夜宵 〜トマトと卵のラーメン〜

ゆげ

西紅柿雞蛋麵

 インスタントラーメンが二袋、トマトに卵に、それからえっと……。


 私は実家の冷蔵庫を漁っていた。深夜である。後ろから一緒に覗き込んでいるのは兄。ラーメンを食べようと誘ったのは私だ。


 帰省して二日目の夜。両親とはまだまともに会話すらできていない。


「お兄ちゃんさ、いっつも夜中にラーメン食べてたよね」

「自分で作れるの、ラーメンぐらいだったし。そんなことよく覚えてるね」

「だって私の分も作ってくれてたの、すっごく嬉しかったんだもん」

「そうだったんだ。でもそっか、夜更かししてラーメンなんて楽しいに決まってるよな」

「ん、ふふっ」


 あの頃、六つ年上の兄は高校生で、私はまだ小学生だった。私にとって、夜中に兄と二人で食べるラーメンは特別なものだった。クラスの男子に虐められ 、毎日泣きべそをかいて帰宅する私を、両親は厳しく叱咤した。でも兄だけは何も言わずに寄り添ってくれた。優しい兄だった。幼い私は兄のラーメンにどれだけ勇気づけられていたことか。だから、というわけではないけれど、今日は私が兄のためにラーメンを作ってあげたかったのだ。私から兄へのささやかなエールだ。



 両親、特に父は私のことを娘だと認めてくれたことなんて一度もなかった。兄と違って、私は両親の望むようにはなれなかった。兄が羨ましかったけれど、かと言って兄のようになりたかったわけでもない。私はただ「私」を見てほしかっただけなのに。兄が進学のために家を出てから、私は両親と何度も揉めた。言い争いを繰り返すたびに、私はみっともなく泣きわめき、父は容赦なく私に手を上げた。母が陰で自分を責めるように泣いていたのも、私は知っている。


 居場所なんてどこにもなかった。必死にアルバイトをしてお金を貯めた。両親とは分かり合うことなんてできない。きっとこれからもずっとそう。だからあの日、十八歳の誕生日を迎えた私は、「今までありがとう」と一言だけ書き残し、家を飛び出したのだ。


 家を出た私は兄を頼った。新しい電話番号を教えたのも兄だけ。仕事とアパートが決まるまでの数日間、兄は嫌な顔ひとつせずに私の面倒を見てくれた。やがて一人の暮らしが始まると、私は思い切り自由を満喫した。初めて彼氏もできた。夢みたいな日々。もちろん辛いこともあったけど、仕事も恋も充実していた。


 帰ってくるのは実に四年ぶりだった。あれほど怖かった父の背中は前よりも小さくなっていて、母の頭にはちらほらと白髪が混じっていた。駅まで迎えに来てくれた両親ははじめ、ワンピースをなびかせて改札から出てきた私に気が付かなかった。無理もない。実家ではおしゃれなんて絶対に許されなかったから。長い髪をふわっと巻いて、きらきらのトレンドメイクをしていた私は、まるで別人に見えたに違いない。母はやがて小さく「……元気そうね」と言い、父は一瞥をくれたきり私のほうを見ようともしなかった。私がメイドカフェで働いていると知ったときの驚いた母の顏、震える父の拳。でもいいんだ。きっとこうなるって、予想はできていたから。



 出かかったため息を飲み込んだそのとき、私は野菜室の隅っこにお目当てのものを見つけた。


「葱、あったあ」


 キャベツと玉ねぎの隙間から葱を勢いよく引っ張る。ぴょろんと出てきた葱を見て、私と兄は顔を見合わせた。


「わあ、しわっしわのかっさかさだよ、見て」


 使い切る前に忘れられてしまったのだろう。私はその半分萎れかけた葱を、兄の前に突き出してみせた。


「もう枯れてるじゃん。葱なんて無理して入れなくても、麺だけでいいのに」

「だめだよ、葱は絶対いるもん。ほら、こうすれば……」


 外側の干からびた皮を剥く。細くてしなしなだけど大丈夫、まだ使える。私は葱をシンクの中のトマトと一緒に置いた。


「その爪、料理しにくくないの?」


 ぎこちなくトマトを洗い始めた私に、兄が言う。うん、しにくいよ、とっても。でもね、私がトマトに手こずっているのはたぶんネイルのせいじゃない。久し振りの実家だから? それとも兄がじっと私を見ているから? 手が震える。私は緊張を振り払うように、この帰省のために気合を入れてパールピンクに塗った爪を、兄の目の前でひらひらと動かして見せた。


「へーきへーき、可愛いでしょ?」

「うん、似合ってる」

「う……ありがと」


 真面目な顔で「似合う」だなんて、本気なのか世辞なのかさっぱり分からない。調子が、狂う。


「料理とか、するんだね」

「まあね、ちょっとくらいは。とびきり美味しいの作るから、楽しみにしててよね」

「うーん、あんまり期待しないで楽しみにしとく」

「ひどい。せっかく美女が腕を振るうって言ってるのに」

「だってラーメンにトマトだろ? どんな味か想像もつかないじゃん」

「お兄ちゃん、相変わらず野菜苦手だものね」


 思わずくすっと笑えば、兄も「まあいいけどさ」と言って笑った。


 私だってたまには自炊くらいする。ご飯を炊いたり、目玉焼きを焼いたり、焼き肉のたれで肉と野菜を適当に炒めたり、その程度だけど。凝った料理は作れない。でも、野菜室に冷えたトマトを見つけたときにピンときた。あ、これだって。


 職場近くの台湾料理屋さんでいつも食べている台湾の家庭料理『西紅柿雞蛋麵トマトと卵のラーメン』。私の一番のお気に入りメニューだ。素朴でなんだかちょっぴり懐かしくて、何より元気が出るんだから。お店のは本格中華だけど、インスタントラーメンでもいけるはず。大好きなとんこつ味にトマトを合わせたら、うん、きっと美味しい。




 兄は小さいころから優等生だった。真面目で正直で、学生時代からの縁で小さな会社に就職してからは仕事一筋。「キツいけどやりがいがあるんだ」そう言って兄はいきいきと笑っていた。そんな兄が無断欠勤をしたのは、つい先月のことだった。その日は月曜日で、私はたまの休日で。スマホが鳴ったとき私はまだベッドの中にいた。


芹田せりた――さんのお電話でしょうか?」


 寝ぼけたままぼんやりと電話に出た私は、緊迫した声に飛び起きた。未登録の番号なのに、確かに私の名前だった。驚きすぎて声が出ない。うっかりしていた。実家の電話番号に気付かないなんて。


 声の主は父だった。私はパニックを起こしかけていた。少し間を置いて、父は続けた。


大輔だいすけが行方不明なんだ」


 大輔、は兄である。きっと平常時であっても、寝起きの頭じゃなくても、すぐには理解できなかったと思う。事故か、事件か。父の焦りがダイレクトに耳に響く。


 兄が定時になっても出社してこない、電話にも出ないし家にもいない。そう実家に連絡してきたのは、兄の会社の社長だった。他の社員とは金曜の終業後に別れたきりだという。兄がどこにいるのか、誰も知らないのだ。これから捜索願を出すつもりだ、とも父は言った。


 絶縁状態だった私にまで連絡をよこすなんて、藁にもすがる思いだったのだろう。私のときは……いや、考えるのはよそう。私の電話番号も、兄とは近くに住んでいることも、両親は把握していた。私が知らなかっただけで、私の周囲にはまだつながりが残っていたのだ。


 兄と最後に会ったのはいつだっけ。三年前? それとも三年半? 私は日々を過ごすのに精いっぱいで、兄も忙しかったのだろう、次第にLINEの回数も減っていった。最近の履歴にいたっては、互いの誕生日に「おめでとう」と「ありがとう」が交互に並んでいるだけだ。


 突然の父の接触に私は混乱していた。通話を終えても動悸が止まらない。兄への心配も相まって、居ても立ってもいられなくなり、大急ぎでスウェットのワンピースを頭からかぶった。リップだけを塗ると、バッグにスマホを突っ込み兄の家へ向かう。何ができるわけでもないけれど、何かせずにはいられなかった。電車を降りてからは、力の入らない足を無理やり前に出して歩いた。やっとの思いで到着した兄のアパート、呼び掛けても反応はなく、私は鍵のかかったドアの前で途方に暮れていた。


 どれくらい経っただろう。再びスマホが鳴る。実家の番号。


「……え、お兄ちゃん見つかったって……?」


 状況はよくわからなかったけれど、その知らせにとにかく安堵した。スマホを握り締めたまま、私はドアを背にへなへなと座りこんだ。


 兄は病院にいた。事件でも事故でもなかった。アパートからそう遠くない小さな心療内科へ向かうと、兄は背中を丸めて待合室の長椅子に座っていた。


「お兄ちゃん」


 無精髭のやつれた顔が、不審な視線を私に向ける。無言の、なんとも言えない空気が流れた。私はもう一度兄を呼んだ。


「お兄ちゃん、私……」

「え……あっ? ……どう、して……?」


 いるはずのない私の登場に驚いたのだろう。少ししてようやくかつての私の面影を見出したらしい兄は、急にどぎまぎと目を逸らした。


「……びっくりさせてごめん。お父さんから連絡がきて、心配で、それで……」


 私も何を言えばいいのかわからなかった。兄はただ視線を宙に泳がせている。


 ストレスとプレッシャーによる心身の不調。こんな状態でよくここまでこれたものだと思う。病院へ入った兄は、鳴り続ける電話に耐えられずスマホの電源を切っていた。そして点滴を受け少し落ち着いてからようやく、実家へ電話を折り返したのだった。


 兄は憔悴しきっているように見えた。どうにかこうにか諸々の手続きや連絡を済ませると、私たちはタクシーに乗った。会話はない。アパートの階段を兄に合わせてゆっくり上がる。部屋の前で兄が立ち止まった。何かためらっているようだった。「どうしたの?」と尋ねると、鍵を差し込んだまま兄はぼそりと答えた。


「その、中……散らかってるから」

「ああ、うん。そうなんだ」


 我ながらなんて間の抜けた返事だろう。そんなの私だって散らかしてるし、気にしなくても。内心そう思った。だけど実際に部屋に入って驚いた。溢れるゴミ、どんよりとした空気。初めて来たときは生活感があって、観葉植物だって飾ってあったのに。今はその鉢もすっかり枯れて、見る影もない。正直かなりのショックだった。兄が小さく「ごめんね」と呟いたのが聞こえた。私は慌てて「ううん、大丈夫」と返し、こっそり息を止めて窓を開けた。


 兄は薬をあおるとベッドへ向かった。脱いだ服や仕事の資料を端に寄せて一人分のスペースを作り、横になって縮こまる。もう目も開けていられないようだった。やがて静かな寝息が聞こえてきたとき、私は心底ほっとした。


 すぐに立ち上がり、ゴミを集めた。お節介だとは思ったが、せめて部屋らしい部屋で兄を寝かせてやりたかった。黙々と掃除を続け、ようやくスムーズに歩けるだけの床が見えてきたころには、ワンピースの裾は薄黒く汚れ、綺麗に塗っていたマニキュアはぼろぼろにはげ落ちていた。


「……お腹すいた」


 何となく声を出した途端、お腹の虫がつぶれたような悲鳴を上げた。そう言えば父の電話で飛び起きてから、まだ何も食べていない。もうじき日も暮れる。兄も何か食べるだろうか。私は外に出て、一つ先の角のコンビニを目指した。


 買い物を終えて帰ると、中から話し声が聞こえた。兄はもう起きていて、電話で何か大切な話をしているようだった。スマホを耳に当てたまま深々と頭を下げる兄が見えて、私は静かに中に入った。


「……会社、休むことになった」


 通話を切った兄は私を見つけ、困惑した表情を浮かべた。

 

「ごめん……部屋、綺麗になってる」


 私はそっと首を横に振った。

  

孝志たかし、あ……えっと……」


 私の名前を呼んで、兄ははっと口ごもり俯いた。繰り返される兄の「ごめん」がまっすぐに心に突き刺さる。私は精いっぱいの虚勢を張って、一緒に食べるはずだった二人分の弁当の入ったコンビニの袋を、兄に押し付けた。


「ごはん買ってきた。明日の朝の分もあるから。……じゃあ、私帰るね」


 「何かあったら連絡してね」と言い残し、私は外に飛び出した。虚しさとやるせなさがごちゃ混ぜになって、空腹なんてどこかに消えた。


 本当はこんな姿誰にも見られたくなかったよね。なのに私は勝手に押しかけて。困らせた挙句に、かえって気を遣わせて。今大変なのは兄なのに。情けなくて泣ける。


 それから帰りの電車で、人目もはばからずにずびずび泣いた。立っている人もいたけど、誰も私の隣に座ろうとはしなかった。帰宅してベッドに突っ伏して、大声を上げて泣いて。そのまま寝落ちして、目が覚めたときの不っ細工な顔を見て今度はげらげらと笑った。


 ああ、私のことはともかく。こうして兄は一ヶ月の休職が決まり、実家で療養することになったのだ。

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