余呉湖の菊石姫

めへ

余呉湖の菊石姫




「お盆を過ぎて後、余呉湖に入ってはいけない」


滋賀の長浜に住む祖母の家に行く度に、そう言われた。


理由までは聞かなかったが、盆を過ぎると少し涼しくなるので、海や湖に入って遊んだりすると風邪をひく、そんなところだろうと軽く考えていた。

それにしてもおかしな事を言う、余呉湖は琵琶湖と違って泳げる場所ではない。


夏休みに祖母の家へ遊びに行った時、時期は既に盆を過ぎていた。そして三日月や星の見える気持ちの良い夜なので、一人余呉湖までドライブに出かけた。

盆過ぎ、おまけに夜遅い時間帯なので、湖には誰もいない。

湖の波の音だけが静かに響き渡る砂浜、月の映る暗い湖、昼のそれとは全く違う雰囲気に酔いながら、岸辺を歩いた。


急に足首を誰かに掴まれる感触がして、次の瞬間湖に音をたてて落ちてしまった。肩に何かが落ちてきたようにのしかかり、湖に体が沈んでいく。

その何かは、もがいて振りほどこうとしてもびくともしない。思わず後ろを振り向くと、黒髪の長い見知らぬ女がしがみ付いている。

女は濁った眼を大きく見開き、こちらを凝視していた。そしてその顔の皮膚は象牙に覆われたように見える。


息を飲むと同時に大量の水を肺に入れてしまい、それでも女は離してくれず、やがて意識が遠のいた。


気付くと病院のベッドで横になっており、祖母と両親が心配そうにこちらを見ている。

夜、自分がいない事に気付いた両親に、祖母はひょっとしたら湖へ行ったのかも…と危惧し、見に来たところ溺れているのを発見したという。


「だから盆過ぎに湖に入ったらアカン言うたやろ!」と祖母からきつく叱られ、もう二度と同じことはしないと約束した。


病院からの帰り道、車の中で余呉湖に伝わる民話を思い出していた。


この地に都落ちした者がいて、彼には菊石姫という娘がいた。娘が七歳くらいの頃より、肌に蛇の鱗のような模様が現れ始め、それがたいへん醜かったため、姫は乳母を一人付けて離れの仮屋に追いやられた。


姫が十八歳の頃、村は旱魃に襲われ人々は苦しんだ。菊石姫は「自分が湖の主となり、雨を降らせよう」と言い入水した。入水した姫は竜の姿となり、雨を降らせ村を救ったという。

村人達は有難がり、姫を神社で祀るようになった。それが新羅崎神社である。




自分が湖で見たあの女は、菊石姫ではないか。

菊石姫の肌に現れたという模様、それはおそらく何某かの皮膚病であろう。しかし医療に関する知識が今よりずっと遅れていた昔は、得体のしれない恐ろしいものとして捉えられたのだろう。


姫は自ら入水した事になっているが、実際は人柱として強制されたのではないか。家でも村でも存在しない事とされた姫は、スケープゴートとして最適であったろう。

もしくはわが身を儚んで自殺したのか。


姫が入水した後、本当に旱魃は止んだのだろうか。

そうではなかったから村人達は「菊石姫の祟りだ」と怯えて神社に祀ったのではないだろうか。神社というのは、後ろめたいところのある者たちが、祟りを恐れて被害者を祀ったという経緯のものが多い。

そして良心と恐怖を誤魔化すべく、真実から目を逸らすような美談をこしらえたのではないか。


姫を神社で祀った後も、旱魃は続いたのかもしれない、と思った。そしてそれはやはり、菊石姫の祟りとされた。

だからこの地では、盆過ぎに湖に入るなという禁忌が今もなおあるのだ。皆、菊石姫の怨念がこの湖に漂っている事を知っている。

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