File4_ほめてくれた

 7月24日。月曜日。23時55分。


「あなたー、ただいまー」


 ドアの開閉音と、軽い足音。


「ふんふ~ん♪」


 鼻歌交じりに近づいてくる。


「えへへ。あなた、今日もいいことあったんだよ。聞きたい? ねえ、聞きたい?」


 ごそりと引き起こされる音がすると、さわさわと忙しない音。恐らく、ぬいぐるみの手足をひっきりなしに動かしているのだろう。


「んふふ~。仕方ないなー。あなたがそんなに聞きたいって言うなら、教えてあげるねー」


 むふーと鼻の穴が大きくなっていそうな自慢げな声。


「今日ね、先輩が褒めてくれたんだよ! その髪型も似合ってるねって! いひひ。いいでしょー」


 ぎゅむっと強く抱きつかれて、ぞりぞりという音が続く。感極まってぬいぐるみに抱き着いて、そのまますりすりしているのだろう。


「でも、先輩ったらおかしいんだよー」


 よほど面白かったのか、笑い声の混じった声。


「私を見た瞬間、一瞬だけ目を大きく見開いたの! おでこにしわが寄っちゃうくらい。でも、すぐにいつもの表情で挨拶して来るの。ただ、その後もずっと気まずそうにしててねー。もう、なんかやっちゃったかなって不安になってたんだけど、仕事が一区切りついたところでおずおずと切り出してくるの」


 いつもの穏やかな語調とは違う、うきうきとして饒舌な声。


「あの、その髪……なんかあったんですかって」


 その時の様子を再現しようとしているのか、これまでの口調とは一転した固くてくぐもっている声。必死に低い声を出そうとしているのが微笑ましい。


「あんまり深刻そうに言うから、もう、おかしくって。ふふ、ふふふ」


 思い出したら笑いがこみ上げてきたようで、喉を鳴らして控えめに笑う。笑いの波が一段落つくと、再度口を開く。


「それで話を聞いてみたらね、先輩ったら、私が彼氏に振られちゃったんじゃないかとか、そんなこと気にしてたんだよ!」


「ほんと、気にしいだよねー。もう、朝最初に見た時からずっとそんなこと考えてたんだって! 一瞬変な顔したのもそのせいみたい。先輩ったら、おかしいよね。普通、最初に思うことじゃないでしょ。ふふふ」


 今度の笑いは一息分だけで、すぐに話に戻る。


「私がそれ言ったら、先輩、『いや、まあ、その……』とか言って、変なとこ見ながらどもるんだよ。もう、可愛くて可愛くて。くふ、ふふふ」


 またしてもツボに入ったのか、しばらく笑い続ける。時々綿のこすれるノイズが混ざるので、無意識にぬいぐるみを抱く力も強くなってしまっているのだろう。


「はぁ、おっかし」


 ようやく一段落ついたのか、いつもの穏やかな声に戻る。


「でも、そうやってどもった後、ハッとした表情になって、その髪型も似合ってるよって言うんだよ。ふふ」


 噛みしめるように綻んだ笑い。


「しかもねしかもね、先輩ったら、今フリーなんだって!!」


 よほど嬉しいのか、声に勢いが戻る。


「振られたから髪切ったんじゃないのかっていう流れから聞きだせたんだよ」


「うん。あの時の私を褒めてあげたい。本当によくやった」


 何度も深く首を縦に振りながら噛みしめている。そんな情景が浮かんでくる感慨深げな声。


「先輩みたいな良い人、絶対に相手がいると思ってたから、意外だったよ。……でも、これって私にもチャンスがあるってことだよね」


 最後は誰に言うでも無くぼそりと呟く。

 ぎゅむっと抱き寄せられて、呼吸音がしばらく続く。何か考え事をしているのか、うーんとか、でもとという呟きが時々漏れる。


「よし」


 妙に長く続く時間が三十秒ほど続いたところで、腹が座った重くて、それでいてキレのある声。


「前に見つけて、遊びでいじってたあれを使おう。これを使ったら、先輩どんな顔するかな。ふふふ……」


 忍び笑いを漏らすと、3歩ほど足音。椅子がすわるコトンという音の後にカタカタとキーボードの音が続く。

 キーボードの音の隙間に時々どこかほの暗さを感じる笑い声が混じって、徐々に音がフェードアウトして、再生が終了した。

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