第9話 変わるもの、変わらないもの

 馬車に乗り込んで着いた先は、実家ではなかった。

 ガチャリと門が閉じられるような音を聞いてセフィーナは我に帰った。窓から外の様子をうかがえば見慣れない屋敷が視界に入る。


 アルゴー子爵家とは異なり随分と大きな屋敷だ。その入り口の脇でようやく馬車は止まった。

 訝しむセフィーナの腕を掴んでナターシャは馬車を降り、ずんずんと屋敷の中へ入っていく。


「――来たか、ナターシャ。と……セフィーナも、夜会振りだな」


 待ち受けていたのはセフィーナとそう年が変わらなさそうな男だ。

 上から下へと人を値踏みするような視線がねちっこく、眉間に刻まれたしわからいかにも神経質そうであることが見てとれる。

 一人がけのソファに悠然と腰掛けた男に、ナターシャは声をかける。


「クージャ様。お姉様を連れてきましたわ」


 妹の口から出た言葉にセフィーナは頭を抱えたくなった。


 クージャ――クージャ・セルペンス子爵令息。夜会振りというのはそういうことか。


 謀られたのだと理解するには十分な状況にめまいがした。


「ナターシャ、どうして……」

「どうしてもこうしても、お姉様がずるいからよ」

「ずるいってなにが」

「全部よ。あの狭い家から逃げてやりたいことやって、おまけにリデッド様と結婚だなんて。ずるすぎるでしょ」


 ナターシャの言い分は全く分からない。

 セフィーナからすればやりたいことをやっているのはナターシャの方だ。願えばすべて叶えてくれる。そんな家にいたじゃないか。


「あのねナターシャ。何を考えているのか知らないけど、この状況は良くないわ。家に帰りましょう」

「お姉様がリデッド様と離縁して、わたしとリデッド様の結婚を後押ししてくれるというのなら帰ります」

「…………は?」


 今なんて?


 セフィーナは自分の耳を疑った。

 目を丸くして固まるセフィーナに、ナターシャはさも自分が正しいとばかりに胸を張る。


「だから、わたしが未来の侯爵夫人になるの。働いているお姉様でつとまるのならわたしならもっとうまくできる。ちゃーんとリデッド様に尽くすわ」

「……あなた、言ってる意味分かってる?」

「もちろん。良い子のお姉様なら譲ってくれますよね?」


 震える声音で問うセフィーナに、ナターシャは満面の笑みで答えた。


「大丈夫よお姉様。離縁されたらちゃんとクージャ様がお姉様を娶ってくださるんですって! ね、これなら本来の形に収まっていいことづくしでしょう?」

「…………」


 絶句するしかないとはまさに今だ。

 目の前にいる妹は妹の姿をしているのにまるで別の何かのようで、理解しがたい現実にずきずきと頭が痛む。


 この子は何も考えちゃいない。侯爵という爵位の重みも、リデッドのことも。ただ単純に麗しいリデッドの隣に立つ、きらびやかな自身のことしか頭にない。


 一体どう言えば。何を言えば伝わるだろうか。


 何か言わなければとセフィーナは口を動かすが、何を言っても聞き入れてくれなかった母の姿がナターシャに重なり、かろうじて出てきたのはうめき声とも呼べない小さな吐息だけだった。

 沈黙を肯定と受け取ったのか、ナターシャは一枚の紙をセフィーナに差し出した。


「それじゃお姉様、サインを書いて。リデッド様へ離縁を願う手紙よ。至らない自分に変わって妹を薦める、健気な姉を装って書いてあげたから」

「…………や」

「? 何か言いました?」

「……嫌よ、そんなの。サインなんてするわけないじゃない」


 ふるふると首を横に振る。手を払った拍子に手紙がはらりと床へ落ちた。


「もう、お姉様ったら。わがままはよして?」


 肩をすくめるナターシャは、まるで聞き分けのない子どもを相手にしているかのようだ。


「わがままじゃないわ。こんなの納得できるわけないでしょう」

「それじゃ納得できるまで待ちます。サインが書けたらお家へ帰りましょう? それまでクージャ様、お世話になりますわ」


 そう言い残して、ナターシャは部屋から出ていった。

 母譲りの金髪が扉の向こうに消えてようやく、セフィーナは息を吐くことができた。足の力が抜け、へなへなとその場に座り込む。

 落ちた手紙は見たくもないので拾うことなく、手で追い払った。


 ――どうしてこうなったんだろう。


 混乱するセフィーナに追い打ちをかけるように、低い笑い声が耳に届く。

 顔を上げればクージャが手紙を拾い上げ、愉快そうに肩を震わせていた。


「とんだ妹だな?」

「クージャ、様……」


 何を考えているのか分からない人物がここにもう一人いた。


「こんな、人さらいのような真似をして……大事になる前に帰してください」


 今ならば目をつぶることもできる。

 暗に取引を持ちかけてみたが、クージャはのってこなかった。


「人聞きの悪いことはよしてくれ。僕は君たち姉妹に請われて場所を提供しただけだよ」

「わたしは望んでいません」

「君の妹は望んでいるよ? それに君は随分とお人好しのようだからね。妹が罰せられるようなことは望まないだろう」

「……」


 弱みに付け込まれては返す言葉もない。

 いくらひどい目に合おうが、妹を見放すことはできないだろうと見透かされてしまっていた。


「まぁ僕は別に、ナターシャがあの侯爵令息に嫁ごうがそうじゃなかろうがどっちだっていい。セフィーナ、君がいてくれさえすればね」

「……妹のような美人がお好みなのでは?」


 夜会の席できらびやかな女性を侍らせていたのは忘れちゃいなかった。

 セフィーナの問いにクージャはにやりと下卑た笑いを浮かべる。


「見た目はよくても、妻とするには頭が弱すぎる。ああいうのは遊び相手にちょうどいいんだよ」

「…………最低」


 うっかり心の声が外に出てしまった。


 クージャは途端に眉を吊り上げ、セフィーナの後ろ髪を掴み上げる。

 引っ張られ、痛みのあまりに顔が歪む。腰が浮いてしまったセフィーナに、クージャは吐き捨てるように叫んだ。


「僕を馬鹿にするな! 本来ならお前なんて地味な女、こっちから願い下げなんだ。なのに父様が『アルゴーの娘を手放すなんて』って言うから……!」

「……っ、は、なして……」

「大体『星の船の力』って何なんだ。アルゴーの女に伝わる力だなんて、単なる噂話じゃないのか? 薬剤師なんておままごとみたいな職についたやつに、どんな力があるっていうんだ」

「――クージャ様! およしください!」


 大きな声を聞きつけたのか、使用人が慌ただしく入ってきてクージャを止めてくれた。

 肩で息をするクージャは憎悪に満ちた瞳でセフィーナを見下ろす。


「お前に力があるというなら見せてみろ。その場合は妻として大切にしてやる」

「……そんな力なんてない、と言ったら?」

「はっ。お勉強は得意なんだろう? セルペンス家うちのためにせいぜい働くんだな」


 クージャは鼻で笑って、そのまま部屋を出ていった。


『星の船の力』――その言葉を再び聞くことになるとは思いもよらなかった。


(アルゴーの女に伝わる力……?)


 セフィーナはそっと片手を頬に当てる。指先が眼鏡に触れると、かちりと何か鍵がかかったような音がした。

 この、視えないものが視える『眼』が、その力なのだろうか。


(……そんなこと、おばあちゃんは教えてくれなかった……)


 今は亡き祖母――前アルゴー子爵だけが、セフィーナの『眼』のことを知っていた。

 現アルゴー子爵である父はどうかと振り返れば、そう、一度だけ、知っているような素振りを見せたことがある。


 それは妹が産まれて、名前もまだ付いていなかった頃。

 眠る妹はそれは可愛くて、母の目を盗んで妹に会いにいくセフィーナに、父がついてきたことがあった。


『セフィーナ。眼鏡を取って、妹を見てごらん。何が視えるかな?』

『……? わかんない……』

『そうだな。うーん……じゃ、お船は視える?』

『おふね?』

『そう。セフィのおばあちゃんには大きなお船が視えるだろう? 赤ちゃんにそれはあるかな?』


 あの時、わたしはどう答えたのか――もやがかかったように記憶はおぼろげで、今ひとつはっきりしなかった。



***



「あーもう、無断欠勤とか、最悪……」


 移された部屋のベッドに横たわり、セフィーナは深くため息をついた。

 ほとんど一睡もできず、翌朝を迎えてしまった。

 隙を見て外に出られないかと夜中に何度か部屋の外をうかがうも使用人がいて、「何かご入用でしょうか」と笑顔の圧をかけてくる。用を足す際にはご丁寧に女性使用人が入り口までついてきてくれた。

 それでは部屋の窓からと考えたがあいにく窓が開かない。外を見れば高い塀が屋敷を取り囲み、立派な門扉には当然のように警備の者がいる。窓を割って出たところですぐに捕まってしまうのは容易に想像ができた。


 何度目かのため息に合わせるように、ぐうとお腹の音が鳴る。食事は部屋に運ばれてきたものの、飲み物しか手をつける気になれなかった。


「……室長、心配してくれてるかな」


 こんな時、脳裏に浮かぶのはリデッドの姿だ。

 結婚してからというもの――否、その前からずっと、リデッドは優しかった。


 第一支部に配属され、周囲との身分差に遠慮がちだった一年目。

 空気のようだった前任の室長がフォローしてくれるはずもなく、時折気まぐれに与えられる仕事をこなし、ベロニカの愚痴を聞いていた。


 空気が変わったのは翌年、リデッドが室長に着任してからだ。

 リデッドはどんなささいな意見にも耳を傾けてくれた。それまで適当にやりたいことをやっていたものを見直し、適材適所に人を振り分ける。各々が十二分に力を発揮できる環境になるのに時間はかからなかった。


 思えば最初から、リデッドはセフィーナの仕事振りを認めてくれていた。第一支部の面々と打ち解けられるきっかけを与えてくれたのもリデッドで、この仕事をずっと続けていきたいと心から思えるようになったのもその頃だ。


『セフィーナ嬢は、一人で抱え込みすぎてしまうところが心配だな』


 ベロニカと仲違いして細かいミスが増え、残業することが続いた時。見かねたリデッドにそう言われたことがあった。


『僕じゃ君の負担を軽くすることはできないかな?』


 セフィーナは仕事を取り上げられるのではないかと受け取り、何度も頭を下げた。

 ミスばかりですみません、ちゃんとします、そんなありきたりな弁明を繰り返すセフィーナに、リデッドは頭を抱える素振りを見せる。


『そういう意味じゃなくて……うーん。もっと僕に頼ってほしいなぁと思うのだけど、どうかな?』

『? 室長にはいつもお世話になってます』

『うん。伝わってないね』


 こらえきれず、といった風にリデッドは吹き出し、肩を揺らして笑っていた。


(……あれは、どういう意味だったんだろう)


 セフィーナは仰向けに転がり、天井へ手を伸ばす。

 短く爪が切り揃えられた指先へリデッドが触れたことを思い出せば、一瞬で顔に熱が集まってくる。


 ――あくまで利害が一致しただけの、感情の伴わない契約結婚。


 そう、セフィーナは思っていた。思っていたのに、リデッドは契約外の振る舞いを次々と見せてくる。


 セフィーナ自身は、胸にしまい続けた想いを口にしないように必死に抑えつけているというのに、だ。


「…………リディ」


 一度も呼べなかった名前を呼べば、じわりと瞳に涙の膜がかかる。

 会いたい、と声なき声でつぶやいた瞬間、勢いよく部屋の扉が開いた。


「――お姉様、お気持ちは変わりまして?」

「ナターシャ……」


 嫌々ながらも上体を起こせば、仁王立ちする妹が視界に入った。


「あら、泣いていらしたの?」

「……別に、そんなんじゃ」


 顔をそむけるセフィーナに、ナターシャは「寂しいのならお家に帰りましょう」と甘く囁く。


「ずっと帰ってこなかったお姉様が帰ってくれば、お父様もお母様もお喜びになるんじゃないかしら」

「そんな、あの二人が喜ぶわけないじゃない。わたしには帰る部屋もないのに」


 アルゴーの家にセフィーナの部屋はない。結婚の挨拶の時にちらりと覗けば妹の衣装部屋へと変わっていた。


「部屋? ……あぁ、だってお姉様がお使いにならないから」


 ナターシャはきょとんとした顔を見せる。


「わたしが奪ったみたいに思われてるならショックですわ。空き部屋にしておくのは勿体ないから使ってあげているだけなのに。大丈夫、わたしがリデッド様のところへ嫁げばあの部屋は空になりますわ」


 そこには何の悪意もなく、ただ純粋にそう思っているような口振りだった。


 離縁した後、その妹と再婚するなんて世迷い言が本当に起こると信じている。甘やかされ、わがままが許されてきた積み重ねがこんな形で現れてくるとは思いもよらなかった。


 話が通じない――認知が歪んでいる妹を前に、セフィーナは愕然とした。


「さぁお姉様、サインを……」


 言葉を失ったセフィーナに、ナターシャが手紙とペンを突きつけてくる。

 喧騒が耳に入ってきたのはそんな時で、間もなく部屋の扉がノックもなく開かれた。


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