第一章

 それはオブジェクトにしては不自然で、異様だった。

 三メートルにも及ぶ生垣は、深々と地面に刺さり、来るものを拒んでいる。まるで監獄のようだった。隔離施設ともいえるかもしれない。

 駅から十五分歩いた所にあるそこは、決して都会とは言えない街を抜けた先にあった。

 周りには小綺麗な喫茶店があるだけで、あとはほとんど閑静な住宅地である。

 こんなことになるなら、先生に道順を聞けばよかった。

 目的地を目の前にして、波賀野莉愛の気分は陰々滅々としていた。

 この中に入りたい。しかしどちらに進めば入口にたどり着くのか分からなかった。これから二年間、平日の大半はここで過ごすのだと思うと、今ここで緑の壁をクリアしないと先が思いやられる。

 腕時計を確認する。時刻は七時半を過ぎたばかりだった。

 ホームルームまでは約一時間ある。それまでに担任から説明を受けなければいけないことを考えると、余裕綽々としている暇はないだろう。

 莉愛は腕時計の革ベルトに小さな擦り傷があることを目視して、腕を下ろした。そろそろ革ベルトを交換するべきかもしれない。

腕時計は昨年、高校に進学したことをきっかけに親に買ってもらったものだ。市場的にはそこまで価値の高いものではないが、莉愛からするとかなり高価な部類に入る。なにより余計な装飾を取り除いておきながらも洗練されたシンプルさがある。

 それが庶民的な一介の高校生である莉愛にとっては、気取っているように見えて恥ずかしかった。

しかしその羞恥も今では別のものとなっている。腕時計のデザインは今の制服にはぴったりだった。むしろ革ベルトを新調でもしないと採算が合わないほど可憐で、清潔だった。


辺りを見回しても学生らしい人影は見られなかった。風で木々の葉が擦れる音をただ聞くしかなくなっていた。

「早く来すぎたかな」

 莉愛はため息をついた。そもそも担任から具体的な登校時間を知らされていない。ただ少し早めに職員室に顔を出すよう言われただけだ。もしかすると、担任はまだ学校に来てすらいないのかもしれない。

 再びため息をつく。転入初日だ。焦らずにはいられなった。

 スマホの地図アプリには目的地に到着したと表示されている。嘘だ。

一旦アプリの案内を終了して、改めて地形を確認した。真の目的地である正門は、裏門と校舎を挟んでほとんど対角線上にある。それぞれの幅の広さを考えると、今いる所は裏門に近いらしい。ここから右に、そして外周に沿って歩けば正門に当たるはずだ。

 莉愛はスマホを制服のポケットに入れ、再度歩き出した。


 しばらく歩いていると、ぽつぽつと制服姿の女学生を見つけた。自分と同じ制服を着ていることに安心する。

さっきまで学生を見なかったのは、最短ルートから外れていたからだろう。それならば今向かっている方向で正解だ。帰るときに改めて道順を確認しようと思った。

前を歩く生徒を見る。

 それぞれ別々に歩く彼女らの後ろ姿は、意外とその人の性格を表しているように見えた。世間が抱く学風のイメージに沿っている生徒もいれば、リュックに多数のキーホルダーをつけた流行に敏感な生徒もいる。髪型や鞄は、莉愛が思っているよりも自由にカスタマイズしていいのかもしれない。とはいえ莉愛自身はそこまで外見にこだわりがあるわけではないので、せいぜい新しい制服に合うように装飾の少ないリュックを背負ってたりするにとどめるつもりだった。

 そんなことを思っていると、前の生徒が大きく開いた口に消え始める。

 正門は予想していたよりも広く、大きかった。

 莉愛も例に漏れず大きく開かれた門に吸い込まれていくと、すぐ左に「お客様用駐車場」と書かれた看板を見つけた。ここから先は車両進入禁止らしい。それを横目に流して正面には、背の低い木々に挟まれた石畳の通路がある。

 この木は夏椿だろう。

 この学校の名物となっている並木道だ。沙羅科女子高等学校の名前の通り夏椿——別名、沙羅の木を植えていることは莉愛もパンフレットを読んで知っていた。設立者である立川十造の愛読書が平家物語だったらしい。

 並木道を進むと、今度は右に小道が現れた。その奥を指す木材の立て看板には「植物園」と表記されている。これが、この学校におけるもう一つの名物だ。

この学校では、いわゆる花壇や菜園とは別に、生徒の申請があれば自由に植物を栽培できる。夏椿が開花する時期に一般開放されるため、ある程度はクオリティの高いものになっているらしい。莉愛も幼少期の頃に一度だけ訪れたことがあったが、今では記憶の彼方である。

莉愛は植物園を覗いてみたい衝動に駆られたが、放課後に必ず寄ることを決め、今は並木道を歩くことに専念した。


 並木道を抜け、アーチ型の建物の下をくぐると生徒玄関が見えた。生徒玄関は本館と別館の間にあることを莉愛は知っていたが、今日はここには行かず、来賓用の玄関から入ることになっている。莉愛は位置だけ確認して、踵を返した。

来賓用玄関は、先ほど抜けた並木道に面していた。ローファーを脱ぎ、リュックに入れていた上靴を履く。上靴は安物だが新品で、グレーがかったメッシュ部分が光に反射していた。以前いた学校の上靴は補修不可能なまでに傷がついていたため、使いまわすのは躊躇われたが故の新調だ。

 そうして莉愛が潰れたリュックにローファーを仕舞おうか考えていたところ、奥から質素な服装の女性がやってきて、彼女に話しかけた。

「おはようございます。波賀野莉愛さんですか?」

 朗らかな声だった。電話で聞いた声だ。

「はい。おはようございます、志水先生」

 担任の志水美穂は莉愛の予想に反してスラっとした印象だった。声だけ聞いたときは穏やかで家庭的な印象を受けたが、目の前の人物からはプライベートを思わせる雰囲気は少しも感じられなかった。志水先生もそのことをよく言われるのか、転入生の驚いた表情を見て苦笑いをしていた。


 ホームルームまでの時間は主に職員室で説明を受ける予定だったが、その前に生徒玄関へと案内された。外からのアクセスは分かりやすかったが、列を成した教室の同じような景色が続く校舎内は、覚えるのに苦労しそうだった。

 生徒玄関に着いて、まずは空間の概要を把握しようと努める。生徒はほとんどいなかったため、心置きなく辺りを見渡すことができた。

 生徒玄関は三か所に監視カメラが設置されている。女子高というだけあって、セキュリティは厳重なものとなっているのだろう。縦五列の靴箱は、そこまで背が高くない。死角はありそうだが、宝飾店のように盗難の餌食となるものが並べられているわけではないため、必要充分と思われた。

莉愛は志水先生の指示通り、手に持っていたローファーをほとんど端の、余った靴箱に入れた。

 靴箱には南京錠を取り付けるようになっている。リュックからホームセンターで買った南京錠を取り出して、靴箱の扉に錠をした。鍵は紛失したり、仕舞った場所を忘れたりする可能性があるため、四桁のナンバーロック式にした。こうして個人の安全も確保される。が、いくつかの靴箱は老朽化により扉がぐらついていたため、頑張れば手紙くらいは入れられそうだった。

「まぁ今どき靴箱に手紙を入れることもないだろうし」

 志水先生はそんなことを言って、嘲笑と冗談の区別がつきづらい笑みを浮かべていた。

 

「そういえば」

「どうしたの?」

 生徒玄関を後にし、職員室に向かう間、莉愛はふと思い出したように声を出す。

「ここに来るとき、上手く正門にたどり着けなかったんですよね。地図アプリを見て来たんですけど」

「あぁ、よくある話ね。アプリだと出入口を認識してくれないから、ちゃんと正門を目的地にしないと」

「おかげで朝から帰りたくなりました」

 あはは、と莉愛は乾いた笑いをする。

「正門は駅から近いと思うんだけどね。波賀野さんも電車通学だけど、もしかして一駅前で降りちゃったとか?」

「そうかもです」

 後に確認したところ、たしかにその通りだということが判明した。正門は女学生の安全を確保するために、比較的人通りが多い駅の近くに配置しているそうだ。その駅周辺も、今朝がた莉愛が電車を降りた駅に比べれば治安が良い方である。慣れるまではその駅で降りたかったが、定期券は購入済みであるため、三ヶ月後の更新日までは今朝と同じルートを往復するしかなさそうだった。


 二人は職員室に入り、教頭に挨拶をした。それから奥の仕切りで区切られたスペースに向かう。そこには業務用の長机とパイプ椅子があった。長机には教科書やプリント類が山積みに置かれている。二人はそれらを挟むように向かい合って座った。

「まずは教科書とタブレットね。使い方はわかる?」

「はい。前の学校と同じ機種なので、大丈夫だと思います」

「よかった。たまに使い方がわからなくて勝手にリセットする子がいるの。リセットの仕方を知っているなら、使いこなせてもいいのにね」

「私はむしろリセットの方法がわからないので安心してください」

「それを聞いて安心しました。ちなみに学校ではWi―Fiに繋がっているけど、万が一リモート授業することになったら、家のWi―Fiに繋げてね。逆に自分のスマホを学校のWi―Fiに繋げることは原則禁止です。パスワードを知ることは基本的にないと思うけど」

「わかりました」

「あと教科書についてだけど、前の高校と同じ出版社の科目がほとんどだと思います。波賀野さんは一年生の科目は全てマスターしているよね?」

「はぁ、おそらく」

「それじゃあ二年生の科目は、どれをどこまで勉強した?」

 どこまで勉強したか。この質問は、前の学校での授業進度のことを聞いているのではない。どこまで自習したか、ということだ。

「ほとんど勉強していません」

 先生が言わんとしていることは莉愛にもよく分かった。要はどのようにして一か月分の遅れを取り戻すかだった。莉愛には一か月分のブランクがある。それは単純であるが重要な手続きをミスしてしまったことにより、新学期からの転入が遅れたものだった。明らかに事務局側のミスだったため、幸いにも編入生として一年からやり直すことは免れた。

そうして生まれた空白の一か月間、莉愛は新学期の学習内容なんてごく簡単なものだろうとおおいに暇を弄んでいたが、志水はそのことを深刻に捉えたらしい。

「来月の頭に中間試験があるんだけど、ほとんど模擬試験みたいなもので、二年生にとっては進路に影響する大事なものなの」

「はあ」

「試験範囲については一年生の学習内容を中心に出す先生がいたりとまちまちなんだけど、問題は私が心配している国語ね。二年生になったから現代文と古典かな。波賀野さんは文理選択で文系を希望したようだけど、転入試験の結果から理系のクラスに入るのよね」

「はい、残念ながら」

「たしかに残念かもしれないわね。でもうちの学校は途中から文系と理系を替えることができるのよ。そのためには中間試験で文系科目を落とすわけにいかない。私は理系クラスの担任だけど、担当教科は現代文と古典なの。他のクラスの生徒よりも多少は融通を効かせて教えることができるわ」

 そうか、志水は過去の怠りを叱っていたのではなく、未来の話をしていたのだ。

 文理の切り替えはたしかに魅力的な話だった。莉愛にとって、文系科目は理解しがたいが確実に身に付けておきたい教養だった。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというビスマルクの格言通り、未来に起こりうる様々な困難の可能性を前もって知りたかったし、ものを読み解く力さえあれば大きく道を踏み外すこともないと考えていた。

 だから莉愛は言った。

「ありがたいです。頑張ります」


 チャイムが鳴り、生徒が教室に収まった頃合いを見て、莉愛は志水先生と共に職員室を出た。

 二年生の教室は職員室を出て渡り廊下を歩いた先にある。しんとした廊下は本当に人がいるのか疑うくらい静まり返っていた。莉愛も雰囲気に飲まれ、緊張した。

「まずは先生が入るから、波賀野さんは呼ばれたら入ってください」

 二年B組の扉の前で、先生がそう告げた。アニメでよく見る方法で転入生を紹介するらしかった。これに関しては莉愛も正解が分からなかったが、少なからず転入生にとっては極端な自信家でない限りストレスになるだろうと思った。架空の汗を拭いたくなる。

「波賀野さん、入ってきてください」

 挨拶はそこそこに、比較的早い段階で莉愛が呼ばれた。もしくは彼女が緊張して、時間が短く感じたのかもしれない。手が震えるほどではないが、動悸がする。

 扉を開けると先に席に座っていた約四十あまりの生徒の注目を一斉に浴びた。温かくも冷たくもない、探るような雰囲気だった。男子生徒がいない分、品定めをするような視線は向けられなかったが、好奇の目に晒されていることはたしかだった。

「波賀野莉愛です。変なタイミングでの転入となりましたが、よろしくお願いします」

 あらかじめ考えていた無難な言葉を述べると、拍手で迎えられた。これまで浴びた拍手の中では一番圧が大きかった。至近距離で一斉に浴びたせいで、少し萎縮する。

 それから志水先生は莉愛に座る席を伝えて、定型文のような挨拶をしてから教室を出て行った。

 ホームルームが終わると複数のクラスメイトに囲まれる。これもアニメや漫画で見るような典型的なものだった。

 しかし大型連休明けである。教室内はクラスメイトに久々に会えて喜ぶ者と、五月病を患ったか、怠そうに机に上体を投げる者で分かれていた。莉愛に話しかけるのは主に前者である。そのため想像していたよりも大勢に囲まれることはなかったが、莉愛に話しかけるのは元気な者ばかりだったので、とうとう圧に耐えられず、泣きそうになった。

 結局仲良くなれたのは斜め前の席の嘉城三累だけである。彼女は学級委員長で、志水先生には莉愛の案内を任されていたため、自然な流れで一緒に行動するようになった。幸い三累の友人には静かな人が多かったので、莉愛ははじめに囲んできた、いわゆる陽キャの渦に飲まれることなく、のびのび過ごすことができた。

 そうして放課後になった。

 授業内容は莉愛の想像通りだった。新学期に習う前提的な知識がないため当たり前だが、こうも追いつけないと焦らざるをえない。一時間目の古文では担任の志水が復習も兼ねて簡単に教えてくれたが、他の文系科目はそうはいかなかった。

 昼休みに入っても焦る気持ちは拭えなかった。莉愛は三累からノートを借りて、今までの授業内容を写しながら、限られた時間を先生への質問や相談に費やした。

「莉愛、これから色々案内しようと思うんだけど、大丈夫?」

「だいじょばないかも」

 三累は莉愛を呼び捨てで呼ぶようになっていた。大人しくて真面目な見た目だが、距離を詰めるのは早かった。莉愛もその手の女子には多少慣れていたため、すぐに順応する。

「大変そうだね。授業も前の学校より難しかった?」

「ううん、偏差値は前の学校と大体同じなんだけど、勉強さぼったせいで、今痛い目みてる感じ」

「あぁ、それは返す言葉もない」

「ごもっともで」

「どうする?辛いなら今日は帰って、明日にでもまた案内するけど」

「いいや、今日案内して。早くこの学校に慣れないと」

「学校は逃げないし、そのうち嫌でも慣れるよ。じゃあ、運動がてら別館に行こっか」

 莉愛は教科書がぎっちり詰まった重い荷物を背負って三累について行った。


 二年B組のある本館からは、別館、図書館、体育館にそれぞれ渡り廊下で繋がっている。

 本館自体も二つに分かれており、夏椿の並木道から向かって左が普通教室、右側には莉愛が朝入った来賓用の玄関や職員室、特別教室があった。双方は二階と三階が繋がっている。

 普通教室は階数に応じて学年も割り当てられていた。だから二年生は二階だ。もっとも、文理科目で特別教室に行く際は楽なものの、別館に行く際には階段を何度も上り下りする必要があるため、不満に思う生徒が少なくないらしい。

 二人は別館の音楽室や美術室を見てまわった。三累の提案で二年次に行く機会がある教室だけを案内してもらうことになった。場所は覚えられそうだったが、それが何の教科で使われているのかがどうにも覚えられず苦労した。

「とりあえずはこんなところ」

 三累がそう言う頃には莉愛は軽く息が上がっていた。目の前で肩呼吸をする新しい友人を、三累は運動していないのにどうしてというような表情で見る。

「ちょっと、休ませて」

「いいよ。さすがにペース早かったかな、ごめんね」

「いや、私のせい。しばらく家に引きこもっていたから」

 本館へと戻る渡り廊下から外れて、中庭のベンチに腰かける。

 こんなにも体力が落ちていたとは。今朝は初めて見る景色に気を取られて気付かなかった。莉愛はリュックから水筒を取り出し、大きく口に傾ける。

「本当は植物園にも行きたかったんだけど」

「それは明日にでも案内するよ」

「えぇ」

「それに、今は休み明けだから花の様子を見に行ってる人が多いんじゃないかな。きっと人がたくさんいて騒々しいよ」

 女子高生が植物園で騒々しく働く様子を想像して、莉愛は軽く吹き出した。たしかに、騒々しいのは御免だ。

「わかった。あのさ」

「なに?」

「三累が入っている部活を見学していい?」

「えっ」

 ぎょっとした三累に、莉愛は驚いた。変な質問だったろうか。

「三累が嫌ならいいんだけど。ここって何かの部活に入らなきゃいけないんでしょ?今どき珍しいよね。今まで帰宅部だったから、とりあえず三累の部活を紹介してほしくて」

 早口で弁明を図る莉愛を見て、三累は唸るように考えていた。

「紹介してもいいんだけど、ちょっとマニアックだよ」

「いいよいいよ。とりあえず見学したいだけだから、なんでもいい」

「ううん、どうしよう」

 三累はリュックのポケットからスマホを取り出して操作した。部活の誰かに連絡を取っているらしい。少し待って、返事が来たのか「よし」と小声で呟くと、ベンチから立ち上がった。


 二人は再度別館に入った。階段を上がるとき、空き教室で吹奏楽部が個々に練習しているらしい不規則な音が聞こえた。先月入部した部員の中には初心者もいるのだろう。音が出るようになったばかりの初々しいトランペット奏者が教室で奮闘しているのが見えた。

「こういうのが見られるのは今の時期だけだよね。みんな成長が早いから」

「莉愛、またぜいぜい言ってない?発言もおばあちゃんみたいになってるよ。まぁ、言ってることはわかるけど」

 階段の踊り場で莉愛は膝に手をついた。手に引っ張られるようにして膝が上がるのを想像する。そうしてなんとか階段を上りきった。

「三累が入ってる部活も一年生いるの?」

「うん、一人いる。今部室にいるから会えると思うよ。でも初々しさはないかもしれない」

「えぇ、文化部で初々しさがない?美術部とか?賞取るくらい絵上手なのかな」

「美術部ではないけど、ある界隈の賞は取れるかもね」

「ますますわからないや」

「まぁ、部室に入ればわかるよ。ほらここ」

 最上階、一番奥の部屋だった。上を見上げると、『まほう少女部』と書かれた室名札がぶら下がっていた。

「まほう少女部?」

「そう、私が入っている部活。莉愛、魔法少女は知ってる?」

「知ってるよ。小さい頃よくアニメ観てた」

「そう。なら話は早いわ。まほう少女部では莉愛が小さいときに観ていたような魔法少女を研究しているの」

「へぇ、面白そう。で、三累はどうして私に紹介するのが嫌そうなの?」

「え?いや、こういうのを敬遠する人もいるじゃない?オタクっぽいし。中学生のときに男子に幼稚園児みたいって馬鹿にされたことがあって、それがトラウマなのよね」

「うわ、酷いねその男子。好きなものなんて誰にもコントロールできないのに」

「莉愛がそういう考えで安心した。だけど、この先はある程度覚悟してね」

「資料がたくさんあるんじゃないの?そのくらいなら別に」

「まぁ見た方が早いわ」

 三累はそう言うと手にかけていたドアノブを回し、押した。

 風が廊下に突き抜ける。おそらく部室の窓を開けているのだろう。二人の髪が後ろに向かってなびいた。

 はじめに莉愛の五感に届いたのはテレビの音だった。扉を開ける前から薄っすらと聞こえてはいた。その正体は想像通り、魔法少女を扱ったアニメである。

次に、大きな机が視界に現れた。業務用の茶色い長机を二つ、長辺側で合わせたものである。

「ん?」

ここで左に座る部員が顔を上げた。

ショートヘアの生徒は丸眼鏡越しに莉愛を見ている。手には文庫本が開いて収まっており、読書中だったことが伺える。しかし彼女の気だるい表情を見る限りは、真剣に読んでいたわけではなさそうだった。

彼女の背後には壁を覆う大きな本棚がある。その本棚には莉愛も観たことがあるアニメのブルーレイボックスが収納されているのだが、今はその情報以上に、とにかくおびただしい数の資料があるといった印象を受けた。

そして莉愛が右へ視線をずらしたとき、ようやく音の正体——つまり何のアニメが流れていたのか分かったかのように思えた。

が、そこには筋骨隆々の女がいた。

 おそらく女だ。女はこちらに背を向けて座っている。もっとも莉愛が女だと思った理由はくるんと外に跳ねた髪が肩にかかっていたからで、それ以外には判断材料がなかった。更にはその上半身はTシャツ姿である。一目見て生徒だとは思わなかった。莉愛の視界には下に履いている制服のスカートが見えなかったため、余計にそう感じた。

筋肉質の手には小型のダンベルが握られている。腕を鍛えているようだ。テレビを覆う大きな背は、本当に女学生なのだろうか。

 困惑する莉愛を見た三累も、「そうなるよね」と小声で言って肩をすくめた。

「部長、この子がさっき連絡した転入生」

「あぁ、この子が。よろしく」

 部長と呼ばれた気だるげな生徒は莉愛に軽い挨拶をする。この人は三年生だろう。莉愛も軽く会釈をしたが、彼女の視線は既に本に向けられていた。

 となると、一年生は——。

 再度視線を右に戻す。女子高生然としない肩の大きさだが、やはり生徒なのか。さっきの気だるげな部長と比較すると、まさに静と動である。

と、ちょうどそのとき、テレビから音楽が流れた。アニメの本編が終わり、エンディングに入ったのだ。

 テレビを占有する筋肉質の女はダンベルを横の長机に置いた。ふう、と大きく息をついて向かいに座る部長を見る。そして部長の目配せにより来客の存在に気付いた。

「あれっ、いつのまに?」

 振り向いた女の顔を見て、莉愛は思わず吹き出しそうになった。あまりにも可愛すぎたからである。とてもじゃないが筋骨隆々とは思えない顔だった。動物に例えるならシマリス辺りが妥当だろう。

 女はなにか粗相をしてしまったように慌てて席を立った。身長は意外と低い。ようやく制服のスカートが見えたため、これで彼女が一年生の部員であることが確定した。

「ごめんなさい。来客があることに気付かず」

「いや、今来たばっかりだから」

 三累がなだめるように言う。筋肉質の少女はそれでもなお申し訳なさそうだった。そして同時にむすっとした表情になった。

「部長は気付いていたんですか?」

「うん、まあ。挨拶もしたし」

「えぇ!呼んでくださいよぉ。失礼じゃないですか」

 目をそらす部長に対して、筋肉質の部員は信じられないといった素振りをする。しかしその動作はあくまで可愛らしいものだ。腕の太さに釣り合わない。

「部長ったらいじわる!挨拶が遅れてしまいすみません。一年の麻波小春です。どうぞよろしくお願いします」

 小春は莉愛に向けて深々とお辞儀をすると、机に置いていたダンベルを片付けた。そしてどうぞおかけください、と莉愛と三累にジェスチャーをして、彼女は部長の側に移動した。

 三累の手招きで、莉愛は席につく。さっきまで小春が座っていた椅子だ。かすかに石鹸の香りがする。汗の臭いに気を使っているのだろう。部室の窓を開けているのもきっとそのせいだった。本当に規格外なのは筋肉だけのようだ。

「えっと、さっきも挨拶したけど、この人が部長の保科夏梅さん。三年生。それに一年生の小春ちゃんと私、あとはもう一人二年生がいるんだけど、まだ来ていないみたい」

「はじめまして、波賀野莉愛といいます。よろしくお願いします」

 三累の横で軽く腰を曲げ挨拶をする莉愛に、向かいに立つ小春は深々とお辞儀をし返す。

 本を読んでいた部長の保科夏梅も莉愛の挨拶に反応して、ぱたりと本を閉じた。口元は微笑むことに慣れていないのか、怪しい笑みを浮かべている。胡散臭さのある笑みだ。

「ようこそ、まほう少女部へ。聞きたいことはなんでも聞いてくれたまえ」

「ありがとうございます。面白い部活ですね」

「そうだろう。魔法少女が好きで憧れているなら、誰でも歓迎するぞ」

「ここにある資料は、全て部活のものなんですか?」

「ああ、そうだ。部の活動費で買ったものもあるが、ほとんどは生徒が持ち込んだものだな。うちの学校はなぜか娯楽を手放そうとさせる親が多くてね。特に小さい頃食い入るように観ていた魔法少女アニメが対象になりやすい。だから捨てる予定のブルーレイやグッズはうちの部活で引き取ることにしているんだ」

 夏梅の口調はどことなく古臭くて、莉愛は読書好きの祖父を思い出した。

「へぇ、それじゃあここにあるものは、ほとんど誰かの思い出の品なんですね」

「そうなるね。この部活はそこまで歴史があるわけじゃないが、ありがたいことに元祖魔法少女のビデオテープまである。私はビデオテープなんて、この部活に入るまで一度たりとも見たことがなかった。DVDもレンタルビデオショップでは見たことがあるが、魔法少女アニメの作品数に限ってはここほどじゃない。しかも、どれも部室に再生プレーヤーがある。最高の環境だとは思わないかね」

「あぁ、やっぱり背表紙の幅が広いケースにはビデオテープが入っているんですね。私も存在は知っていましたが見るのははじめてで」

 たしか、何かの作品でビデオテープという単語が出たのだ。もしくは両親か曾祖父の口から、昔の電子機器はどれも大きかったと聞いたか。

ところで、と莉愛は続けて、部室の扉を見る。

「扉を見て思ったんですけど、部活名の〈まほう〉だけひらがななのはどうしてですか?」

「あぁ、やはりそれが気になるのか」

 夏梅は三累の目を見て、それからゆっくりと瞬きをした。

「波賀野さんはうちの部活に興味を持ってくれているんだよね?」

「え?はい」

「今の時点でどう?入部する気になったかい?」

「正直まだ。今は部員に対して興味を持っています」

 莉愛は小春を少し見る。小春は不思議そうに小首をかしげていた。

「そうか、部員か」

 ううん、と唸りながら夏梅は腕組みをした。

「まぁ、いいかな。波賀野さんはなんだか入部してくれる予感がするし。まほう少女部は、魔法少女研究会という名前ではないことと密接な関係がある」

「はあ」

「我々まほう少女部はただ魔法少女の研究をするだけではない。好きなだけでもない。憧れているんだ」

「憧れ、ですか」

「ああ。小さいときに無邪気にも言葉にした魔法少女になりたいという夢を、今も淡く抱いている。だから最終目標は魔法少女を研究して真理にたどり着くことではなく、魔法少女そのものになることだ。つまり研究会ではない。しかし一介の女子高生が憧れだけで魔法少女を名乗るなんて、おこがましいにも程がある。そもそも魔法とは、超自然的な現象を任意で引き起こすことができる能力だ。例えば任意の色のビームを出したり、傷口を光に包んで治したりと。それらは超能力者でもできないことだ。我々が実現できるとしたら、せいぜい魔術のような科学に基づいたハッタリを起こすだけで、そうするにも膨大な知識と先進技術が必要だ。そんなことが出来たら今頃ノーベル賞でも取っていないとおかしいだろう。魔術の習得もできないうちは、真の魔法にはたどり着くことができない」

「要するに、私たちは魔法が使えないから、ひらがなの〈まほう〉にしてるってこと」

 三累が横槍を入れたので、夏梅は口を尖らせた。

「こら、先輩の説明を遮るんじゃない」

「だって、夏梅さんの説明が回りくどいから」

 莉愛も薄々そう感じていたが、夏梅は確信犯だったらしい。必要な説明なんだけどな、と小声で抗議したが、すぐに諦めて咳払いをした。

「まぁ、そういうことだ。私たちが使えるのは魔法じゃない、〈まほう〉だ。魔術ですらなく、子供だましに過ぎない。だから大人には通用しないし、子供が子供に対してじゃないと使えない」

「〈まほう〉についてはわかったんですけど、実際にどう使うんですか?」

「ううん、説明が難しいかも。ね、夏梅さん」

「そうだな、だけど見せることはできるかもしれない」

「見せるって、いつ?」

「今」

 夏梅はそう言って部室の扉を指さした。

 そして扉は夏梅の指に反応して、勢いよく開かれた。

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