さようなら、マイディア、リトルシスター

シヲンヌ

本文

 白木しらき華音かのん


 華音さんとの最初の記憶は4歳の頃でございます。


 あ、いえ、失敬。実家が一軒挟んで隣同士ですので、もしかすればもっと前かもしれませんが。鮮烈に焼き付いているのが、そのときでございました。


 ねぇ。華音さん。

 覚えておりますか。保育園のあやめ組でわたくしと華音さんはいつも一緒でしたね。


 華音さんは1人になりがちなわたくしを、よく引っ張り出してくれたものです。綺麗なものを見つけただとかみんなでかくれんぼするから行こうだとか。理由は多彩でございました。それでも相手に対する寄り添いの気持ちを感じさせてくれる。斯様かような言葉をいつも選んでくれましたね。


 無論。わたくしと華音さんに衝突が無かったと言えば嘘になります。ですがそれは心配して、のことだと。えぇ、自覚のような意識はございました。


 だって華音さん、自らのことはあからさまに二の次でございましたので。


 わたくしも他の子も華音さんと、取っ組み合いまで発展した喧嘩だってしたことありますが。斯様なときは相手を悪し様に言うのが常と、存じておりますが。ふふ、はい。お集まりの皆様も察しがついたでしょう、特に華音さんと言い合いしたことがある方は、ね。


 彼女は昔からそういうでございました。


 今よりこういう言い方の方がA子ちゃんの良いところがわかるだとか、こうする方がB雄くんはやりやすいと思うだとか。

 要約すると斯様な事柄を言うのです。取っ組み合いのときなんて、自分で手を出したのに、引っ掻き傷ひとつでも付けたなら彼女の方が痛そうにするのです。


 果てには喧嘩しているのに、「1人は寂しいでしょ」なんて言って。

 黙って横に座るだけでしたが、喧嘩相手のわたくしの傍にずっといてくれたこともございましたね。あれ、結構嬉しかったですよ。実のところわたくしだけ世界に取り残された気分でしたから。


 はい。その頃から、華音さんは非常に正義感の強く面倒みの良い、優しいだったと。

 わたくしは記憶しております。



 それから小中高。華音さんとは非常に深く長く親交がありましたね。

 先程申し上げましたようにわたくしたちは実家同士が近くにございます。必然的に家庭同士も仲が良くて、今もお土産やお中元やらやり取りされているとか。わたくしは既に自らの城がある身分でございますが、実家と連絡を取る度に斯様な話を聞くのです。


 華音さんとわたくしは家族であった。とんと可笑しな虚構です。


 しかし事実と錯覚してしまうくらいに、私たちは一緒でございました。


 事実、学校でも校外でも妹のような距離感で、華音さんとは接していた覚えがあります。わたくしの血縁の弟ですら、小学校を卒業するまで華音さんを自分の姉だと思っていたくらいですから。筋金入りでございましたね。


 全く。本当に手のかかる”妹”でございました。

 えぇ、華音さんは”妹”で十分です。


 自分の関係ない喧嘩でも仲裁に行き。


 困っている人がいたら声をかけて時には手を貸し。


 あっちこっちで顔を出して。


 いつもてんてこ舞いで引っ張りだこで。


 人の中心で愛される華音さんは、すごく誇らしい”妹”でした。わたくしの最高の家族でございました。



 そんな可愛らしい”妹”が。


 本日、門出を迎えます。




 白状いたしますと。

 高校を卒業してから、華音さんとはしばらく振りにお会いしました。


 兄弟姉妹がいらっしゃる方には共感いただけるやもしれませんが。家庭内にいても時間が合わなければ顔すら逢わない、なんと言うことは程よくございます。かくいうわたくしも実弟相手に、覚えている中で半年以上は透明人間でありました。


 家の異なる華音さんが相手なら尚更です。

 本日、実に数年ぶりに華音さんとお会いしました。5年以上は顔を合わせていなかったような覚えがございます。それなりに長い年月でございますよね。

 それでも華音さんは記憶通りのでございました。


「独り暮らししてるって聞いたけど上手くいってる?昔から身体弱いのに無理してない?」


 なんて。第一声からして、もう。

 おや。もう本当に、新婦が斯様な顔をしてはいけませんよ。あぁ、実弥さねやさん、ありがとうございます。うちの“妹”が世話をおかけいたしました。ふふ。



 改めて。新郎の実弥さねやさんとお会いしたのは、本日が初めてでございます。

 親やそこの新婦本人から話を聞いておりましたが、顔を合わせてお話するのは先程の式打ち合わせが初めてございました。


 それでも彼の人の誠実さは行動の折々から滲み出ていて、気持ちの良い方とすぐにわかりました。主張が異なる意見でも間を取り持ったり、先程みたいに“妹”の手綱を上手く引いたり。この方なら華音さんをお任せできると、わたくし、とてつもなく安堵した次第になります。


 実弥さねやさん。

 改めて、わたくしの”妹”のこと、どうぞよろしくお願いいたします。


 おや。定刻以内とは言えども、長くなってしまいましたね。

 わたくしのスピーチはこれにて終了と、させていただきます。皆様も最後までご静聴いただき、誠にありがとうございました。


 これからもお二人の末永い幸せを、心より祈っております。



「葵」


 丁度シャンパングラスを置いたときだった。

 声がしたので顔を上げる。はて、どこからした声だったかな等と。のんびり辿れば、発信元は“わたし”の真横。


「あ、華音お疲れー」

 身近な方の本日の主役が一人、立っていた。


「華音お疲れー、じゃなーいッ」

 ただし、仁王立ちで。


 仁王立ちと言っても本日の華音はドレス姿。

 如何ほど足幅を広げようが、外からではわかりづらい。“私”も華音が腕さえ組んでなければ、あっこいつ仁王立ちしやがってる、だなんて。まず勘づかなかったろう。


 しかしながら。本日の主役は何やらへそを曲げているらしい。

 ぷんすこ、ぷんすこ。かわいらしいオノマトペが絶えず頭から出てくる。そんな幻視が映るくらい、わかりやすく顔から不機嫌が滲んでいた。それと態度も。

 華音を見つつ、“私”は右手で頬杖をついた。


「何ですか何ですか、主役のする顔じゃあないでしょうそれ」

「犯人が澄まし顔しないの、全部葵の所為なんだからね」

「えっ、私何かやっちゃいました?友人兼家族代表のスピーチしかやってないでしょうに」

「そうそれッ、そ、れ、が、原因なんだからねッ」


 ぷくぅと。餅が膨らむ要領で、華音は両頬を貼った。呼吸の関係ですぐにしぼんでいったけれど、表情はむくれて戻らない。立ち去る気配もない。

 はてさて、どうしようかな。

 とんとん。”私”は杖の指先で茶髪のサイドヘアに触れる。


 正直な話。絡んできた理由の予想は、最初からついていた。

 簡単だ、スピーチ中に華音がたしなめられていたからだ。これは後でひと悶着あるな。なんて予測はしていたけれど。アドリブでいじっておいてなんだけど。

 まさかこんなすぐに遭遇するとは。全く準備不足である。


 どう言ったものか。

 頬を膨らませるってことは、華音は本気で怒っていない。あの子が怒るときはもっと険しい顔をするし、今のように思考の猶予をもらうなんて不可能だ。多分どの言葉でもマジ切れしないけど、沈黙は鉄屑にすらなり得ない。さぁ、なんて切り出そう。



「こら、華音」


 低く太い声がした。


 すっと視界が晴れて、光に溢れた会場が目に入る。音も無く右手がテーブルクロスへ落ちた。わ、と。華音は勢いよく振り向いた。


実弥さねやくん、どうしたの」

 ”私”も緩慢に発生源へ身体を向ける。

 華音の背後、数歩離れた先にもう一人の本日の主役がいた。


 方角を察するに元々いたのは友人席らしい。顔ぶれがわからないので実弥さねやさん側の人間だろう。微笑ましいものを見る目で私たち二人を眺めている。ぬるい温度がむず痒くて、“私”はシャンパンを一口含んだ。

 実弥さねやさんは、ゆっくり歩いてきた。やれやれ、と言いたげな風貌で笑む。


「どうしたも何も、言葉を荒げて華音こそどうかしたの。葵さんは何一つ悪いことをしていないはずだろう」

「だってその、葵がスピーチであんなこと言ったから」


 出迎えるように華音は実弥さねやさんに近づく。左腕の袖を摘まんで、“私”へ振り向いた。その顔は未だ、中心へ僅かに皺がある。丁度実弥さねやさんには死角になるのが器用で小憎たらしい。

 華音。実弥さねやさんが名前を呼ぶと、華音は顔を逸らす。

 

 とん。実弥さねやさんは右手で華音のおでこを小突いた。

 ぷわッ、なんて色気の無い声を出して利き手でおでこを抑える華音を見ながら、実弥さねやさんは息を吐く。


「事前に見せてもらった原稿通りの内容だったろう。許可を出したのは華音も一緒だったはずだけど」

「でも、その、実際に言われたら恥ずかしくて」

「暴露タイプのエピソード入れてほしい、って最初に言ったのは華音。そう記憶しているんだけどなぁ、俺」


 実弥さねやさんは着実に華音を言いくるめていった。いちゃもん付けていた自覚は奏音自身にもあったらしい。あはれなくらい顔が真っ赤になっていく。これはそろそろ俯いて地蔵になるな。そう思った矢先だった。

 でも、と実弥さねやさんはすかす。


「俺は聞けて良かったよ、昔の華音のこと。今と変わらない可愛い人だって、知れて良かった」

「あ、そ、そうかな。なら良い、けれど」


 しどろもどろに忙しなく。方々に視線を動かす華音だったけど、“私”と目が合った瞬間。ばちりと動きを止めて、ちらりと傍らの実弥さねやさんを見る。そして深く息を吸って“私”を見た。


「ごめんね葵、実弥さねやくんの言う通りだ。あたしすごい変なこと言っちゃった」

「良いよ、気にしないで。いつものことだし」

「はぁ。もう、折角人が殊勝になったのに。葵ってばすぐそういうこと言うんだから」


 両手を腰に当てて、華音は僅かに非難を眼差しへ乗せた。周りの微笑みの渦が、同席のテーブルにも迫っている気配を感じて、“私”は肩をすくめた。

 そして。華音が何かのたまい始める前に。ねぇ、と“私”は口を開いた。


「テーブルラウンドは20分までなんでしょ。良いの、ずっとこの卓にいて」


 言い終わるが否や、“私”は右奥へ手を向ける。先にあるのは最終地点の親族席。華音や実弥さねやさんの親御さんがいる場所だ。なおこちらからも絶えず、仔猫同士の戯れを見るかの如く視線を感じる。

 実弥さねやさんも神妙に頷いた。


「軽くで良いとは言われているけれど、顔は出すべきだよね。ありがとう葵さん」

「全然。これくらい良いですよ、是非行ってあげてください。ほら、華音も」

「うん、また後で話そうね葵」


 実弥さねやくん行こう。そう言って華音は白スーツの腕を取ると、親族席へ足を向けた。ちかり。天井のシャンデリアの光で、ドレスが反射する。“私”は黙って後ろ姿を見送った。


 新郎新婦が親族席に着いた頃。まんまるの風船が割れるように、友人席へ温かな笑いが湧いた。


「おあついなぁ」

「なぁ。ホントあの愛情と幸運、わけてほしいレベルだわ」

「良かったね山本。妹、ちゃんと幸せにしてくれそうじゃん」

「本当だよ。これで私も一安心ってところかな」


 そうだよなと同意の声をちらほら耳にしながら、”私”は二人の行く先へ視線を向ける。親族の席で、双方の親に囲まれて華音は照れていた。式の前に緊張すると聞いていたのだが。もう糸は解けたようで、見覚えのある笑顔が咲いていた。


 先程のシャンパングラス取って、一口。しゅわりと舌先が弾かれる様を他人事に思いつつ、そのまま会場全体を眺めた。


 柔らかな空気が漂っていた。幸せを疑わない、祝福の空間。二人のこれからを優しく見守る穏やかな気心が各々から滲んでいる。


 だからこそ実感する。“私”だけが張りぼてだ。


 合わせることはできるしできたがそれ以上は難しく。先程から”私”の心は錆びつくばかりで、居づらくて仕方ない。当たり前だ。


 まだ“私”は、華音が好きだから。



 

 “私”と華音は家族のようだった。


 違いない。学校でもお互いの血縁の家族にも、そう思われるような関係だった。この事実は現存する。しかし、以上の事象には僅かばかり齟齬があった。無論”私”と華音が家族、ということではない。


 ”私”と華音は家族ではなく、恋人同士だったのだ。



 告白してきたのは華音からだ。

 中学2年の5月。いつも通り二人で”私”の部屋にいた。その頃は第二次性徴期やらなんやら真っ只中。異性は勿論、同性でもスキンシップが控えられる年齢だった。そう記憶している。


 それでも親公認のお泊まり会を頻繁にし合う仲だった”私”たち二人は、関係なく抱きついたり肩を組んだりしていたのだが。その日は違った。


 いつも通りベッドの傍で”私”はゲーム、華音は漫画を読んでいた。その最中。”私”は華音の肩へ寄りかかった。寄りかかったと言えどほんの少し。電車の座席でうたた寝しかけたときのものとよく似ている。

 だというのに。


「わぁっ」

「えっ」


 突如。ばしんと、“私”の身体に衝撃が走った。かと思えば、顔前には天井のLED光がいっぱいに注がれていた。眩しいやら何が起こったのかやら。ぐるんぐるんの頭が只管に重くて、すぐに起き上がるのは難しいと察した。


 などと分析して、”私”は思い当たる。弾かれて伏してからというもの、華音のいる方向も静かなのだ。華音。華音は一体どうなったのか。やはりまだ身体は動かなかったので、視線だけで”私”は探した。

 華音はすぐに見つかった、同じ場所にいたから。同時に”私”は理解してしまった。


「あ、あわ、あわわ」


 熟れた林檎のような赤い顔で、彼女は”私”を凝視していた。

 頬の朱色が熱中症とは異なる赤色なのは一目瞭然。何故なら華音は赤くなりながら血の気を引かすという、普段の華音とは別種の器用さを見せていたからだ。


 白さは“私”を伏してしまった罪悪。

 であればこの赤さは羞恥によるもの。しかしながら、肩に体重をかけて寄りかかることなぞ日常茶飯事だった。


 なのに今更、恥なんて感情を抱くということは。


 つまり。



 華音が現実へ戻ってきたのは、“私”が起き上がった頃だった。勢いよく立ち上がると華音は自らの荷物を鷲掴んだ。


「あああ、葵、ごめんッ本当にごめん帰るッ」

 大きな音を立てて、足をもつれさせながら華音は部屋の出口へ急いだ。が、間一髪。ドアを開けようとしたところで、“私”は華音の腕を掴めた。


 大体の人は、近しい者からの告白めいた出来事が起きると距離を置くらしい。だが“私”は華音と仲の良いままでいたかった。そして、先程の対応が本当に、恋愛のそれかどうか確認したかった。

 だから聞いた。


「華音、今のって。私の自惚れじゃなければ、私に気があるから、やったの」


 “私”は聞いた。今思い出してもかなりの豪速球で、華音へ言葉を押しつけた。でも、本当に当時の“私”は必死だったのだ。


 華音は目を白黒させていた。しかし“私”の腕の拘束が固いことに観念したらしい。耳まで赤く染めて、ゆっくり頷いた。


 “私”は内心、頭を抱えた。“私”が華音の気持ちを確認したかったのは、気になって何も手につかなくなるからというのがあった。しかし理由はもう一つある。

 “私”の手から力の抜けていく感覚がする。流れに任せるように口を開いた。


「あの、私は、華音のこと、そういう目では見てなくて」

「知ってるよ、だから言わないで帰ろうと思ったのに」


 恨みがましい熱視線に、つい。

 “私”は小さくも謝罪の言葉を口にしていた。


 そう。なんだかんだで昔から“私”は華音に弱かった。説得力ある理由を持ち出すのが上手いのもあるが、華音に本気で臍を曲げられたらと思うと。恐ろしくて堪らなくて、“私”は動けなくなるのだ。


 勿論、“私”は華音が大好きだから一緒にいた。

 でもそれは親愛に寄るものであって慕情とは違う。だから“私”は、華音の気持ちに答えられない。知らずのうちに、“私”は手を離して俯いていた。


 だからさ。消えそうな声に“私”は顔を上げる。


 目の前には正面から対峙する華音がいた。


「これから、ゆっくりさ。そういう目で見てくれるようになってくれれば良いから、あ、葵さえ良ければお試し。してくれないかな」

 そう言って、既に赤い顔を華音は一層鮮やかにした。



 結局。“私”が押し切られた形で、恋仲になった。

 とは言え恋人同士になった理由が理由だったから、不純性行為なんて尚更やる気は起きなかった。


 なので2人きりで勉強したり出掛けたり遊んだり。そういうことをするくらいで、なんとも初心な関係だった。

 正直な話、恋仲になってからというもの。華音は手を繋ぐだけでいっぱいいっぱいになっていたようだから、両思いだったとして次の段階に進めたかどうか。やっぱり無理だったのではないかと思う。


 兎に角。“私”と華音の関係は、キスすらしない初心なやり取りだった。関係性が変わる前と同じことしか、“私”たちはできなかったのである。


 つまり。“私”たちの関係は全くと言って良いほど周囲に伝わらなかった。後から察したことだが、実の家族にすら知られていなかった。お互い暗黙の了解で伝えることを渋ったのも、認知されなかった要因なのかもしれない。


 なので特に関係性を取り立たされたり糾弾されたりすることもなく。

 穏やかに“私”たちの交際は続いた。


 本当に心安らかで楽しい時間だった。

 それだけは間違いなく証言できる。



 壊したのは“私”だ。

 



「え、別れるって。葵、なんで」

 奇しくも現場は“私”の部屋だった。


 親も実弟もいない2人きりの家の中。次は一緒に何処へ行こうか、なんて。デートの予定をたてていたときだ。“私”は脈絡なく、別れを切り出した。


 予想通りといえば予想通りに。華音は狼狽えた様子を隠すことすらしなかった。青い顔で声を絞り出した。


「あたし、もしかして何かやなことしたかも、ねぇ葵。直すところ教えてくれないかな。あたし努力する、頑張って直すから、ねぇ」

「ごめん、華音。華音は何一つ悪くない、私の所為だ」


 華音の話を遮るように、”私”は言った。瞬間、口内で無限に苦い味が広がる。

 今にも大粒の雫を零しそうな華音を見ていられなくて、俯いた。


 嗚呼。だめだ、そんなものに負けてなぞいられない。特にこの瞬間は、その程度で話題を途絶えてはならない。周りの外野が揶揄やゆするように、”私”だってこの子に家族めいた情を持っているのだ。大切な存在なのだ。

 ”私”は大きく息を吸う。ゆっくりと華音を見つめた。


「華音へ恋愛感情の持たない私では、この関係を支えきれないんだ」


 だからこそ、言わねばいけなかった。



 保育園のときから一緒だったのだ、見ればわかる。華音が親愛だけではなく、恋愛を求めていることくらい。だが、煩わしいことに“私”が華音へ施せる愛に恋愛は含まれていなかった。それは破局寸前の状況下であっても。


 “私”は気づいてしまった。

 もし。華音が“私”ではなく他の人、おおよそは男子と付き合っていたとして。


 華音はきっちり相手のことが恋愛感情で好きなのに、相手はそうではなかったとしたら。華音の愛情に腑抜けて依存するようなやからだったら。


 私は絶対に、斯様な者を許しはしないだろう。

 

 男だろうが女だろうが、関係ない。ぶん殴って胸倉掴んで恫喝する。意識を変えなければ別れることすら強要するやもしれない。校則なんて知ったことか。

 覚えてないくらい昔から一緒なのだ。同い年でも無鉄砲でも一等かわいい妹分なのだ。


 華音の純愛を搾取する真似、見過ごすことなぞできるものか。

 それが自分なら尚更だ。



「嫌だよ、あたし、別れたくないよ。終わっちゃう」

 華音は俯いて、両手で服の裾を握った。頬からぽたり、ぽたり。哀が溢れていく。握りしめた拳は段々赤く鮮やかになりつつあった。


「終わらないよ」

 私は華音の両肩に手を置いた。ぽんと軽い音がして、華音が上向く。潤んだ目の奥の”私”は穏やかで、でも同じように濡れているようだった。

 ねぇ。幼子をあやすより優しく、”私”は華音へ言葉を紡いだ。


「だって別れても、恋人ではなくても私が華音と幼馴染みなのは変わらないよ。違う?」

「それは、そうだけど」

「なら、大丈夫。私たちは終わらない、前に戻るだけ。幼馴染みで仲良しな私たちになるだけだよ」


 終わらない、戻る、と。しばらく華音は繰り返していた。

 声が止んだ。そう感じてすぐに、私は服が引っ張られるのを知覚する。


「それでも、あたしは、このままでいたかったよ」

 はらはらと。目を赤くして、“私”の服の皺を濃くして、華音は声を押し殺していた。思わず頭へ手が伸びると、びくりと身体を震わせてわんわん泣き出した。


 ごめん。零れ落ちた言葉は、轟轟と止まない華音の声に溶けていった。



 こうして、“私”と華音は家族へ戻ったのだ。


 家では勿論、学校でも特に変わったことはなかった。強いて言えば互いのスキンシップが減ったくらいだ。


 元から“私”と華音に血縁は無い。


 反抗期だの家族離れだの、別れてすぐは散々な言われようを受けたが、すぐに日常が還ってきた。これは“私”と華音が仲違いには至らなかったことも、功を奏したのやもしれない。


 “私”と華音が恋仲だった事実は誰に知られることもなく、始まって終わった。

 丁度17歳、高校2年生の頃。無花果の葉が落ちる季節だった。


 それからすぐに受験シーズンが到来した。文系理系と進路の違う“私”たちは少しずつ疎遠になり、お互い進路が確定した3月。“私”は進学のため家を出た。

 以降、華音とは顔を合わせる機会がすっぱりと無くなった。



 大学から研究所に勤務する現在まで。幸運にも”私”は何人かと交際できた。

 にも関わらず。何故か毎回、一月も経たずに別れてしまうのだ。中には”私”から交際を申し出たものもあったというのに。

 どうしても熱が持続しない。独りでに興味が散っていくのだ。


 あなたが誰を愛しているのかわからない。


 一番新しい、何人目かの恋人にそう三行半みくだりはんをつけられてから数日。”私”は振られた理由をずっと考えていた。考えながらも仕事はきちんとできていたようなので、やはり今回の相手へも熱を上げられなかったのだと思う。



 愛情が足りないのか。確かにそうなのだろう。

 一人暮らしの自室で、コーヒーを飲みながらそう思った。何故なら“私”が途中で冷めてしまうからだ。交際をスタートしてからすぐは夢見心地で、楽しい自覚があるというのに。


 冷めるからとは言え、愛情は注いでいる。メールは欠かさず応じているし、デートも予定が合い次第行っている。ならば、“私”に足りないのは一体。


 ことり。“私”は温かさの残るマグカップを置いた。

 思い出した。直近の恋人は、愛情が無いことを訴えていたわけではない。矢印が自分に向いていないと言ったのだと。



 一寸先の見えない霧の中にいるみたいだった。

 相手を愛しているんだから、相手に向かうのではないのだろうか。少なくとも直近に分かれた恋人には、まだ“私”は冷めきっていなかった。


 であれば、その前の恋人か。いや、思い出した。あの人は“私”が冷めて別れたのだった。なら、その前か。いやもっと前かもしれない。


 あぁでもないこうでもないを繰り返して、“私”は恋人遍歴を漁った。我ながら交際期間が短く人数も多いのに、覚えていることが意外だった。それでも該当者はいなかった。


 あさって漁って漁って。随分奥深くまで漁って。残ったのは、華音との日々だった。勿論、全くバレなかった恋仲の頃の奏音だった。


 信じられなかった。

 だって、“私”は華音にそんな想いを抱いてなかった。そもそも別れた理由が恋愛感情を持てなかったからではなかったか。きっと他の人と間違えたのだ、探し直さなくては。

 そう奮い立ち、“私”は記憶へ目を向ける。


 刹那、マグカップが床に落ちた。


 ステンレス製、故に割れなかった。ただ中身はまだ少し残っていたらしい。黒い染みがカーペットに広がりゆく。ブラックコーヒーでも放置したら残るだろう。


 しかし、“私”は気にしなかった。気に留まらなかった、と形容するのが正しいかもしれない。


 無鉄砲で世話焼きな人たらし。これは今まで付き合ってきた人たちに共通する性格だった。

 それは、華音の性格と酷似していた。


 認めざるを得なかった。

 ”私”は。あの子が、華音が好きなのだ。知らないうちに今までの恋人たちへ華音を見て、投影して交際を続けていたのだ。


 男だろうが女だろうが、家族のようだろうが関係ない。遙か前から、あの日保育園で手を引いて連れ出してくれたときから、ずっと。好きだったのだ。

 

 遅すぎる初恋の開花だった。





 気づいてすぐに、実家へ華音の現在を聞いた。そうしたら、今度実家へ帰省するという話が母から飛び出た。

 渡りに船だと思った。

 すぐさま帰省の準備を整えて、”私”は出発した。華音の帰省の1日前に帰郷できたのはそのお陰である。


 これからまた、アプローチをしてみよう。もう華音は”私”をそんな目で見ていないだろうけれど、根気強く続けてみせる。友人として再構築するところから始めれば、あるいは。



 帰省の道中で買った、華音の好きなブルーデイジーのポプリを見ながら。”私”は機会があると信じて疑わなかった。

 翌日、見知らぬ男と一緒に、仲睦まじげに帰省する華音の姿を見つけるまでは。


 ポプリは帰りに、駅のゴミ箱の肥やしにした。

 




 気づけば、新郎のスピーチが始まっていた。職場恋愛とは聞いていたので、そのエピソードを交えて実弥さねやさんは語っている。


「実のところ”わたくし”は恋すら未熟な身の上でした。ですから華音さんには、特に感情面で色々と振り回してしまった自責があります」

 だからこそ。そう句切って、実弥さねやさんは華音を見た。じっとり熱を込めて華音を見た。


「これからは“わたくし”が振り回してしまった分も、それ以上も華音さんを支えていきたい。そう強く願い、同時にこれからの行動宣言とさせていただきたく思います」


 臓腑が燃える感覚というのはこのことか。


 熱湯が腹から迫り上がって、体内から出ていこうとするのを必死に留める。周りの歓声を聞くに、“私”はどうにか取り繕えているらしい。注意を向ける者はいなかった。


 なんとも滑稽な舞台だった。色めきだつ周りに、銃口を突きつけてやりたくなる。ぱちぱち、ぱちぱち。賛美の拍手の音が薪を焚べて弾けた火種に聞こえる。


 止めろ、落ち着け。“私”は何を考えているんだ。今日は華音の素晴らしい日だろう。自分でもさっき言ったじゃないか。良いことなんだから良いと思えば良い。


 なぁ。


 でもそれなら。


 どうして“私”には褪せて見える?

 どうして“私”はこんな場所に座っている?


 だってそうだろう。華音には“私”が先に出逢っていたじゃないか。恋人にもなっていた時期だってある。

 なら、あの席は。本来なら“私”のものだったのではないだろうか。


 なんで、どうして、あの場所に全く別の男がいるのだ。何故“私”が座れないのだ。華音の幼馴染みは、華音の隣はずっと“私”のものだったはずだ。


 返せ、返せ、返せ返せ返せ返せ返せ返せ。


 そこは私の──



「葵」



 ──“私”を呼ぶ声に、覚めた。


 見ればスタンドマイクの上には実弥さねやさんではなく、華音がいた。華音が“私”を見ていた。

 否、華音だけではない。一斉に“私”へ、皆の視線が注がれている。


 もしかして、暴かれたのか。

 どっと汗が出て、周りを見渡した。


 しかし。周りの視線は温かいままだった。テーブルラウンドのときと変わらない、はたまたもしかすると更に威力を増しているかもしれない。少なくとも“私”の内面が曝け出されていた、という最悪だけは無かったようだ。何よりである。


 だとしたら、一層訳がわからない。事前にこんな展開あるとは聞いていないし、第一、今は華音の話では。

 周囲に目を配っていれば、葵。また華音が“私”の名を呼ぶから、“私”は華音へ照準を合わせた。


 華音は微笑んでいた。アルカイックスマイルよりは温度があって、怒気を孕んだ喜色より冷静な表情をしていた。

 華音は“私”と目が合うと、口を開いた。


「私、あなたに伝えたいことがあるんです。聞いていただけますか」


 そして身が竦むようなことを宣い出した。


 華音のことだ。恋仲のときのことを言うつもりではないのはわかる。式というはなむけの場に、わざわざ皆が集まってくれたという恩をぞんざいに扱うのが嫌いな子。それが華音だからだ。


 きっと言うのは“私”の中身。華音から見た“私”の性格の話だろう。

 今、一番して欲しくない話題である。


 やめてくれ。


 そう言ったら華音は止めてくれるだろうか。いや、絶対に続けるだろう。

 それでも叫びたくて、でも言い出せるわけなぞなくて。私は着席して華音の言葉を待つ他なかった。


 ほんのり高い声がスピーカーから流れていく。


「葵はとても身近な私の道しるべで、私はいつも頼ってばかりでした」

 違う。“私”はそんなに神聖な人間ではない。人間関係は潔癖で人を選びすぎるし、華音ほど目立つ人間でもない。


「ねぇ、葵。あなたが見てくれたお陰で、私は胸を張って生きることができたんですよ」


 違う。“私”はそこまで慕われる人間ではない。

 だって、今も華音に対する浅ましい想いを持っている。少しでも華音に嫌われるのが厭で、嫌われたらと思うと、死んでしまいたくなる程脆いのに。


 なんで、そんなに、まっすぐに。


 輝いた瞳で“私”を見るのだ。


 至極真っ当に、“私”の心中とは裏腹に。

 華音のスピーチは朗々と続く。


 生殺しだった。命を担保されながら、“私”は善意に滅多刺しされていた。嗚呼。今すぐ気が狂ってしまえばどんなに楽だろうに。華音とのことをぶち撒けて、この

 “私”の気は恐ろしいほど


 葵。もう一度、華音は“私”を呼んだ。


「あなたは私の最高の友人であり、大切な家族です」


 ぽたり。

 刹那。華音の涙腺が決壊した。周りで息を呑む声がちらほら上がる。華音自身も虚を突かれたようで、目元を擦ろうとしたが、手厚い顔面装飾を思い出したらしい。引っ込めて、スピーチを続けた。


 周りの様子なんてどうでも良かった。折角の華音の番なのに声なんて聞こえなかった。

 “私”は見入っていた。あの華音の涙の瞬間に。


『それでも、あたしは、このままでいたかったよ』



 高校2年生の華音が、重なって見えた。




 薄々勘づいていた。見ないふりをしていた。

 “私”の慕情は枯れたままで、生涯を閉じることを。


 尤も忘れてしまえば限りでは無い。今までだって、恋人はできていた。ならば新しい恋を咲かせて、ゆくゆくは社会の歯車になることも可能だ。容易に予測できる。


 でも、それはもう、“私”ではない。

 華音のいない”私”なんて、同じ姿をした別人だ。


 ともすればもう答えは簡単。“私”はくすんだまま、褪せた思い出を抱えて生きる他ない。

 その事実を今“私”は華音に、否。過去の愚かな、高校2年生の“私”へ突きつけられたのだ。



 式はつつがなく終わった。来客を見送ろうと、主役がホールの出口に立っている。

 歩いてくる“私”を見つけて、新婦は赤くなった目を大きくさせた。


「もう帰るの、まだ話し足りないのに」

「私は全部伝えきったからね。あのスピーチで」


 ウインクしてみせれば、渋い顔で華音は窮した。まだ話したいこと沢山あるのに、とごねている。大人になって落ち着きを身につけているとはいえ、根幹は変わっていないらしい。

 でも、そこが華音の良さなんだろう。


「華音」

 “私”は自ずと呼んでいた。華音は拗ねアピールをぴたりと止める。緩慢に“私”へ向いた。

「なぁに、葵」


「貴女は今、幸せですか」


 安否を尋ねる母親のように。

 未来を案ずる父親のように。


 “私”はしっとりとした声で問うていた。


 華音はきょとんと顔をほうけさした。目をまんまるにして、”私”を見る。小さな口が軽く閉じられて更にこぢんまりしていた。


 でも、それは一瞬だった。

 ぐんぐんと口角を上げて、華音はピースサインした。


「勿論ッ」






 式場を後にしようと”私”は外を出る。

 夏が忍び寄る今。永くなった日のお陰で、午後三時過ぎでも正午のように明るい。敷地内の遊歩道には、青く茂る並木たちが陽光を地面へ持て余していた。真下を歩く度に良質な服へ斑模様が浮かび上がる。


 ふと、”私”は足を止めた。来た道を振り返った。

 白亜の砦はお目でたい花々に飾られて未だそこにあった。


 もう二度と“私”の隣で枯れることのない愛をくれる人が、華音になることは無いだろう。おばあさんになって亡くなった後も、実弥さねやさんとずっと一緒にいる。華音はそういう子だ。


 それでも雲の彼方で、同じ星の下で時の中で。華音は確かに生きている。煌々と瞬くあの笑顔は存在する。


 なんて思えば少しだけ。世界が優しく花開いて、鮮やかさが微笑みかけてくれた。幻覚がした。

 だったら。この諦めの悪い醜く荒んだ想いを抱えて、往生しても良いかも知れない。



 そんなことが思えた。

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さようなら、マイディア、リトルシスター シヲンヌ @siwonnu

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