File5_すきすぎて辛い
7月29日。土曜日。20時23分。
「ねー、あなたー。聞いてくれる?」
吐息が耳をくすぐっているように錯覚してしまうようなささやき声。その距離感にドキドキする。だが、そんなこととは裏腹に、いつもよりも少し低い声はなんだか落ち着く。
「最近ね、なんだかお休みの日がすごく長く感じるの」
「あの、その……ね」
もじもじとしながら言葉を探す。決心したように、息を一つ吐いて続ける。
「……なんだか、先輩のことばっかり考えちゃって」
「あ、いや、違うんだよ」
ハッと何かに気付いたのか、焦って取り繕う。
「お休みの日はあなたとまったりするのも良いんだよ! でも、でもね、なんでだか先輩のことばっかり考えちゃうの」
ぎゅっという綿の潰れる音。抱きしめる力が強くなったらしい。
「こうやってて、あなたが腕の中にいると、やっぱり落ち着くの。自分の中に抜けていた何かが埋まるような、そんな安心感。いつもなんとなく、漠然とした不安があるんだけど、それが無くなるの。このままでも別にいいやって思える。なんて言うのかな……地に足がついたようなっていうか。どっしり根を下ろしたような気分になる。とっても安心するの」
そろりと布がこすれる音。ぬいぐるみを撫でているのだろう。そっと触れるような丁寧な音。
「私が一番ダメな時、あなたをお迎えした。覚えてる? あの時は何もかもうまくいかなくて、本当に落ち込んでたな」
少し沈んだ声。だが、懐かしむような響きも孕んでいる。
「初めて会ったときは驚いちゃった。宅配便の箱を開いたら、あなたがみちみちにつまっててね。いまにも弾けちゃいそうなくらいムチムチで、ちょっと笑っちゃった。ふふ」
その時のことを思い出しているのか、クスリと笑いを漏らす。
「それだけでも元気をもらったのに、あなたを抱いてみたら、もっと幸せになっちゃった」
きゅうっと徐々に綿が締め付けられるような音。壊れ物を扱うように、優しく加減を見ながら抱きしめられる。
「もこもこで、柔らかくって、優しくて。ずっと触っていたくなっちゃう」
もぞもぞと衣擦れの音。その後にすりすりという音。
「こうやって、頬ずりしたくなっちゃうような、幸せの触感」
さっきよりも近くなった声。本当に頬ずりしていたのだろう。
「本当に最高の抱き心地」
キュッとしがみつくように抱きしめる音。
「柔らかいけど、それだけじゃない。私が抱きしめると、優しく反発してくれる。あなたがそうやって押し返してくれるから、ちゃんとここに居るんだよって言ってくれてるみたいで嬉しくなっちゃった。えへへ」
はにかむような笑い。
「それから毎日あなたと一緒にいた。あなたを抱きしめたら、それだけで安心しちゃって、じんわりとした気分になったの。その時期は、なんにも良いことが無いってちょっと荒んでたんだけど、あなたが来てくれたおかげで安定したの。あなたが私の腕の中に居てくれる。それだけで今日は良い日だったなって思えたの。だからね、あなたは私を助けてくれた恩人さんなんだよ」
きゅうっと優しく噛みしめるように抱きしめる音。
「……だからね、あなたのことを受け入れてくれたのが、嬉しかったの」
「話の流れであなたのことを言ったんだけど、先輩は受け入れてくれたの。ぬいぐるみを抱くのが好きなんて子供っぽいとか笑われるかなって思ったんだけど、当たり前のことみたいにさらっといいねって言ってくれたの」
「そのままついあなたって呼んでるって言っちゃったんだけど、それでも先輩は馬鹿にしたりしなかったの。もちろんちょっと驚いたような顔をして、独特なセンスだねって言われたけどね」
思い出しているのかクスリと笑う。
「でも、先輩はその後あなたって呼ぶとパートナーが家にいてくれるみたいでいいねって言ってくれたの。……それがね、とっても嬉しかったの」
感情が抑えきれていないのか、抱きしめる力が強くなって、綿がつぶれる。
「私にとって大切なあなたを、先輩も大事にしてくれた。そう思ったら嬉しくて嬉しくてたまらなくなったの」
寝返りをうつ衣擦れの音。
「それからはなんだか妙に先輩のことが気になって、ついつい目で追っちゃうようになったの。その前から優しくて良い人だなって思ってたんだけどね。ふふ」
少し恥ずかしそうだが、温かみを感じる笑い。
「そうやって先輩を見てると、やっぱりすごい人なんだなって。殺伐とした職場なのに、先輩はそれに呑み込まれないでみんなに優しい。そうやって気を回しすぎるせいで色んな仕事をもらっちゃって大変そうだけどね」
「……そんな先輩の支えになれたらって思っちゃうのはおこがましいかな。あなたが私を助けてくれたみたいに、私も先輩を助けられたらなって」
物思いにふけっているのか、優しく撫でる音が続く。
「はぁ」
やがてため息を吐くと、ぎゅむっと抱きつかれる。
「早く先輩に会いたいな……」
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