなかったのよね。月謝袋に使われるくらいだもん」
「そう。それで余計に混乱したんだと思う。結局、円がラブレターを失くしたのは私がインフルエンザになった後だったから、誤解も解けたんだよ。ラブレターも無事に戻ったし。まほう少女部の噂って本当だったんだね」
「いや——」
莉愛は噂を否定しそうになったが、なんとか押し止まった。今回は明らかに偶然だ。玲果が茶道部員に話していなければ、今でもまほう少女部は必死になって探していただろう。もっとも、ラブレターは疋田円の手元にあっただろうから、本人に詰め寄らない限り一生解決することはない。
「そういえば、ラブレターって実は写真付きなんだよね」
玲果が話し終えた後、ゴミを捨てに行っていた衣良が戻ってきた。
莉愛と三累は、まさかラブレターに写真が付いていたとは思っておらず、目を見開いて驚いた。ラブレターは相手の匿名性を保持するために靴箱に入れられただろうに、誰が写真付きだなんて想像できただろうか。
「衣良、あんた写真があること黙ってたの?」
「いやいや、私も今日知ったんだよ」
「ごめん、そんなに大事な情報だったかな?あんまり関係ないと思って話してなかったんだけど」
「謝らないで。でもどんな写真なのかは気になるかも。相手の顔写真とか?」
「ううん、全然違う。あ、持って来たけど見る?」
「えぇ。そんな、誰にでも見せていいの?」
「いいんだよ。きっと円以外にも受け取った人がいるんだと思うし。不特定多数に送るラブレターなんて、誰に見せても同じだよ」
玲果は弁当を入れていた手提げバックからA5サイズのクリアファイルを取り出した。収められた写真を抜き取って三人に見せる。
写真はデジタルカメラで撮られたようだった。右下にはオレンジ色で「23 05 30」と印字されている。
「ん?五月三十日って、この写真は未来に撮られたの?」
「不思議だよね。私はその日に相手がわかるのかなって思ってるんだけど、みんなどう思う?」
「うーん、どう思うと聞かれても」
写真は机の上を写したものだった。左からノート、沙羅科女子高等学校のパンフレット、おそらく何らかの教材、進路希望の提出用紙が置いてあり、それらの上に白い兎のキーホルダーが鎮座している。それぞれ一部が隠されていて、実際には「book」「沙羅科女」「一(おそらく『一から始める○○』というタイトルなのだと思う)」「進路(『進』は横半分が隠されている)」しか分からなかった。そして写真の左端には三時半を指すアナログ時計が写っていた。
「相手はうちの学校に入りたいのかな?すごく意味深な写真に見えるんだけど——ううん、わからない」
「手紙も見る?」
「うん」
玲果は写真と同様にクリアファイルから手紙を取り出した。手紙は和紙ではなかったが、結構分厚かった。
はじめに三累が読み、すぐに莉愛に手渡された。よっぽど短い文なのかと莉愛は思い手紙に目を落とした。
次は私が
魔法をかける
君に再開したい
たった三行、二文で終わるラブレターだった。
「すごくシンプルだね。すぐにはラブレターだって思わないかも」
「そうだよね。私もはじめはラブレターだって思わなかったんだけど、写真を見ていると兎がだんだん可愛く見えて、相手に好意を持たれてるんだって思ったの。意味わからないけど。手紙の通り、私、魔法にかけられちゃったのかな」
莉愛は手紙と写真を凝視する。
いいや、違う。これはラブレターなんかじゃない。
「私が面白いなって思ったのは、文に読点がないことかな。一行目の後に読点が入れば、魔法をかける君に私が再開したいことになって、二行目の後に入れば、次は私が魔法をかけるから君に再開したいっていうことになるじゃん。本来書いた方がいいはずの読点をあえて書かないってことは、両方の意味で捉えるべきっていう暗示なんじゃないかなって。そう考えるとロマンチックだよね」
莉愛が持ったままの手紙を覗き見て、衣良が言った。
いいや、違う。これはロマンチックなんかじゃない。もっと現実的で、過酷なものだ。
「考えれば考えるほど意味がわからなくなるわね。一度夏梅さんに見てもらいたいわ。この二つ、写真に撮ってもいい?」
「いいよ。でも拡散とかはしないでね」
「安心して。私、SNSやってないから」
三累がポケットからスマホを出して、手紙と写真を莉愛からもらう。
そうだ、夏梅先輩に見てもらった方がいい。見て、気づいて、すぐにでも解決に乗り出すべきだ。
だって、君に魔法をかけたのは私なのだから。
この手紙と写真は——。
私に宛てたメッセージなのだから。
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