第10話 契約結婚の終わり

 相次いで入ってくる使用人に囲まれ、訳が分からないままあれよあれよとセフィーナはナターシャと共に屋根裏部屋へ連れてこられてしまった。

 部屋には監視役と思しき従僕が一人残っている。当初は威勢のよかったナターシャも、屈強な男に睨みつけられるのはさすがに怖かったのかすんすんと鼻を鳴らしていた。

 床にしゃがみこんでいる妹を尻目に、セフィーナは従僕におそるおそる問いかける。


「……あの、何かあったんですか?」

「……」

「もしかして、誰か来たとか」

「……」


 従僕はあくまで沈黙を貫くが、そうとしか考えられない状況だった。


「お姉様、分かるんですか?」

「なんとなくよ。わたしたちがセルペンス家ここにいたらまずいから、こんなところに連れてこられた……そんな感じでしょう?」

「どうしてまずいんですか?」

「たとえば、しつ……リデッド様が来た、とか」

「えっ、リデッド様が来たのならご挨拶しなくちゃ」


 ナターシャの顔がぱっと晴れる。

 勢いよく立ち上がったかと思うと従僕へ歩み寄った。


「お嬢様、おとなしくしといてくれませんかね」

「リデッド様が来ていて顔も見せないのは失礼じゃない。そこを通してくださる?」

「……」


 従僕はまるで奇妙なものでも見るような目でナターシャを見下ろす。

 この状況でその台詞が出るなんて、とはセフィーナも思うところで、従僕の気持ちが痛いほどによく分かる。


 けれど次の瞬間、目の前でくずおれた妹を見てセフィーナは声にならない叫び声を上げた。


「見えるところに傷はつけるな、とのことなんでね」

「ナターシャ……!」


 駆け寄り、ナターシャの身体を表に返す。床には吐瀉物が広がり、ドレスの腹あたりにシワが寄っていることからみぞおちを殴られたのだろう。

 呼吸はあるが、意識はない。気絶してしまったようだ。


「そっちのお嬢様は……言わなくても分かるよな」

「……」


 セフィーナは返す言葉が見当たらず、妹の身体をぎゅっと引き寄せた。



 どれくらい時間が経ったかは分からない。

 眠ったままのナターシャの横でセフィーナはうずくまり、膝を抱えていた。

 シグニス侯爵家ほどではないがセルペンス子爵家は広く、隠された人を探すには相当骨が折れるだろう。


 いや、探しに来てくれているというのも自惚れなのかもしれない。


 諦めにも似た気持ちが芽生えだした頃、部屋の外から物音が聞こえてくることに気付いた。

 耳を澄ませばそれは紛れもない、リデッドの声で――セフィーナ、と自らの名を呼ばれていた。


「っ、リディ……!」

「おっと、静かにしておいてくださいよ」


 立ち上がったセフィーナに従僕がにじり寄ってくる。


「そちらのお嬢様の二の舞になりたくないでしょう?」

「…………」


 リデッドがすぐ近くまで来ている。にも関わらず、身がすくんで声を出すことが出来なかった。


 どうすればいい。なにか、一瞬でもいい、隙を作ることができれば――


(……! これ……)


 制服のポケットのあたりに膨らみを感じて、セフィーナはわずかに目を見張った。


(これなら……でも、どっちが……)


 ――否、どっちも使えばいいじゃないか。


 一歩後ずさったセフィーナはポケットから小瓶を取り出す。後ろ手で蓋を取り、二本まとめて従僕へ向かって投げつけた。


「……あぁああああああ!!!」


 地を這うような声を上げ従僕がよろよろと後ずさるのを見て、セフィーナはすうと大きく息を吸った。


「――リディ、わたしはここです!」




 屋根裏部屋の扉が破られ、人が雪崩れ込んでくる。

 その先頭にいたのはもちろんリデッドだった。


「――セフィ!」


 苦しむ従僕には目もくれず、一目散にセフィーナの元へ駆け寄ってくる。


「無事で良かった、セフィ……」

「…………く、苦しいです……」

「えっ、どこか怪我でも?」

「……いえその、腕の力が強くて……」


 勢いそのまま抱きすくめられてしまい、息がしづらい。

 セフィーナが蚊の鳴くような声で告げてようやく、リデッドは腕の力を緩めてくれた。

 けれど離す気はないようで、片手はセフィーナの腰に回されたまま。もう片方の手であやすように頭を撫でられ、じわりとセフィーナの胸中に安堵が広がっていく。


 ――リデッドが助けに来てくれた。


 その事実を噛みしめて、我慢していたものが堰を切ったように溢れ出してしまった。


「セフィ……遅くなってごめんね」


 再び腕の中に閉じ込められる。

 鼓膜を震わせる声色は優しく、背中を撫でる手は心地良くて。涙で服を濡らしてしまっても離れることはできなかった。


 ひとしきり泣いて、落ち着きを取り戻した頃。


「――で? こうしてセフィーナがいるということは、先程までの証言は虚偽ということでいいですね?」


 第三者の声が聞こえて顔を向ければ、クージャに話しかけるアレクセイがいた。

 クージャの顔色は白を通り越して真っ青で、歯の根が噛み合わないのかがちがちと震えている。


「あ、あ……」

「言い分があるならあとで聞きましょう。使用人、逃すなよ」

「は、はいっ」


 後ろの方に控えていた使用人たちは焦ったように頷き、主人であるはずのクージャを取り囲む。

 アレクセイが「表の馬車へ」と手短かに告げるとそのまま連れられていった。


 くるりと踵を返したアレクセイは足元でうめく従僕を見て眉をひそめた。


「おいお前、大丈夫か?」

「う、うぅ……目が……」

「あ、大丈夫よ。身体に害はないから。むしろ元気になると思う」

「? セフィ、どういうこと?」


 リデッドに問われ、セフィーナは外が騒がしくなってからの事情をかいつまんで話す。

 回復薬ポーションを投げつけて油断を誘ったのだと話すとアレクセイは声を上げて笑った。


「あの激まず回復薬ポーションを浴びせたのか? やるなぁ、セフィ。まさかベロニカが作った回復薬ポーションが役立つなんてな」

「ナターシャがこの状況だし、他に手がなかったから……って、え? ベロニカ?」


 聞き捨てならない人の名が聞こえてセフィーナは目を丸くした。

 どうしてベロニカ製だと断じることができるのだろう。


「その回復薬ポーションの精製者はベロニカだと。リデッド様が調べてくれていたんだ」

「それにねセフィ。君がセルペンスの家にいるかもしれないと教えてくれたのはベロニカ嬢なんだよ」

「え、え?」


 混乱するセフィーナに、今度はリデッドとアレクセイの二人がセルペンス子爵家ここに来るまでの経緯を話してくれた。



 セフィーナがアルゴー家実家に行ったという時点でおかしいのに、翌朝、出勤してこないことでこれは何か不測の事態があった。


 そう確信したリデッドは、昨日妙なことがなかったかとあちこちに聞いてまわったのだという。

 オリガやセルゲイから「騎士団の友達に会っていた」という話を得て、アレクセイの元へ向かい、事情を聞くが行き先に繋がるようなことはなく。おまけにアルゴー子爵家へ使いに出していたステファンとカミラ曰く、実家には来ていないし妹であるナターシャも昨日から帰ってきていないとのこと。

 そこで実家に帰ると伝えてきた者は誰かとなった。


『セフィーナ様と同じ制服をお召しになられた女性でした。珍しい赤毛の方で』


 侯爵家の馬車の御者の証言を聞く限り、それはオリガではない。ピンときたのは同行していたアレクセイで、それはベロニカじゃないかという。

 第二支部へ向かい、ベロニカを問い正せば「そういえば……」と新たな情報が出てきた。


『馬車にへびの紋様があった気がします』



「へびはセルペンス家の象徴だからね。アルゴーに接触していたとも言うし、そこに違いないと探しに来たんだ」

「そうなんですね……」

「いやー、騎士団に乗り込んできた時のリデッド様の剣幕、セフィに見せてやりたかったよ。牙を抜かれた姿しか知らない新入りたちが軒並みびびってたからな」

「――アレクセイ君」


 肩を揺らして笑うアレクセイにリデッドがたしなめるような声をかける。


「んんっ、失礼しました」

「……まぁいいよ。君には世話になったしね」

「恐れ入ります」


 恭しく礼をして、アレクセイは視線をセフィーナの足元へ移した。


「で、その子がナターシャ……だよな?」

「あ、そうなの。気を失っちゃってて……その、妹はクージャ様と……」


 世迷い言にもほどがある企みは口にするのもはばかられ、言葉の歯切れが悪くなってしまう。


「いいよセフィ。大体の事情は分かっているから」

「そうそう。このお花畑な手紙を読めばな」


 アレクセイが懐から取り出したのは例の手紙だった。

 手のつけられていない食事が置かれた部屋に落ちていた、差出人が不明の手紙。目を通したことでセフィーナがこの屋敷にいると確信が持てたらしい。


「それ、わたしが書いたものではなくて」

「分かってるよ。セフィはこんな、道理に反するようなことを言ったりはしない。そもそもセフィの字じゃないしね」

「室長……ありがとうございます……」


 言わずとも理解してくれた事実が嬉しかった。


「ま、こんなことをした動機を示す証拠品としちゃ一級品だな。それじゃ、ナターシャは重要参考人として連れていくから。おい、お前、歩けるよな」


 アレクセイは眠るナターシャを抱きかかえ、ついでに従僕へ声をかける。


「は、はい……」


 ふらふらと立ち上がった男はおもむろに頭を振ったかと思うとセフィーナを睨みつけた。

 よほどまずかったのだろう、恨みがこめられた瞳に見下ろされてセフィーナはびくりと肩を震わせる。


「――誰を見ている」


 低く、鋭い声音が鼓膜に響いた次の瞬間、ひやりと冷えた空気が肌をかすめた。


「……!」


 セフィーナの目の前で、従僕の腕が氷に包まれていく。

 指先から二の腕、肩、喉元を超え、鼻先まで広がったところでようやく侵蝕は止まった。口を氷に覆われて何も話すことができない男へ向け、リデッドが言い放つ。


「二度と姿を見せるな」

「……っ」


 頷くこともできない従僕は顔を恐怖に染め、一目散に逃げ出していった。


(……今のは、魔法……?)


 セフィーナには、リデッドはただ腕を振っただけにしか見えなかった。

 呪文の詠唱もなく、何か道具に頼ったという風でもない。


『氷の魔術師』――そんな異名で呼ばれていたというリデッドに、アレクセイが感嘆の声をあげる。


「すっげ。……リデッド様、魔術師団へ戻りません?」

「戻るわけないだろう。セフィと離れるなんてお断りだね」

「公私混同はいかがなものかと思いますが……」

「仕事中はきっちり公私を分けている。文句を言われる筋合いはないな」

「いやー、さっきのといい、それ・・は私情が入ってませんかね」


 アレクセイの視線はセフィーナに向けられている。

 言わんとすることは分かる。先程からずっとリデッドの手が腰に回されたままで、離れてくれそうな気配はなかった。

 ちらりとリデッドを見上げれば、困ったように微笑みかけられてしまった。


「ごめんセフィ。ちょっと離してあげられないかな」

「ど、どうして」

「離せばアレクセイと一緒に行ってしまいそうだから」

「そんなことは……」


 ない、とは言い切れずセフィーナは言葉を濁す。気がかりなのはアレクセイではなくその腕に抱かれたナターシャだ。


 やらかしてしまったとはいえ妹は妹、放っておくことはできない。


 そんな内心はお見通しなのか、アレクセイは苦笑混じりの笑みをもらした。


「セフィ、今は妹よりも自身のことを考えた方がいい。詳しい話を聞くにもこんな状況じゃな。また日を改めてってことで」

「でも……」

「でもじゃない。これ以上邪魔したら俺の身が危なそうだ。セフィ、リデッド様の愛は重いぞ? 覚悟しとけよ」


 それじゃ、とくるりと踵を返してアレクセイは去っていった。


 屋根裏部屋に残されたのは、セフィーナとリデッドの二人だけ。重い沈黙を破ったのはリデッドで、うろたえるセフィーナへおだやかに声をかけた。


「とりあえず、家に帰ろうか」




 屋敷の外に出れば陽がすっかり昇ってしまっていた。

 リデッドとアレクセイが乗ってきたという馬車はアレクセイが乗って帰ってしまったため、セルペンス家の馬車を借りて家路を急ぐ。


 馬車に二人で乗るのは慣れたもので、いつも行き帰りは他愛ない話をして過ごしていた。けれど今、リデッドはどこか物憂げな面持ちで横を向き、窓の外を眺めている。

 何か気に触ることをしてしまったのだろうかとセフィーナは記憶をなぞって、助けてくれたお礼を告げていないことに気付いた。


「あ、あの、室長。来てくださってありがとうございました」

「…………セフィ」


 ため息をつかれてしまった。


「さっきはちゃんと呼んでくれたのに、どうして戻るのかな?」

「さっき…………って」


 ――あの時。名前を呼び、すがるように腕の中で泣いてしまったことを思い出してセフィーナの顔が一瞬で赤く染まった。


「あ、あああああれはその、」

「その、なに?」

「その…………」


 寂しくて、不安で、情けなくて。

 どうしようもない状況だというのに、ただ、リデッドに会いたかった。


 ――そう間違いなく思ったのは確かなのだが、それを口にする勇気がセフィーナにはなかった。


 契約結婚という、今の関係を壊すことになりかねないからだ。


 拒絶されるのが、怖い。

 物分りのいい、良い子でいなければ存在価値がないのだという、幼い頃からの呪縛は今もセフィーナをとらえて離さない。


「……すみません。これは契約結婚なのに……」


 セフィーナは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

 俯いた拍子に制服が視界に入り、いつかの彼女の声が脳裏に蘇る。


『いつもいつもいつもいつも、人の顔色ばかり気にして。そんなに良い子でいたいわけ?』


 それは忘れもしない、ベロニカからの決別の言葉だ。

 言いたいことがあるなら言えばいい。うわべだけ取り繕って、何の意味があるのか――不遇な目に合っても気丈なベロニカが眩しくて、あの時、セフィーナは目をそらしてしまった。


「――セフィ、顔を上げて」


 リデッドの声に誘われるまま、顔を上げる。

 まっすぐにセフィーナを見つめる紺碧の瞳はおだやかで、もっと自信を持つべきだ――そんな声が聞こえるかのようだ。


 いつもなら諦めてしまっていたけれど、その瞳に吸い込まれて――目をそらし続けることはできなかった。


「契約結婚なのに、わたし、……好きなんです」


 まばゆい星の――リデッドのそばにい続けたい。

 しまい続けた想いを口にしたセフィーナはそっとリデッドへ手を伸ばす。


「――あっ、」


 馬車が揺れる。

 バランスを崩したセフィーナは腕を引き寄せられ、リデッドに抱きすくめられた。


「ありがとう。……僕もやっと言える。――好きだよ、セフィ」

「……っ」

「契約結婚じゃなく、本当の夫婦になりたい」

「……はい」


 頷くセフィーナに、リデッドは念を押すように耳元で囁いた。


「これは夢じゃないからね」



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