第4話

「聞いた? ルノー殿下が魔獣と融合してしまったとか」

「それでこっちに来ているんだろう?」

「なんでも、トリエルノ様をお探しだとか」

「ううーん、トリエルノ様は5年前の審議会で殿下と一緒にお沙汰を下されて以来殿下には会っていないらしいが」

「我らが領主閣下と結婚なさったとは言え、トリエルノ様は殿下の元恋人だからなぁ」

 フセルフセス城に務める者たちは、にわかに曇り始めた空を見上げながら口々に囁いていた。

「……トリエルノ様は殿下に心残りがおありではないのだろうか」

 

***


「むしろ、心残りがないのが不思議なくらいです。私、あの頃殿下のことが本当に好きでした、嘘偽りなく」

 トリエルノは夫の銀の目を見つめて淡々と語る。

「拘束されてから審議会が開催されるまでの謹慎期間は毎日泣いて暮らしたのに、いざ審議会が開かれた後の修道院では残念な気持ちこそあれど、泣くほどショックというわけでもなくて」

 自分でもよくわかりません、と彼女は苦笑した。


 フセルフセス領の端、森の入り口で人々は待機していた。既に日は沈み、あたりは夜のとばりに包まれていた。一騎当千の戦士であるシルハーンを筆頭に、王国府の使者、そして彼の瞬間移動の魔法で少し遅れて到着した医師団と、魔術研究所の研究員ら、そして護衛の兵士団が集い、第6皇子ルノーを待ちかまえていた。


 その間、トリエルノはぽつぽつとシルハーンに恋人だったころの王子の話をした。夫はその間じゅう、顔色ひとつ変えずに聞いていた。


 そのトリエルノの声がふと途切れた。琥珀色の瞳をギラギラと輝かせながら空を仰いだかと思うと、夫に向けて爽やかに笑った。

「ルノー殿下がいらっしたようですから、こちらまで誘導して戦います。……我が公、今晩こそ我が公から『突撃!』で1本取ってみせますからね!」


 夫は一瞬目を丸くしたものの、すぐにその顔に笑みを浮かべた。楽しみにしている、と優しく声を変えると彼女は無邪気に首を縦に振って、雷のヒールを履いた足で地面を踏みしめ跳び上がった。ミスリル鉱の防具と白い騎士の制服を身に着けた体が空を上へ上へと駆けていく。その軌跡は夜空に淡い黄色の光を帯びながら長く尾を引き、そこに向こうの方から飛翔してくる黒い塊と接近した。光るものと黒いものは互いに近づいては反発し、その動きを繰り返しながらフセルフセス領の森の上空へと飛んでいく。


「殿下? ルノー殿下でいらっしゃいますわね?」

 雷を発しながらトリエルノが黒いもの……獣じみた姿の人間に問いかけると、それはカッと目を見開いて叫んだ。

「僕を裏切ったか、トリエルノぉッ!」

 怒号と同時に前に突き出した口から発せられた氷のつぶてに、雷乙女は思わず後方に飛びのいて距離を取った。


「なぜ逃げるトリエルノ、僕は君に会いに来たんだぞ!」

 服の袖から伸びる、爪の生えた毛むくじゃらの手が勢いよく伸びて元恋人の肩を強くつかんだ。そのあまりの力強さに、騎士団の白い制服の肩口に赤いシミが滲みだす。トリエルノは顔をしかめながらもその毛むくじゃらの腕に触れた。

「ッ、私に会いに?」

「そうだッ!」


 ルノーが吠え、トリエルノの頭上に巨大な氷柱が現れる。彼女は素早く身をひるがえし、落下するそれをよけた。ククク、と喉を震わせてルノーが笑った。らしくない笑い方だった。その顔には黒い毛が生え、口周りは犬のように突き出ている。頭の上では三角の耳が横に広がり、小刻みに震えている。


「君の戦闘スタイルは変わらないね。雷の魔法を生かした素早さを武器に、遠距離攻撃が駄目だと分かれば相手の身体に触れて直接電撃をお見舞いする。それを同窓生の僕が忘れていると?」

 喋ると鋭い犬歯がちらちらと覗き、咥内の真っ赤な舌が舌なめずりする。


 およそ以前のルノーとは似ても似つかぬ姿だった。だが、彼の扱う天空魔法のひとつ、雪霰の魔法は昔と変わらぬ王子のそれで、彼の恋人は唇をかんだ。

「殿下、お早く東離宮にお戻りください」

「なんだよ、つれないなァ。恋人の研究成果にコメントも無しだなんて」

 王子が唇をゆがめて笑う。優秀な兄と姉を5人持つ末弟がトリエルノに時折見せていた、卑屈な笑みだった。彼女は顔をしかめ忌憚ない意見を提示した。

「では僭越ながら申し上げますが、いま殿下は人の形を失いつつあります。魔獣の捕食強化反応の強化課程の人間への適応としては失敗の範疇かと」

「君はあの頃から僕の研究内容には懐疑的だったね」


 王子がわざとらしく肩をすくめると、その同窓生は目を伏せてゆっくり首を横にふった。

「我々人間と魔獣は身体の構造も生態も異なる生き物ですから」

「……王族と貴族のように?」

 とげとげしい元恋人の言葉に、トリエルノは眉間に悲壮な皺を刻んで彼を見つめた。ルノーがせせら笑う。


「王族と貴族は違う生き物だから君は貴族と、あのフセルフセス公と結婚したの? あれだけ僕のことを好きと言っていたのに?」

「ッ、それは!」


 弁明しようとしたトリエルノの眼前に、巨大な氷塊が現れる。ルノーは鋭い爪と毛を備えた足で宙を踏みしめ、氷塊で弾みをつけて弾丸のようにトリエルノの間合いに突っ込んだ。

「王宮の隅でも噂話は良く聞こえてくるものだね。……トリエルノ、あの頃あれだけ僕のことが好きだと言っていたのに、どうして僕を裏切った!」


 そのまま獣の手はトリエルノの腕を強く掴み、死なば諸共と言わんばかりに縺れ合ったまま空からはるか地上へと猛スピードで落ちていく。

「僕よりも、フセルフセス公の方が好きだとでもいうのか!」

 灰色の空を背景にして、獣の顔が歪む。ヒュウヒュウと空を切る音と風の音を聞きながら、フセルフセス公爵夫人は落下中という危機も忘れてポカンとした。


「好き? 私が公を?」

 まさか、と一笑に付そうとして黙り込む。つい数時間前のアンナの言葉を思い出したのだ。

(……そう、思い出してみれば、あの時アンナが言いたかったことは)

 地面に向かって落ちていくトリエルノの耳の奥で、アンナの声が響く。


 ――お嬢様、お嬢様はシルハーン様のことが。


(好き、だと。言おうとしていたの?)

 分からなかった。

 今トリエルノが本当に、例えばあの頃ルノーのことが好きだったようにシルハーンを好きでいるのか、それは良く分からない。


(分からない……だけど、一つ確かなことがある)

 トリエルノは自身の腕を掴む獣の腕を掴み返し、声を上げた。

「私がこの先を共に歩く相手として選んだのは、殿下ではなく、シルハーン・フセルフセス公爵閣下です!」


 ルノーはカッと緑の目を見開いて元恋人を睨みつけ、歯茎をむき出しにした口で唸り声をあげた。

「氷雪!」


 眼前に巨大な氷塊が現れ、さしもの雷乙女も反応が遅れた。ルノーは隙のできた彼女の身体を地面に向かって勢いよく投げ飛ばした。けれど、地面に接触する寸前で雷をまとう足が宙を蹴って態勢を立て直した。頭上では夜空よりもなお黒いものが空を駆け、ある一点を目指している。その行き先を察して、雷乙女はひとつ舌打ちして詠唱した。

「雷光一閃!」


 彼女の身体がピカピカと光を発したかと思うと、ズドンと大きな音がして、目にもとまらぬ速さで森の夜闇の中を飛翔する。時間にして約1秒後、発光地点から数百メートル離れたところにいたシルハーン一行の前に轟音を伴って光が降り立った。光、否、光をまとったトリエルノは無茶な高速移動に激しく肩を上下させ、額に汗を滴らせながら背後の人々に警告した。


「戦闘要員は武器を構えて! 殿下が来ます!」

「医療団は後退、兵士は彼らを囲んで警護に当たれ!」

 王国府からの一団に指示を飛ばしたシルハーン・フセルフセスは兵士らの周りに長槍で囲いを作り防護壁として、自身の剣を抜く。


 絶叫とも怨嗟の声ともとれる大音声が響いたのはその時だった。

「シルハーン・フセルフセス、そこかァッ!」

 声の主は灰色の雲で覆われた夜の空を背景に、獣を思わせる前傾姿勢で空から猛スピードで駆け下りてくる。


「我が妻よ、これを!」

 トリエルノは夫が差し出す銀色の弓を握ると、雷のヒールで地を踏んで高く跳躍し、全身の毛をなびかせるルノーの前に立ちはだかった。ルノーの毛むくじゃらの手が爪をきらめかせて振り下ろされる。けれど、その横を地上から飛んできた銀色の長槍がかすめたせいで、彼の意識が逸れて、同時に僅かに腕の狙いも逸れた。シルハーンの支援投擲である。


 ガツン、と鈍い音を立ててトリエルノの弓は獣の攻撃を受け止めた。獣が歯をむき出しにして唸った。

「ッ、そう、だよなぁ! 君はあの会話だけで僕が次に誰を狙うかきちんと見抜けるんだよなぁ!」

「私、に、会いに来て! 公爵と結婚した私を呪う、なら、次に狙うのは公爵しかない、でしょう」

 その程度のことは当然だとばかりに元恋人に言い返すトリエルノは声を震わせ、顔をしかめる。弓を支える腕が震えていた。


「君はッ、変わらないなぁ! ねえトリエルノ、帰ろう、僕と一緒に王都に帰ろう! 2年後には僕の謹慎も解ける、だから僕と一緒にまたやり直そう!」

 ルノーが泣きそうな顔で苛立たしげに叫びながら獣の腕に力を込め、ついにトリエルノが押し負けた。彼女の身体が勢いよく弾き飛ばされ、一緒に手から離れた弓も宙を舞う。

(まずい、体勢を立て直せない!)


 急降下しながら回転する視界に攻撃の構えを取った黒い獣の姿が映り、トリエルノの顔から血の気が引いた。この無防備な状態では、地面にぶち当たるよりも前に王子の攻撃が直撃すると直感したからだ。


 しかし。

「トリエルノ!」

 彼女の耳の傍をヒュン、と銀色の矢が飛んで行ってルノーを牽制した。かと思うと、彼女の名を呼びながらその身体を墜落寸前で抱きとめる腕があった。その手にはさっき彼女が手放してしまった弓が握られている。


「無事かトリエルノ、我が妻よ!」

 背に回された腕の強さで、トリエルノはさっきまで自分が生死の境を踏み越える手前にいたことを思い出して全身を硬直させた。シルハーンは子どもをあやすように彼女の背をぽんぽんと叩くと冗談めかして言った。

「ふふふ、分が悪いな。いっそルノー殿下が完全に魔獣に取り込まれてしまえばこちらも捕獲の手が緩むことなどないのだがな」


 フセルフセス公爵の不敬な言葉に、王国府の使者は僅かに顔をしかめたが追及はしなかった。医師団や護衛の兵士団は空を見上げ、困惑と恐れを顔いっぱいに浮かべている。脱走したルノー王子を捕獲して東離宮に連れ戻す、という王命が果たせるかどうかはトリエルノとシルハーンの奮戦にかかっていた。


 さっきの矢がかすめたのだろう、当のルノー王子は空から地へと駆け降りながら血のにじんだ獣の腕を振り上げる。シルハーンが手の中の弓を剣に変形させるとその鋭いきらめきにさしもの獣も怯み、空へと後退する。そのルノーの横面めがけて電撃が閃いた。彼がそれを避けたと分かるや否や、トリエルノは今度は素早く獣の背後を取って、続けざまに電撃をけしかけ地へと追い立てる。すると護衛の兵士団がシルハーンの指揮で一斉に槍を突き上げた。


 トリエルノは戦場の只中にいながらも、感極まって首を緩く横に振った。

(さすがフセルフセス領主、私の動きに合わせて殿下を追い詰めてる。……思えば結局、フセルフセス領に来る前にこんな風に私と肩を並べて戦場に立ってくれたのはお祖父様とお祖母様、それからアンナ以外にはいなかった。5……)


 恋人だったルノー王子と共に裁きを受けた審議会でのことをトリエルノが思い出そうとしたが、それは中断された。

 兵士団の槍を避けて地に降りたその王子が舌打ちして声を上げたからだ。

霰弾氷塊さんだんひょうかい!」


 その場の誰もが身震いした。術者の犬のような三角の耳の遥か上に何かが見えた。その「何か」の姿に、トリエルノの身体が震えた。寒さからではない。その巨大な氷柱の群れこそ、ルノー王子が最も得意とする強力な攻撃魔法だったからだ。圧倒的な物量とそれを的確なコントロールで確実に敵にぶつける術者の技量が合わさり、かつては雷乙女ですらろくに攻略できなかった代物である。


 毛むくじゃらの黒い腕がトリエルノにとって懐かしい動きで軌跡を描いた。

(そう、殿下の霰弾氷塊を操るあの動き……退

 その動きに合わせて、鋭利な氷柱がシルハーンをめがけて勢いよく飛び出した。それと同時にトリエルノは雷の速さでシルハーンの傍へ移動し、彼の手にある剣を握った。

「公、我が公よ、このトリエルノも共に参ります」


 シルハーンは驚いたような顔をしたがそれも一瞬のことで、静かにほほ笑むと妻の手の上から剣を握りなおして魔法で変形させる。トリエルノも己の魔力をそこにつぎ込むと、武装はまばゆい光を発した。2人の左手には銀色の巨大な弓が握られている。

「助かる、我が妻よ。この強弓ではこのシルハーン一人の手には余るのでな」


 シルハーンは眼前に向かってくる巨大な氷塊を見据えながら、弦に添えられたトリエルノの右手に己の手を重ねて力いっぱいグイと引く。そこに巨大な雷の矢が現れて、バチバチと激しく音を立てた。


 バシュン、と雷の矢が放たれる。それは向かってくる巨大な氷柱を打ち砕き、勢いは衰えぬままに真っすぐルノー王子に突き刺さった。


 夜の森に絶叫が響く。

「グオォォォォッ! トリエルノ、なぜ僕を裏切った! どうしてフセルフセス公を選んだ、その男と僕の何が違う! 公爵も僕も、君と同じように生まれ持った好戦的な魔法を持て余して苦しんだ、それなのになぜ僕でなく公爵なんだ!」


 電撃に全身を痙攣させながらルノーが叫び、詰問する。魔獣と融合したことによる体質の変化は、彼が常人のように気絶することを許さなかった。シルハーンが護衛のための兵士団に素早く捕獲の指示を出し、兵士たちは獣じみた王子に駆け寄る。それを横目に、トリエルノはうち沈んだような声で言った。


「私が裏切ったと言うのなら、殿下もそうでしょう」

 ビク、とルノーの身体が強張った。


「殿下はかつて私に、魔獣が出た際には王侯の務めとして必ず共に戦ってこれを撃退するとお約束くださった。けれど殿下、殿下はあの5年前の審議会で私と共にあの場で沙汰を受けたにもかかわらず、魔獣が出現した際に


 トリエルノが言葉を口にすればするほどルノーはぶるぶると震えて目を見開く。 

「殿下のお言葉を借りるなら、私と殿下は互いに互いを裏切ったのです」


 グオォォォォォッ、と獣の咆哮が響いた。その勢いでルノーは鋭い爪のついた黒い毛の腕を振り回し、兵士たちをなぎ倒して起き上がった。そのまま天を仰ぎ見てウオォォォォォン、と遠吠えを響かせる。


 誰もが王子に視線を向けた。


 月下、王子の全身が長い毛に覆われ、前傾姿勢だった身体は四つん這いになる。その顔にかつての優しい秀麗さは無く、荒々しさだけが支配している。

 ルノー王子だったモノは黒く巨大な狼の姿をした魔獣へと変化した。


「魔獣に、なった……?」

「完全に取り込まれたのか!」

「どうすりゃいいんだ、大使殿!」

「魔獣になった場合も確保せよとの陛下の仰せだ!」

「急ぎ捕獲し、お医者様方に任せましょう。魔獣との融合状態になるまでには猶予があるはずです」

 トリエルノが元恋人の研究内容を思い出しながら王国府の大使の言葉を補足し、誰よりも早く再び強弓を構えた。


 その瞬間だった。

 黒いつむじ風が駆け抜けて、トリエルノの身体を空高くへ放った。


 否、つむじ風ではない。黒い狼となったルノーが目にもとまらぬ速さでトリエルノを巨大な口に咥えて空に放り投げたのだ。誰もが唖然とする中、黒い狼は前に突き出たマズルからまだら模様に赤くなった鋭い牙をむき出しにして吠えた。

凍土絶勝とうどぜっしょう!」


 途端に地面が凍り付き、鋭い氷の柱が聳え立った。森の木々の背を遥かに越える高さの柱である。


(……何、これ、動けない?!)

 その柱のてっぺんで、トリエルノは周囲を見渡し震えていた。今度こそ寒さから来るものだった。彼女の身体は半分ほどが氷に取り込まれ、寒さも相まってろくな身動きができなくなっていた。


(殿下ってこんな魔法も使えたの? 氷霰の魔法は天空魔法の一つだから地に作用するのは難しいっていうのが定説だし、私もそうだと思っていたのに)

 体温が奪われてガチガチと歯を鳴らしながら、トリエルノは恋人と離れていた5年間を想う。しかしそれも早々に切り上げることになった。


 足元から、黒い狼がほぼ垂直の氷の柱を駆け上がってきたからだった。


 かつての恋人が自分の両手に凍てつくように冷たい牙を立てたのを目の当たりにし、トリエルノは目を見開いた。手のひらに氷の楔が打ち込まれて氷の柱にはりつけにされたことを認識すると、彼女はきつく眉間にしわを刻んで濁った声を上げた。


「グぅ、ぁあ゛あ゛ぁぁぁッ!」

 苦悶の声である。彼女の両の手のひらから血が流れて、氷の柱に滴り、けれどその冷気に赤く凍り付いた。


「君を連れていくには、まずあのを黙らせなくてはね」

「殿下、とは参りま、せん。フセルフセス公、を夫と定めました、から」

 トリエルノが痛みと寒さでおぼつかないくちびるを動かしてとぎれとぎれに答えると、元恋人は舌打ちした。


「陛下の推薦なんて理由で、好きでもない男を選んだのかい?」

 黒い狼型魔獣となった元恋人が理性的な声音で繰り出す非難にトリエルノが言い返そうとするが、氷柱に磔になった身体は震え、うまく言葉を紡げなかった。彼女の顔が一層青ざめる。

(……詠唱できないと私の魔法は、特に強力な魔法は使えない。この状態からどうやって脱出すれば良いの?)


 黒狼は血の気を失った恋人の顔をチラと見ると、行きと同じように氷の柱を伝って地上へ駆け下りた。それを迎え撃つのは当のシルハーン・フセルフセスである。

「我が妻トリエルノにむごいことをなさったようだ、殿下。仮にもあなたの恋人であったというのに」

 狼公が低い声で唸って睨みつけると、黒い狼はあざけるように笑った。


「ふぅん、君は耳が良いんだね。フセルフセル公。あんな高いところにいるトリエルノの声が聞こえたとは」

を持つのは王家だけでもありませんから」

 王家の末息子を睨みつけるシルハーンの長い銀髪がひとりでにざわざわと蠢いたかと思うと、それをかき分けて髪と同じ色の三角の耳が現れた。

「そうだったね、忘れていたよ!」


 第6王子が身を躍らせ、真っ赤な口を大きく開いてシルハーンに襲い掛かる。彼は件の強弓を槍に作り替えてそれを受け止めようとする。だが、唾液に濡れた牙が冷気を伴ってそれをかみ砕いた。砕かれたところが凍り付く。

「ッ、さすがに王子殿下ということか!」


 その攻勢のすさまじさにシルハーンは目を見開いておどけたように声を上げた。二つに割れた槍を両手に握って、自分まで凍り付いてはたまらないと後方に飛び退く。その動きに合わせて彼の背中で銀色の長い尻尾が揺れた。


 黒い狼が苛立たしげに後ろ足で土を蹴った。

「気に食わないなぁ。いくら陛下の推薦とはいえ、どうして好きでもない子トリエルノめとったのかなぁ。社交界随一の自由人、傍若無人の君らしくない! 貴族の中の貴族、わが国最大の要地の守護者たるフセルフセス狼公が嫌だと言うなら陛下だって聞き入れたはずなのに!」


 駆け出した第6王子が宙に身を躍らせてシルハーンの首筋をめがけてとびかかった。勇猛無敵で知られるフセルフセス狼公は、自分の間合いに入った黒狼に対して退くどころかむしろ一歩前に踏み込んだ。黒狼は緑の瞳をギラギラとたぎらせ、興奮で毛並みを逆立たせて笑った。


「ハハッ、図星を突かれて血迷ったか、シルハーン・フセルフセス公!」

 狼の鋭い牙がシルハーンの首筋から左肩口にかけてに噛みついた。しかし彼の口から聞こえたのは苦痛の悲鳴ではなく、余裕のある笑みを添えた堂々とした言葉だった。

「まさか、勝機はここと断じたまで。殿下、ご無礼!」


 言うや否や、首筋から流れる血にも構わず、シルハーンは右手に握っていた折れた槍を黒狼の腹に突き立てた。続けざまに周囲の兵士から受け取った剣や槍を2本3本と急所を外して刺す。シルハーンの腕をかみちぎろうとしていたルノーの反応は当然遅れ、地面でのたうち回りながら遠吠えめいた大音声を発した。


「くそッ、肉を切らせて骨を断つ覚悟だとでも言うか、フセルフセス公! その蛮勇が気に食わない。トリエルノもそうだ。審議会の場で震えていた僕を置いて、真っ先に魔獣に向かって駆け出したッ!」


 君が羨ましかった、という悔恨に満ちた絶叫は森全体を揺らし、空高くにまで響いた。その声を聞き届けて、木々のはるか頭上にまでそびえた氷柱の先で磔にされていた雷乙女は苦笑し、吐息か声か判別もつかないような言葉を青ざめたくちびるから漏らした。

「……蛮勇、どころか、勇、気なんて、これっぽっちも、ありませんよ。ただあのとき私は、殿下がきっと一緒に戦ってくださると信じて、それで自分を奮い立たせて魔獣掃討に乗り出した」


 目を閉じて集中する。全身に魔力を巡らせると、彼女の全身はにわかに雷をまとった。ゆっくりと口を動かした。


来迎雷火らいごうらいか雷轟電撃らいごうでんげき――……霹靂神はたたがみッ!」

 にわかに暗雲に覆われた空がゴロゴロと鳴り出し、誰もが空を見上げたその瞬間。


 人々は見た。空高くにそびえた氷の柱が、夜闇を白く染め上げる一条の光に打たれて砕ける様を。

 人々は感じた。天が割れ、地が裂けたかと思うほどの轟雷の衝撃を。


 誰も彼もが右往左往し、口を開け、目を見開き、あるいは閉ざし、地に伏せて頭を守り、あるいは立ち尽くす中で、シルハーン・フセルフセスだけは拘束が解けて砕けた氷と一緒に地へ落ちようとして宙に放り出された女の姿をとらえていた。彼は手近に捨て置かれていた弓を素早く拾うと、護身用のナイフや兵士たちの剣を矢に変形させながらルノーに声をかけた。


「殿下は一つ勘違いをしておられる。俺は審議会の話を聞いたときからトリエルノ嬢のことを憎からず思っていましたが、この間サロンで初めて喋ったときに彼女のことを好きになりました」

 その告白に、狼の緑の目が見開かれ、三角の耳を伏せ、口をパカリと開いてわなわなと震えた。元恋人の新郎に何か文句のひとつでもぶつけてやろうとしているようだったが、それは笑みを浮かべたシルハーンの朗々とした大声にさえぎられた。


「トリエルノよ、我が妻よ、俺はここだ!」

 遠吠えじみた声で言うと、シルハーンはそのままトリエルノのいる上空めがけて鉄の矢を続けざまに放った。


「何をするつもりだ!」

 黒狼が素早く体を起こして意味の分からない行動をしたシルハーンを組み敷いて腕を噛むと、牙をむき出しにして怒鳴った。武器を身体に刺され血を流したこの状況でも動けるのは魔獣と融合したことと、狼の因子によるものだった。

「一体何をした、言え、フセルフセス公!」


 魔獣を相手に無敗を誇るフセルフセス領主もさすがに顔をしかめた。けれど口の端を持ち上げて、剛毛に覆われた体に刺さった槍に己の手を添え、己の魔力を固めて柄を伸ばした。

「我が妻トリエルノを信じて託しただけです。殿下を捕獲するには俺一人では不十分ですから」


 応えるように再び空に雷鳴が鳴り響き、それに負けじと女の声が降りかかった。

「シルハーン卿、我が公よ、今参ります!」

 稲光をまとったトリエルノだった。彼女の頭上にはシルハーンの放った矢が雷をまといながら浮遊して魔法陣を描いている。黒狼ルノーが唖然となった。


神鳴かみなり……」

 まだ恋人同士で大学に在籍していた頃の彼女が一度たりとも成功させたことのない大技だった。その上、雷がより高いところに落ちる性質を思い出し、ルノーは己の身体に刺さった長槍をどうにかしようと身もだえする。けれどそれをシルハーンが己の巨体でもって封じこんで空に叫んだ。


「我が妻よ、俺の元に落ちて来い!」

 あの八重歯をのぞかせた無邪気な顔と背面で大きく左右に揺れている銀色の尻尾を見つめて、トリエルノは静かに確信する。


(……アンナの言う通りね。好きに、なっている。あの人を、フセルフセス公爵を)


 諦めのような心地よい感覚を噛みしめながら、雷乙女かみなりおとめが詠唱した。

来迎雷火らいごうらいか雷轟電撃らいごうでんげき――……神鳴かみなり神殿ッ!」


 術者自身が一条の雷となって閃光を放った。そのまま木々の群れをかき分け、シルハーンの魔法とひかれあうように、黒い狼に刺さった槍の上に落ちた。


 ズドン、と地を揺るがすほどの音が響いたかと思うと、ルノーが絶叫して喚いた。

「ギェアァッァああぁっぁぁッ! トリエルノ、この裏切者! また僕を置いて行くのか、好きでもない男を選んで……ッ!」


 雷のヒールで槍の上に立つトリエルノに大きな手が差し出された。シルハーンは間一髪で彼女の雷撃の巻き添えを逃れたようで呆れたような、面白がるような、誇らしげな、愛おしげな顔で笑っていた。トリエルノは土と血と汗で汚れた夫の手を強く握った。


「私、もうとっくにフセルフセス公が好きです。私と肩を並べ、私に命を預け、私を信じて、私に勇気を分けてくれるフセルフセス公爵が」

 彼女はルノーに向き直った。黒い狼は大きくため息をつくと黙って目を閉じた。   

 

***


 トリエルノの最大火力の電撃を受けたルノーはそのまま気絶して、医師団が鎮静剤と麻酔薬を打ち、固く拘束してから東離宮に運ばれた。そのまま治癒魔法と外科的アプローチによって黒狼は魔獣との融合を解除された。王家が受け継ぐ狼の因子が融合した魔獣に作用して、ああも優しく穏やかなルノー王子を変えさせてしまったのだろうと、医療部門と研究部門からそんな結論が上がった。


 後日、王国府は第6王子ルノーの謹慎期間を3年延ばすことを朝一番に発表し、東離宮からの王子の脱走にトリエルノ・ダズリン・フセルフセスが一切関与していないことを断言した。王宮への出入りの記録に彼女の名前は無かったのだ。


「……気が咎めるか?」

 良く晴れた休日の朝、居室のソファに座って王国府からの通達に目を通したトリエルノに、その夫が優しく声をかけた。双方揃って傷だらけで、体のあちこちに包帯が巻かれていた。


 妻が苦笑して「ええ、まあ」と曖昧に肯定すると、シルハーンは黙って彼女の隣に座ってその肩を抱いた。あの三角の耳と尻尾は闘争心をあおられたときにのみ出るようで今は影も形もなかったが、今もしもそれらがあるなら耳も尾もどちらも力なく垂れていただろう。


 何か慰めとなるような言葉を無理に繰り出そうとしないシルハーンの誠実さが心底好きだとトリエルノがしみじみと思いながら彼にもたれかかると、途端に彼の身体が強張った。


「公、緊張なさっておいでで?」

 驚きあきれたトリエルノが夫を見上げる。銀髪の美丈夫はほのかに頬を赤くして困ったように笑った。

「いやぁ、貴女が俺のことを好きだと言ったのが今更じわじわと効いてきてな」

 参った、と眉を下げたその顔に滲む無邪気さに、トリエルノは毒気を抜かれたような心地になった。

「てっきり俺が一方的に貴女を好きでいるのだとばかり思っていたから心の準備が」


 言われて、今度は彼女が顔を赤くした。思い返せば随分と大胆なことを言った気がする。けれど今は、その気恥ずかしさですら楽しかった。足がむずむずと動き出し、くちびるがにっこりと弧を描いて、たまらないとばかりに彼女はソファから立ち上がってシルハーンの手を引いた。


「公、我が公、今から散歩に行きませんか?」

「そういうことなら俺のとっておきの場所に連れて行こう!」


 弾んだ声に誘われて、シルハーンは狼の尾のような長髪を揺らして立ち上がり、手をつないで外へ駆けだした。きゃらきゃらと笑い声が響いて、城内の者たちはそちらに目を向け呆れたように笑ってため息をつく。


「シルハーン様、いつもの場所ですね?」

「お嬢様、後でカルさんと一緒にお昼を持ってまいります」

 頼んだ、という威勢の良い返事に傍仕えたちはますます笑みを深めた。夫婦というにはあまりに無邪気だが、本人たちが幸せならそれで良い。そう結論付けて陽の中を満面の笑みで駆けていく夫婦の背を見送った。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雷乙女と狼公の結婚 王子の元恋人が婚約破棄を3回食らった公爵と結婚するとこうなる 鹿島さくら @kashi390

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ