File2_おやすみ
7月10日。月曜日。21時32分。
「ふぅ。今日はもう寝よっか」
抱きかかえられたまま、のそのそとした足音でゆっくりベッドへ移動する。ぼふっという着地音と、ベッドのきしむ音。
「あぁー……」
一日の疲れを全て吐き出すような気持ちの良い声。
電気を消す気力すらも起きないのか、落ち着いた呼吸音だけが聞こえる。
「ん」
7回ほど呼吸音がしたところで、身じろぎするような声と共にピッという電子音。照明が落ちたらしい。
寝返りを打つ衣擦れの音と、ぎゅむっと締め付けられるような音。横向きになってぬいぐるみを抱いているらしい。吐息の音がぐっと近くなって、どこかなまめかしい。
「はぁー。やっぱりあなたはふかふかだね。こうやってギュッとしてるだけで、なんだか落ち着く」
ふわふわとして、聞いているだけで安らぐような声。キュッと抱き寄せられて、密着度合いが上がる。そのせいでトクントクンと心臓の音まで聞こえてくる。
ゆっくりとした心音と、呼吸音。5つくらい呼吸音がしたところで再度語り掛けられる。
「ねえ、今日ね、嬉しいことがあったの」
相変わらずふんわりとしながらも、ウキウキとした声。
「あなたに言ったことあったっけ? 職場にね優しい先輩がいるの。いま働いてるところ、殺伐としてて、あんまり雰囲気は良くないの。遅くまで残業するのが当たり前ってかんじで、ちょっとお手洗いに立っただけでにらんだり、舌打ちしたり……」
途中から声に陰が混ざり始める。
「ほんと、ひどいよね。そのせいであなたとの時間が減っちゃうし」
何か思うところがあるのか、ぎゅむっと抱き寄せられる。
「まぁ、週に二日休めるだけまし……なのかな?」
自分に言い聞かせるように呟くが、呑み込みきれなかったのか疑問符を浮かべる。
「うーーん。なんか、いまの環境がマシなんだって、自分を丸め込もうとしてるような、変なかんじ……」
何か思案しているのか、唸るような声。
「あ! あなた、ごめんね。こんな話聞きたくないよね」
ハッとした声をあげると、声の密着感が少しだけ遠のく。抱き寄せる力が無意識に強くなっていたことに気付いたらしい。陰をはらんだこえが、耳触りの良いふわふわしたものに戻る。
「あなたと居ると、つい、気が緩んじゃって……。包み込まれてるみたいで安心するっていうか、なんていうか……。だから、言わない方が良いって分かってても、つい口に出しちゃうんだ。ごめんね」
無条件にいいよと返したくなってしまう甘えるような声。
「そんな大変な職場なんだけどね、一人だけとっても優しい先輩がいるの」
「私なんかよりすっごくたくさん仕事抱えてて絶対大変なのに、周りに全然当たったりしないの」
声に段々熱が帯びてきて、なんだか微笑ましくなってくる。保育所ぐらいの子供が、母親にその日あったことを嬉しそうに報告する様子を彷彿とさせて、ほっこりしてしまう。
「さっき言ったみたいな、とげとげした職場でだよ! すごくない?」
「なんだかね、その先輩がいるだけで空気がちょっと和らぐようなかんじがするの。息をしやすくなるって言うのかな……。ぴりぴりしててどうしても不安になっちゃうけど、私はここにいて良いんだなって、認められてるような気分になるの。えへへ」
その先輩のことを思いだしているのか、しまりのない笑い声を漏らす。
「それでね、今日はその先輩と二人で外回りしたの! ぴりぴりしたフロアから飛び出せるってだけでも嬉しいのに、菩薩みたいに優しい先輩と二人でだよ! 最高だよね!!」
「二人の時もやっぱり先輩は優しくて、全然緊張しなかったよ。お話してて楽しかったし、本当、今日は良い日だったな」
言葉の勢いがちょっとずつ弱まっていき、最後はしみじみとしたように呟く。
「今日早く帰ってこれたのも、先輩が駅で下ろしてくれて直帰していいよって言ってくれたからなの。今日はあなたとも長くいられるし、なんだか幸せ。いひひ」
聞いているだけで幸せな気分になるはにかむような笑い。
「ふぅ。あなたとお話してたら、なんだか眠くしてきちゃった。今日は良い夢見れそう。ありがとね」
きゅっと優しく抱き寄せられる。
「おやすみ、あなた。大好きだよ」
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