エピローグ
シグニス侯爵邸に着いたセフィーナはカミラの手によって風呂場へ直行することになった。
身なりを整えられ、軽い食事を口にしてようやく人心地がつく。
睡魔に誘われるままに少し仮眠を取り、目が覚めたら日が暮れてしまっていた。
セフィーナと話がしたいとリデッドが部屋を訪れてきたのはそんな頃で、空気を読んでカミラは部屋を出ていった。
ゆうに二人は座れるソファに腰掛けたリデッドの向かいのソファに座ろうとすると「こっちにおいで」と手招きされてしまう。ぎくしゃくしながらも隣に座れば、ぐいと肩を抱き寄せられてリデッドにもたれかかる形になった。
「あ、あの……」
「ん? 膝の上の方がよかった?」
「そうではなくてですね」
真っ赤になってリデッドを見上げれば、きらりといたずらな光が宿る瞳と目が合った。
「ごめんごめん、セフィが可愛くて、つい」
「か、かわ……」
台詞といい、仕草といい、甘すぎやしませんか。
色々と許容量を超えて頭から湯気が出そうになる。固まるセフィーナの頭を撫でつつ、リデッドは「どこから話せばいいかな……」と契約結婚を持ちかけた顛末を口にした。
「契約結婚だなんて、騙すような形をとってごめん。ほんとはね、セフィが振り向いてくれるのを待つつもりだったんだ」
前々からセフィーナに好意を抱いていたものの、リデッドから告白しなかったのはその身分差ゆえだという。
かたや侯爵家の嫡男、かたや名ばかりの子爵令嬢。仮にリデッドから先に好意を打ち明けられたとして、セフィーナに断るという選択肢は存在しない。
けれどそれでは意味がないのだとリデッドは困ったように眉を下げた。
「やっぱり、好きな人には好きになってもらいたいしね。身分を笠に着るような真似はしたくなかったんだ。でもセフィが見合いをするって聞いて、いてもたってもいられなくなって……」
待つとは言ったが他の誰かに取られてしまっては本末転倒というもの。
それならばと契約結婚という形で外堀を埋めてから、じっくり落としていく作戦に切り替えたのだという。
「……なるほど、それで」
やたらと結婚までの流れが迅速で、言動の数々が甘かった謎に合点がいった。
自惚れではなく実際に口説かれていたという事実を改めて噛みしめ、セフィーナは嬉しさよりも申し訳なさが勝ってしまった。
「……何から何まですみません……」
「ああもう、なんで謝るかな。セフィが悪いだなんてちっとも思ってないのに」
縮こまるセフィーナを見て、リデッドはわずかに眉を下げる。
「でもそうだな。申し訳ないと思ってくれているなら、さっきの、もう一回言ってほしいな」
「さっきの、とは……」
「名前を呼んでくれたの、嬉しかったなぁ」
「……あっ、あれは、その、」
しどろもどろになるセフィーナに向き直り、リデッドはごほんと咳払いした。
「セフィ。僕は君のことが好きだよ。何事にもひたむきに生きる君だから、ずっと共にいたいと思う。……セフィも同じ気持ちだと、信じていいかな?」
絹糸のような白金髪がきらめき、熱を帯びた紺碧の瞳がこちらを見下ろしている。
――綺麗な人には裏があるものと思っていたのは最初だけ。
ただ綺麗なだけではなく、水面下での努力を怠らない。そんなリデッドから目が離せなくて、憧れが思慕へと変わるのに時間はかからなかった。
「はい。……ずっと、お慕いしていました。…………リディ」
小さく、けれどはっきりと告げればみるみるうちにリデッドの顔がほころんでいく。見惚れてしまうあまり、セフィーナは眼鏡を取られたことに気付けなかった。
契約結婚の終わりを告げる口づけは、これからも共に過ごすという、新たな契約でもあった。
それから――
ナターシャは心を病んでしまったとして蟄居してしまったらしい。母がつきっきりでいるそうだが、父はといえばその母と離縁する方向で動いているとのこと。
あれほど母の尻に敷かれていて何の心変わりかと不可解でしかないが、これ以上実家のごたごたに巻き込まれたくないセフィーナとしては害が及ばないのであればお好きにどうぞと言うしかない。
そもそもこれらはすべてリデッドからの伝聞で、事の子細は聞かされていないのだ。シグニス侯爵家から何らかの圧力がかかったであろうことは予想できたが、リデッドから「もう家のことで苦しんでほしくないんだ」と言われてしまえば反対も追求もできなかった。
そして匿名の情報提供もあり、
ある日の昼下がり、薬務室に第一支部の一同が揃っている中、リデッドが事の経緯を説明する。
事の起こりは約二ヶ月前、桁を間違えた薬の依頼書。あれは間違いでもなんでもなく、騎士団の人間が故意に数字をいじったのだという。
なんでも飲まずに余った薬が勿体ないと街の薬屋へ持っていくと、薬の出来がいいと思いのほか高く売れた。もっと量があれば一儲けできるのではと夢を見てしまった末の仕業らしい。
「あの時、僕が突っぱねた依頼書だけど、調べたらあの後第二支部に回されていたんだ。で、実際に精製を任されたのがベロニカ嬢で……」
当時ベロニカは新薬の研究をしていて、手一杯の状況だったという。それなのに大量の薬の精製を任され、あまりの時間のなさに保管庫を覗けば、そこに薬の原液があった。
落ち着いたら、元に戻せばいいじゃないか――つい魔が差してしまい、手に取ってしまったのだという。
そうして一度は切り抜けたものの、なかなか薬を作る時間が取れない。そうこうしているうちに翌月、再び薬の依頼が来てしまった。
今度ばかりはセフィーナの薬もなく、自分がやるしかないとあわてて精製したものが例の味の悪い
「ベロニカ嬢も反省していたよ。魔が差してしまったとはいえとんでもないことをしてしまったと。とはいえ、状況を顧みることなく無理な量の作業を投げて、職員を追い詰めた第二室長の責任も重い」
「そう、なんですね…………あの、ベロニカはどうなるんですか?」
虚偽は大問題で、職を追われかねないのでは。
懸念するセフィーナにリデッドは「大丈夫」とおだやかに告げる。
「言っただろう、丸投げした第二室長にも責任があると。あんな馬鹿げた依頼をそのまま受けるのがおかしいんだよ。ベロニカ嬢は情状酌量の余地ありってことで、管理業務を怠った第二室長と共に数ヶ月減給で済んだよ」
そしてそもそも小遣い稼ぎで数字をいじった騎士団の者は免職となったそうだ。
「でもこれで皆、セフィの有能さが分かったんじゃないかな? これから依頼が増えるかもしれないけど、いつも通り、出来る範囲で構わないから」
「え、わたし、頑張れますけど」
「だめだよ。残業なんてされたらセフィと過ごす時間が減るじゃないか。それに依頼が来たとしても、セフィだけじゃなくてちゃんと皆に割り振るから」
「室長〜、それって職権乱用じゃないですかぁ?」
「仕事の幅を広げる良い機会だと思ってほしいね」
オリガからの苦情をリデッドはさらりと受け流す。
「今まで適材適所でいいと思っていたけど、今回の一件で苦手の克服も必要なんじゃないかなと思ったんだ。セフィに頼ってばかりもいられないだろう?」
「お言葉ですが、セフィーナ以上に精製がうまくできる者は
「効能さえあれば、味がどうこうはおまけに過ぎないよ。現にセフィが来るまではそういう物で通っていたわけだし、それが元に戻るだけだ」
セルゲイの言葉はもっともであるが、リデッドの言葉もまたしかりだ。
文句を言われたら僕が矢面に立つからと室長であるリデッドに言われてしまい、それ以上不満の声は上がらなかった。
「それに今後、年単位で休んでもらうこともあるだろうし。そうなった時に何も出来ませんじゃ宮廷薬剤師の名折れじゃないかな?」
「え、それって……」
反応したのはオリガで、きらりと瞳を輝かせてセフィーナを振り返った。
長期間休まなければならない事情。即座に思い至ってセフィーナは勢いよく首を横に振った。
「ままままだなにも……」
「――セフィ。そこは黙っていようか」
「あっ、……」
笑顔で気圧されてセフィーナは口をつぐんだ。
賑やかな薬務室での日々はセフィーナにとってかけがえのないものだ。そこに新たに加わった、侯爵令息夫人としての生活。
思いが通じ合い、何度か口づけはしたもののそれ以上は未知の世界だ。
――見たことのない景色が広がっていたとしても、わたしはもう、大丈夫。
過去にとらわれるセフィーナを解放してくれたリデッドが隣にいてくれるなら、目をそらさずにいられる。
結婚式までは、もうあとわずか。
すっかり夏を感じさせる陽射しが窓から射し込み、窓際に置かれた小瓶をきらりと照らしていた。
契約婚は思案の外〜見合いから逃げたい私に上司が契約結婚を持ちかけてきました〜 香山なつみ @kayama723
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