吾妻型人形:花笠光禅 壱

 座敷から見えるお歯黒どぶは、固化した黒を水面に張り付けていた。

 江渡、吉原。初面はつあわせの者が通される引付座敷の一室。角代すみよの前に、その僧侶は胡座を掻いていた。精進をしていないのか平気で運ばれた酒を飲み、硯蓋すずりぶたの蒲鉾にも旨そうに手を着けている。着崩した黒袈裟に総髪と無精髭という有り体も、軽佻浮薄けいちょうふはくな生臭坊主のそれだった。

 しかし、遊女である角代は僧侶の風体をあげつらって場を白けさせるようなことはしない。野暮な真似をしたら梁の上、妓楼の六階から座敷を見張っている遣手に厳しい折檻を受けてしまう。


「今日は何をなさりんすか」


 何百回と繰り返した調子で角代は聞いた。平坦すぎても、艶を含ませすぎてもいけない。この客が次も揚代を払ってくれるかどうかは、角代がどれだけこの客を楽しませられるかに掛かっているのだから。


(……いつまで)


 いつまで。

 こんなことが続くのだろう。そう角代は思う。

 練習などしたくなかった。心と体を切り渡す度に、自分が人非人にんぴにんの真っ黒いどぶに沈んで戻れなくなっていく気がした。望んで吉原に来た女たちもいるが、角代は違う。男に騙され、下級遊女の禿かむろとしてくるわに売られた。

 角代の性分は忍耐強かったが、花魁に上り詰めるような渡世の才はない。もはや吉原の坂を上ったあの日から、二度と陽の当たる世界に戻ることは出来ない。

 陰日向に咲く花は手折られるばかりだ。


 だが、角代の憂いを読み取ったのかはいざ知らず、僧侶が御猪口おちょこを傾けて少し笑った。そこで角代は初めて己の失着に思い至った。この男は、酒を遊女に注がせていない。それが自然のように、自分で酒を取って自分で呑んでいる。


「相済みません。ただいまお酒を――」

「こんな別嬪さんに安酒注がせちゃ可哀想さ」

 僧侶は鷹揚に酒瓶を差し出した。

「大丈夫だよ。遣手はこっちを見てないからね」

 妓楼で客に酒を注がせるのは御法度だ。遊女の監視役である遣手に見つかれば厳しい叱責を受ける。だが、この男は今――その遣手の配置と視線までを頭に入れていると暗に語ったのだ。


「……まさか、あなた様は」

 震える手で、角代は御猪口を差し出す。

「自己紹介がまだだったね。お嬢ちゃん」

 ちょろちょろと音が響き、澄んだ清酒が角代の器へと流れていく。

 陽の当たる世界にはもはや戻れない。

 誰かが解き放ってくれることもない。

 一度堕ちたら這い上がること能わない、そのような世界に角代はいた。

 だが、歴史の裏には――


「僕は『逃がし屋』花傘光禅はながさこうぜん浄閑寺じょうかんじに手紙をくれたのは君かい?」


 歴史の裏には、《人形遣い》と呼ばれる影の兵が存在する。

 縛られ、足掻き、それ故に力持つ者たちが。


                    +


 角代たち禿の間では、『逃がし屋』という人物が噂として取り沙汰されていた。

 曰く窮状にある女子供を無償で逃がす仕事人であるとか、曰く外法を遣う真の陰陽師であるとか。そういう益体もない舌先の話ばかりだが、不思議なことに『逃がし屋』のことを悪し様に言う者は一人もいない。

 皆、その男に助けられ、吉原から足抜けしたのだという。


 だから角代も、縋る思いで一度だけ手紙を出した。遊女の投げ込み寺として名高い浄閑寺、その賽銭箱に。遣り手の眼を潜って『逃がし屋』の伝手を得るには、その方法しかない。飛脚でも早馬でもいけない。客がそう笑いながら語っていたのを角代は思い出していた。

「あ、あなた様が……まことに、わっちを逃がして頂けるのでありんすか」

 当然だが、吉原からの足抜けは重罪だ。島原の遊郭とは異なり重苦しい雰囲気が漂っている。火勢に紛れて足抜けをと、思いつめた遊女が遊郭に炎を放った数も一度や二度では効かない。

「へへ……そりゃあこんな野暮なオッサンが来れば不安にもなるよね。ここから逃げ出すのは、そう簡単なことじゃあない。お嬢ちゃんを安心させる一番の方法は、実際にきみを逃がせる証拠を見せることだよね」

 不精の僧侶――『逃がし屋』花笠光禅は、へらへらと笑いながら部屋の隅に置いてあった行李へと近寄る。大きな行李だった。竹で編まれた籠は、小柄な女性ほどの身丈になるだろうか。

 ――まさか、あの行李に角代を詰めて逃げ出すとでも言うのだろうか。

 角代が思わず問おうとしたそのとき、


 ぬるり

 と、

 行李から白い手がのぞいた。

 角代はひ、と声をあげそうになる。

 手はずるり、と行李から零れ落ち、艶めかしくうごめいた。

 それだけではない。光禅の指が蛸のように踊るにしたがって、白い二の腕やてらてらと輝く太腿が順繰りに行李の中から這い出て来る。女の体だ、と角代は思った。それは最後に、行李の中から転がり出て来た顔を両手で捧げ持ち、自らの首の上に嵌めた。纏った錦の襦袢が擦れる。

 そこに現れたのは、目の覚めるような花魁の立ち姿だった。

 襦袢の文様は緋色地の鉄線テッセン。朱の髪飾りが勝気な顔立ちに彩を差していた。

「この方、は……」

「僕の妻さ。胡蝶ちゃんって言うの」

 光禅の口ぶりは、まるきり目の前の女が――正確には女のかたちをとった傀儡が、自身の妻と言わんばかりだった。無論目の前の吾妻形人形は本物の太夫や花魁にも増して美しく、人間と見紛うことこの上なかったが、僧侶が入れあげているとなっては話が別だ。女性を象った淫具に財を費やして高価な着物をお仕着せる落城の武家などは江戸川柳の笑い種だが、よもや目の前の『逃がし屋』がその類の阿呆だったとは。

「私を揶揄っているのなら、止しておくんなまし……」

 気の弱い角代はどうすることも出来ずに、光禅と胡蝶の顔をおろおろと見回すばかりだった。しかし光禅は、

「いいや、彼女は僕の妻さ。誰がどう言おうとね」

 そう言って、彼は胡蝶の帯から伸びる金錦の紐を繰る。

 すると、胡蝶はまるで生きているかのような足取りで襖を開け、座敷の外へと歩いて行った。梁の上の遣手はまるで気付く様子もない。彼らの死角となる部屋の隅に行李を置いた上で、そこから胡蝶を出すことまでが光禅の計算のうちだったのだ。そう角代が気付いた時には、既に胡蝶は遣手の座す梁の上の座敷まで登っていた。

「呉服屋に金を出して着物を作らせた甲斐があったよ。絡め手にも役立って、その上妻の晴れ着姿を見れるなんて、目出度めでたいことこの上ないなあ」

 光禅がへらへらと呟いた。ようやく遣手が背後の気配に気づくが、既に遅い。

 胡蝶がそっと遣手のうなじに触れると、遣手の体が銛で打たれた魚のように跳ね、倒れる。梁の上を見上げる角代からも、その一連の光景はよく見えていた。

「どうだい? 凄いだろう、僕の妻は」

「い……今のは……殺したのでありんすか?」

「いいや。僕の妻は電気えれきてる仕掛けでね。少々流し込んでやったのさ」

 光禅は首を振り立ち上がる。

「それと、もう廓言葉は使わないでいいよ。今から、逃げるんだ」

 そう言って、光禅は角代をおもむろに抱きかかえた。

「な……何を!?」

「口を閉じていなさい。舌を噛んでしまうからね」

 光禅が忠告した次の瞬間、胡蝶が襦袢をはためかせ、梁の上から跳躍した。

 光禅と繋がれた錦糸が梁に掛かり、滑車のように一気に光禅たちを引き戻す。

 それに合わせ、角代を持ったまま光禅も軽々と跳躍した。ふわり、と浮遊感が刹那在って、気付いた時には角代は梁の上で抱きかかえられている。

 胡蝶が飛び出したのは座敷の外、濠の内側だった。六階にもわたる高さを一気に飛び降りたというのに、傷一つない。

 再び光禅が跳躍する。遊郭の外へと。

 角代には声を出す暇もなく、ただ光禅の胸板にしがみつくばかりだった。

 しかし、不思議と今度は死ぬ予感はなかった。


(この方は、本当に私を逃がしてくれるんだ)


 角代はぐ、と光禅の袈裟を握り、身を委ねる。次の瞬間、凄まじい勢いで遊郭の門を登っていた胡蝶が跳ねるのが見えた。横合いから突き飛ばすように光禅を抱きかかえ、一階部分の瓦葺きに着地する。

「……どうだい? 僕の妻は凄いだろう?」

 光禅は本物の『逃がし屋』だった。誰にも見とがめられず、最小限の労力で角代を遊郭の外まで連れ出したのだ。

 角代は乙女のようにこくりと頷くしかなかった。

 船場から立つ煙が夜を裂いて、静かにたなびいている。


                   +


 光禅の手引きは方々まで及んでいた。

 吉原の遊郭の周りには遊女を逃がさぬための濠――お歯黒どぶがぐるりと周っていたが、光禅は人を雇ってあらかじめ濠に板を渡していた。

 ほどなくして、猪牙船ちょきぶねが渡される船着き場に到着する。

「じゃあ、お嬢ちゃん。お代を頂こうか」

「あ……」


 ――『逃がし屋』は、金さえ払えば客を逃がす。

 だが、もし……払えなかったら? 角代の声が震える。

「……その。いくらに」

「そりゃあ」

 光禅の眼が細められた。

「六文」

「それは」

 六文銭。三途の川の渡し賃だ。身を売って稼いだ角代にとっては、子供の駄賃にすらならない端金だった。

「お嬢ちゃんはここで一度死んで、嫌なことは全部置いていくのさ」

 つまり、光禅は金が目的でこんな酔狂を繰り返しているわけではないのだ。

「……本当にそんなことが出来るのでしょうか、光禅様」

 角代の言葉はもはや習わされ染みついた廓言葉のそれではない。例え形無しの僧侶であっても、今の彼になら、穢れて傷ついた自身の魂を晒すことすらできるのかも知れないと思った。

「私。私、だけ、助かって……仲良くなった禿の子も見捨てて逃げて、こんな……騙されて売られたのだって、本当は私のせいなのに。ここで嫌なことを全部置いて逃げたら、私、本当に何もない……」

 角代の性分は忍耐強かったが、花魁に上り詰めるような渡世の才はない。

 だからこそ長きに渡る花魁での日々の中で、彼女の心を形作る唯一の標は自身の苦境のみになってしまっていた。部屋の角に押し込められ、いつしか飛び方を忘れてしまった鳥のように。

 角代はうずくまり、船着き場の水面に涙を落とした。

「光禅様。もう一度、私を吉原に戻して下さいませぬか。外の世界に出るのはもう、怖くて辛くて仕方がない……お願いです。どれほど苦しい目に遭っても、もう泣き言は言いませんから……」

「角代ちゃん」

 目線を下げた光禅は、屈みこんで角代を見据える。

「――これはさ。胡蝶ちゃんが言ってたんだけどね。人はみぃんな、何かに縛られていて……それはきっと、お天道様の元で生きる以上どうしようもない。陽が照りゃその分影もある。でもね」

 船着き場の明りが水面に照っている。光禅は囁くように呟いた。

「縛られるものを、選ぶことはできる」

 ぱっと角代が顔を上げた。

「それは――どういう意味でいらっしゃいますか」

「うん。胡蝶ちゃんが逝ったことは、本当は解ってるんだよね。でもさ……大好きな人にはじゃない? だから人形師に頼んで僕の妻を貰ったのさ」

 光禅の手が、背負った行李を愛おしむように撫でる。

「僕は妻に縛られてる。でもこれは、自分で選んだ糸だ」

「……」

 

 選んで縛られて、その道を後悔せずに生きる。

 少なくとも光禅はそうしている。自身の妻の人形を造って、慈しんでいる。

 そんな風に生きられるだなんて、角代は思いもしていなかった。

 だけれど、もしも。この先。騙されたことでも、上手くやれなかったことでも、見捨てたことでも見捨てられたことでもなくて、今『助けて』と言えたことを小さな誇りに抱いて、縛られて生きていくことができるなら。それは情に掉させば流される浮世の中でも、ささやかな舫綱もやいにはなるのかも知れない。

「光禅様。私は――」


 角代が言い終えるよりも先に、光禅が動く。

 行李から胡蝶を出す暇もない。

 その時光禅が見ていたのは角代の背後――猪牙船の船頭が構えた短筒の砲口であり、銃声が轟いたと同時、光禅の不精袈裟にじわじわと紅が差していく。


 角代の悲鳴が固化した水面の黒に吸い込まれた。

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