深夜放毒

 お椀に二人分の卵を割る。塩を一つまみ加えて、白身と黄身が完全に混ぜ合わさるまで、菜箸でしっかり溶きほぐす。深夜だからなるべく音を立てないように、静かに、静かに。いつの間にか兄が私の隣に立っていた。


「混ぜようか?」

「お兄ちゃん混ぜてくれるの? じゃあ、お願い」


 お椀と菜箸を渡すと、兄は私に負けず劣らずぎこちない動作で卵を混ぜ始めた。私よりも一足先に実家に帰っていた兄は、今では顔色も随分明るくなっていた。虐められっ子だった私には友達なんていなかったけど、いつも人に囲まれていた兄は、調子のいい日には地元の友人と会ったりなんかもしているみたいだった。


 不器用に卵を混ぜる兄の横で私は包丁を握った。完熟トマトは一口大のざく切りに。しなしな葱はみじん切り。本当は切り方なんて分からないけど、葱を入れるのを渋っていた兄にも食べやすいように頑張って小さく刻んだ。インスタントラーメンの袋から麺と粉末スープを取り出し、お湯が沸いているのを確かめたら準備は完了。フライパンに気持ち多めの油を引いて十分熱する。まずは葱を炒め、しんなり色が変わったら次はトマトだ。


 「ここに置いとくね」と言って卵のお椀を置いた兄が、手元をじっと覗き込んできた。やっぱりちょっと緊張する。そっと深呼吸して、じっくり炒めて形の崩れたトマトに湯を注いだ。ぽこぽこと沸騰する赤いスープに麺を入れ、待つこと二分。食感をアップさせるために、茹で時間はあえて少し短めに。粉末スープを入れ、柔らかくなった麺をほぐす。途端にたちこめるとんこつの香りが食欲を刺激する。兄がすーっと大きく息を吸った。


「いい匂いしてきた」

「でしょ? さ、仕上げ仕上げ」


 私は卵のお椀を手に取った。最後に溶き卵をするするっと回し入れたら……。

 

「へえ、こうやって作るんだ」


 ふんわり広がって固まっていく卵を、兄は感心したように見ている。


「できた。お兄ちゃん、丼取ってくれる?」

「うん」


 兄が丼を二つ出してくれた。小さいころ丼の準備は私の役目だったことを思い出しながら、ラーメンを取り分ける。お店のとは似ても似つかないけど、まあいいの。器に盛り付けたらそれなりにいい感じ。トマトの溶けた赤いスープに卵の黄色と葱の黄緑が鮮やかで、いかにも元気になれそうな。うん、上出来。


「見て、美味しそう。はいこれ、お兄ちゃんの」

「ありがとう」


 丼を受け取った兄はすぐには食べようとはせず、目の前のラーメンを見つめていた。そして何を思ったか、おもむろにスマホをかざした。


「えっ、写真? 撮るの?」

「せっかく作ってもらったから、記念に」

「やだあ、ただのラーメンだよ。記念だなんて大袈裟なんだから」


 兄は笑って写真を数枚撮った。撮り終わった後はすかさず写りをチェックしている。そんな兄の様子がなんだかんだ嬉しい。「ねえ、伸びちゃうよ」と促したのはただの照れ隠しだ。兄はまだスマホを弄っていたけれど、すぐに「うん、食べよう」と言ってそれをテーブルの隅に置いた。


「いただきます」

「いただきまあす」


 兄はトマトと葱を綺麗に避けて、器用に麺だけをすくいあげた。私が息を凝らして見守る中、ふうっと息を吹きかける。まだ湯気の立つ麺をするるっと一息にすすった兄は「ん?」と顔を上げ私を見た。


「美味しい、思ってたのと全然違う」


 慌ただしく数回咀嚼したかと思うと、兄の口の中にはもう何も残っていなかった。


「今まで食べたことない味だけど、すっごく美味しいよ、これ。心のこもった優しい味がする」


 兄はもう一度、麺をすすった。今度はトマトも葱も避けたりしないで、まとめて勢いよく。ぴっと汁がはねる。よかった、気に入ってくれた。


 私も箸を握り直し、丼に手を添える。まずはスープから。あ、美味しい。濃いとんこつスープなのに、トマトが溶け込んでさっぱりしている。卵もふわっふわだ。でも何と言っても葱だろう。もちろん新鮮なものには味も食感もかなわないけど、萎びていたせいか噛み応えがあって、それが逆に絶妙なアクセントになっている気がするのだ。


 夕飯は何食べたい? と聞かれたら、いつもカレーかラーメンをリクエストするような兄だった。一人暮らしのときも飽きもせずにコンビニ弁当ばかり食べていたみたいだし、食べるものにそれほど関心がないように見えて、好き嫌いが多い。今だって葱だけを箸でちまちま摘まんでは「うーん、すごく美味しいんだけどさ、葱のこの歯応えが、ちょっとね……」なんて顔をしかめながら、その小さな塊をろくに噛まずに飲み込もうとしている。嫌いなものは最初に食べてしまおうとするのは、小さいころからの兄の癖だ。変わらないなあ。大人になってもやっぱり野菜が苦手だなんて、そんなところは子どもみたいでちょっと可愛い。


 なんだか子ども時代に戻ったような気がして懐かしくなった。そしてふと思った。あのころの私はもちろん夜中に食べるラーメンにもわくわくしていたのだけど、それよりも、ただ兄と一緒に過ごしたかっただけなのかもしれない。兄と二人で過ごす時間はひたすら温かくて、そして穏やかで。家にも学校にも居場所を見つけられなかった私にとって、大切な癒しの時間だったのだ。唯一のほっとできる思い出に、胸がつきんと痛くなる。


「あのね、このトマトのラーメン、台湾料理屋さんでよく食べてるのをマネしてみたの」


 兄は「へえ」と興味深げに相槌を打ちながら、私の話を聞いていた。まだスカートの制服にも慣れず、一人でメイクもできない、不安と緊張でいっぱいだったころ、仕事仲間が連れていってくれた。カタコトの日本語でいっぱい笑わせてくれる台湾人のオーナーに、フレンドリーな留学生スタッフのいる隠れ家的な店。温かいトマトのスープが心に沁みた。それから私は常連になった。お店に行けば必ずそれを注文した。『西xihongshijidanmian』、発音が難しすぎて、何回食べても読み方は全然覚えられないのだけど。


「そういえば、さ。仕事どう? 今も、その……メイドカフェで働いてるの?」


 思い出したように、兄が聞いてきた。


「うん、そうだよ。すっごく楽しい。メイドの子たちはみんないい人ばっかりだし、お客さんとも仲良くやってるよ」


 実を言えば、メイドだけでは生活が少し厳しくて、今は倉庫でのアルバイトもしている。いろいろあるけど、実家でうじうじ悩んでいたころよりはうんとうんと幸せだ。


「そうだ、お兄ちゃん。向こうに戻ったらさ、お店にも遊びに来てよ。イベントもやってるんだ」

「えっでも。僕そういうところって行ったことがないから……」

「あー最初はどきどきするよね。お兄ちゃんみたいなサラリーマンのお客さんもたくさん来てるよ。まあ、無理にとは言わないけど……」


 「たまには羽目を外してもいいんじゃない?」と私が言うと、兄は「じゃあ、いつか」と控えめに笑った。兄の『いつか』は社交辞令なんかじゃないこと、私はよく知っている。だからきっと『いつか』本当に遊びに来てくれるんだと思う。そしたらそのときは、本物の『西紅柿雞蛋麵トマトと卵のラーメン』を一緒に食べに行くんだ。


「ねえ、お兄ちゃんは? 仕事、辞めるの?」


 兄は静かに首を横に振った。


「ううん、辞めないよ。実際仕事は大変だけどね、すごくいい会社なんだ。社長にも恩があるし、今の会社が本当に好きだから」

「そうなんだ。昼間も勉強頑張ってたもんね」

「うん」


 そっか、仕事は続けるんだ。こんなときでも資格の勉強をしているなんて、真面目な兄らしい。


「色んな人にたくさん迷惑かけて、本当に申し訳ないと思ってる。復帰したら少しでも挽回したくて」

「そう。無理は、しないでね」

「ん」


 会話が途切れ、ずずっ、ずずっと二人分のラーメンをすする音が響く。


「私ね」

「ん?」

「お兄ちゃんとまた一緒にラーメン食べられて、嬉しい」


 できるだけ明るく言ったつもりだった。兄は食べる手を止め、私を見つめた。


「私、帰ってきてよかったのかなあ。お父さんもお母さんもあんな感じだし。私もずっと迷惑ばっかかけてきたけど、これからもかけ続けるよ? きっと」


 私は何のためにここへ帰ってきたのだろう、帰省してからずっと考えていた。父は私のほうを見ようともしないし、母も何も言わない。私も私だ。「久し振りに帰ってきたらどうだ」なんて言われて、のこのこ戻って来るなんて。歓迎されないのはわかってたくせに。両親が私の扱いに戸惑っているように、私も彼らとどう向き合えばいいのか分からずにいる。たくさんの人に迷惑をかけ続け、それでも図太く生きている私は……。


「間違いだらけだよね、私」


 不意に涙が出そうになって、私は「ふふ」と笑ってごまかした。兄は何も言わず、でも何か言いたげに私の顔をじっと見ていた。そのとき、兄のスマホの通知がピロンと鳴った。兄はそれをちらりと確認すると、すぐに私に向き直った。そして。


「見る? さっきの写真、載せたんだ」


 兄は穏やかに笑って、SNSの画面を私に見せてきた。そこには私の作ったラーメンの写真。あの短時間で加工でもしたのだろうか。別物のようにえる料理が写っていた。ぽこん、とまた一つ「いいね」が増える。


「え、嘘。やめてよ、恥ずかし……」


「恥ずかしいじゃん」そう言おうとした私の口から続きは出てこなかった。写真に添えた兄の投稿コメントが見えたから。


が作ってくれた』


 たった一文。

 たった一文だけ、そう書いてあった。


「……き、綺麗に撮れてる……ね」


 動揺して、声が震えた。視界が潤む。慌てて下を向き、ずぞぞーっと音を立てて勢いよく麺をすすった。


「あのさ」


 兄の声は優しかった。


「作ってくれてありがとう、


 その瞬間、時が止まった気がした。まだ口に入り切れていない麺を、私はもう吸い込むことができずに嚙み切った。空耳かと疑った。初めて兄が呼んでくれたのは、私が自分で自分に付けた名前だった。大空を自由に飛び回れる自分だけの羽が欲しかった。それで『美羽みう』と名付けたのだ。


 なんで。なんで。もう無理だ。どでかい何かが一気に押し寄せてきて、あっという間に決壊した。堰を切ったように涙が溢れ出る。嗚咽が漏れ、口の中の麺を吹き出しそうになった。兄は困ったように笑いながら、私のべちょべちょになった頬をティッシュで拭いてくれた。「間違いなんてないよ」兄の声が聞こえた。小さいけれど、はっきりとした声だった。


「何も間違ってないんだ、僕たちは」


 私に、そして自分に言い聞かせるように、兄が言う。もうすぐ兄も療養を終え、通院しながら仕事にも復帰する。そうだよね。間違いなんてないのかもしれない。でも私は。男の子として生まれてきてしまったこと、例え間違っていなかったとしてもすごく悔しい、悔しくてたまらないんだ。


 朝になったら私はここを発つ。長いようで、あっという間の二泊三日だった。私たち芹田家の表札には家族全員の名前が書いてある。両親の名前に並んで兄と私の名前も。大輔だいすけと……孝志たかし。目を背けて玄関をくぐった。家の中にも残されたたくさんの、かつて孝志だったころの痕跡が、私を静かに責め立てる。全部、見ないふりをして、私は必死に心を保っていた。久し振りの実家は相変わらず息が詰まりそうだったけど、でも、これまでみたいに頭ごなしに否定はされなかった。今はそれで十分なのかもしれない。


 兄が顔を拭ったのが見えた。なぜだろう、私は泣きながら笑っていた。


「何でっ、お兄ちゃんまで泣いてんのよぉ……」

「僕は泣いてなんかない。ほら、早く食べないと冷めるよ」

「んっ」


 兄を元気づけたいなんて、おこがましかったんだ。励まされたのは私のほう。私は自分が癒されたいがために、兄とラーメンを食べているのだろうか。それとも、私たちはただ傷の舐め合いをしているだけなのだろうか。わからない。


 私たちはまた無言に戻って、残り少なくなったラーメンを食べ始めた。小さな卵のかけらも、くるりと細く丸まったトマトの皮も、煮ても軟らかくはならなかった葱の切れ端も、それからちぎれて短くなった麺の一本一本まで。


 最後に丼をかかえてトマト色に染まったスープをすする。はあっと息を吐いて顔を上げると、先に食べ終えていた兄と目が合った。お腹が満たされる。生きていることを実感する。兄の笑顔が照れ臭い。私はわずかに残っていたスープを一気に飲み干した。お腹の底が、ずっしりと温かかった。

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夜宵 〜トマトと卵のラーメン〜 ゆげ @-75mtk

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