影絵人形:カー・ヨナン 弐
錠が回る音。
薄暗い応接室の中に光が射し込むと同時、ヨナンが指揮者のように手を翳す。
ヨナンの護衛たちが一斉に後装式のエンフィールド銃を構える。すると護衛たちの影がゆらりと立ち上がり、隊列を成して影の銃を構えた。
――陰影の軍隊が、ヨナンの背後に整列していた。
「撃て」
幾重もの砲声が重奏し、市庁舎の扉の向こう側を木っ端微塵に吹き飛ばす。
数人の護衛の射撃が、中隊の斉射に化けた。これが《人形》の力だと言うのか。
「なぜ確認もせず撃った!? 『影絵の国』に軍規はないのか!?」
「ノックも弁えん無法者は『影絵の国』には存在しない。そら、起き上がるぞ」
ヨナンは護衛からエンフィールド銃を受け取り、弾を込める。
つられてムルタトゥーリも完全に破れた扉の向こう、蠢く土の塊を見た。
……それは人の背丈ほどもある巨大な粘土の塊のように見えたが、壁のように広がり銃弾を受け止めている。そして弾丸の高熱により、乾燥した土が剥離していた。何より目を引くのは、粘土の体躯に施された黒い刺青のような文様だ。
花を象っているのが辛うじて解るほどの精緻さと複雑さだった。
「……何だ、あの化け物は。伝説上の『
「いいや。あの《人形》はもう少し厄介だ……撃ち方、続け!」
遮るように、音もなく銃を構えた護衛が一斉にヨナンの前に進み出る。
相当に練度の高い私兵だ。《人形》に動じることもなく、英陸軍の制式兵装を一糸乱れぬ連携で使いこなしている。
しかし対する土塊の《人形》から、漏斗のような突起が突き出た。
何か、と思う間もなく、護衛の一人がムルタトゥーリを突き飛ばす。
瞬間、突起からしゅイと空気を切り裂き、白い霧が噴き出た。
「目眩ましだ! 総員半円に円陣!」
ヨナンがすかさず号令を飛ばす。護衛たちは壁際にヨナンとムルタトゥーリを押し込め、霧が立ち込める視界の中銃を構えた。だが、霧が戸口から差し込む光を散乱させ影を乱す。影絵の兵士たちが立ち消える。
その中で、かちゃり、と陶器の擦れるような音だけが。
響く。
反射的に、護衛たちが音源に向けて発砲した。
ぱ・ぱ・ぱ・ぱりん!と、発砲音に混じって割れ物の砕ける甲高い音が響いた。
(……妙だ。あの《人形》は、粘土では――)
ムルタトゥーリの脳裏に、先ほど姿を見せた土塊の《人形》の姿が思い起こされる。しかしその思考を寸断するように、彼の視界を青い線が遮った。
陶器の音。青い線。ムルタトゥーリはその色調と精細な
「そ……そいつは、陶器だ! カー・ヨナン! アムステルダムの、
「伏せろ、デッケル」
言葉の途中で、ヨナンはムルタトゥーリの頭を乱暴に抑えつけた。
青黒の線が頭上を切り裂き、庁舎の机に直撃する。すると長机がすぐさま朽ち、ひび割れて崩れた。まるで全ての水分を失ったかのように。
そして、霧が晴れる。ムルタトゥーリの眼前には、またもあの黒い紋様を施された粘土の人形が佇んでいた。
「釉薬の《演糸》によって水分を吸収し、陶器の体躯を粘土に戻す。それが奴の《仕掛け》か。人形には必ず、何かを操作する《仕掛け》が存在する……」
ヨナンが囁くように口を開く。
「吸収した水分を排出し、霧状にして光を散乱させることで影を乱して《影絵人形》による影の複写を防ぐか……なるほど、よく考えられた戦術だ。加えて」
彼女はさっと応接室中に視線を巡らせる。
ヨナンたちを取り囲むように、黒い糸が部屋中に網じみて広がっていた。
「馬鹿な!? いつの間にこれほどの罠を!?」
「狼狽えるな。陶器の身体が撃たれた際、釉薬の《演糸》が刻まれた欠片も共に飛散した。恐らく《演糸》を伸ばし水分を吸収できる射程は、欠片の体積に比例している……つまり、欠片を“中継地点”として用いたのだろう」
窓を背にして、ヨナンと護衛たちはじり、と退がる。触れれば水分が奪われる死の罠。眼前には銃弾と影を無効化する粘土の人形。相性は最悪と言ってよかった。再び《人形》の体躯から漏斗が突き出し噴霧する。
応接室一面が薄青い霧に包まれ、再びヨナンの顔が見えなくなる。
このまま釉薬の《演糸》によって攻撃を続けられれば、全員が遠からず脱水症状で死に至ることになるだろう。恐らくジャワ戦争時のコレラ騒ぎも、《人形》の能力によって脱水症状を偽装していたのだとムルタトゥーリは思い至る。
「……全員伏せろ! 私の《人形》で部屋ごと吹き飛ばす!」
ヨナンが十指を構えた。
その指には竹で編まれた撚り糸が繋がれ、彼女の被服の裡――すなわち、霧に影響されずに影を作れる箇所に接続していた。
護衛たちが素早くムルタトゥーリを伏せさせる。
ヨナンは鋭く糸を引き――
ばりん
と、
それより早く、
背後で硝子が割れる音が響く!
「な」
振り返るムルタトゥーリの視界の端には、釉薬の糸を五指より垂らしナイフを逆手に構える男の姿があった。今まで姿を隠していた《人形遣い》――ムルタトゥーリがそう直感した時には、既に男はヨナンの懐に潜り込み胸の中心部に短刀を埋めている。
ムルタトゥーリは目を覆った――だが。
「やはりこちらか」
ヨナンは微動だにせず、
胸に突き立ったナイフを受け止めている。
男の目が驚愕に見開かれると同時、ヨナンが男の腕を背負うように反転した。
男は即座に距離を取ろうとするが飛び移れない。
足許に落ちる二人の影どうしが結びつき男を拘束していた。
ヨナンが腕に組みついたまま鋭く体を捻る。ごきりという音が響いた。
呆気なく男の腕から折れた骨が飛び出る。感染症を引き起こす開放骨折。
たまらず膝を折った瞬間、ヨナンは床板を踏み抜くような前蹴りで膝関節を砕く。左足を逆くの字に曲げ男は倒れ伏した。
最後の抵抗のように、
水分を排出し陶器状になった《人形》が、渇水の線条を走らせ――
「無駄だ」
予見していたように、ナイフが男の五指を断った。淀みない動きだった。先程肘を折った時に男が取り落とした刃をそのまま空中で直接把持し、一手で反撃の芽を断っている。
「拘束を」
ヨナンはおもむろに手を上げる。
銃を構えた護衛たちが、影じみて男に飛び掛かった。
+
「――奥の手はあった」
『影絵の国』――バタヴィア市内の欧式ホテル屋上フロアにて。
ムルタトゥーリは一連の攻防の正体を聞かされていた。
「もっとも私の“奥の手”は、部屋を壊すような大規模な破壊をもたらすものではない。竹糸の《演糸》を服の下に張り巡らせておけば、被服と肌の間に形成される影を甲虫の外骨格のように肉体の強化に用いることができる」
ヨナンは軍装の袖の下から、ちらりと帷子のように繋がった竹糸を覗かせる。
「では、最初から敵の《人形》をおびき寄せる予定だったのか?」
「極めて相性の悪い相手だった。霧によって《影絵人形》を無効化され、粘土の身体に飛び道具は通じない。《人形遣い》の本体は一向に姿を見せない。ここで問題だ、デッケル」
ぴんとヨナンは指を立てた。
「刺客は正面から姿を見せず、どのようにして私たちの動きを察知していた?」
「……背面の窓越しに、我々を監視していたということか」
ヨナンは頷き、ムルタトゥーリの薬用煙草を勝手につまんだ。
奪った短刀の柄の発火装置で火を点け、ゆっくりと煙を肺に満たしていく。
「
煙が大西洋の夕暮れに流れていく。椰子の木の下、屋台通りで活発に蠢く人々をヨナンは目を細めて眺めていた。
「だが、敵が最も無防備になるのは、常に“自分が上手くやった”と思う瞬間だ」
……ムルタトゥーリは、ヨナンが窓を背後に半円の陣形を組ませたことを想い出していた。彼女は陣形を故意に背面に対して無防備なものにすることで敵が窓を割ってヨナンの背後を取るように、応接室ごと吹き飛ばす虚偽の“奥の手”を示唆することで刺客がヨナンを直接襲う
だが。ヨナンがオランダ政府の襲撃に勘付いていて、バタヴィア市庁舎の防備が完全ではないということも了解していたならば――そもそもなぜムルタトゥーリとの会談に出席し、戦闘を避けなかったのだろう?
「デッケル。きみが疑問に思うのも無理はない」
ムルタトゥーリの疑問に先回りするように、ヨナンは階下の景色――『影絵の国』の日常を睥睨した。
「時に、きみはこの国をどう思う?」
「抽象的な質問だな。……国を追われた愚かな役人の戯れ言でいいのなら」
ヨナンが頷く。ムルタトゥーリも、ホテルの屋上から屋台のさざめきを眺めた。
珈琲の香りが仄かに流れてくる。『影絵の国』の人々にとって、もはや珈琲は輸出向けの商品作物などではなく、国内で消費できるいち農産物になったということだ。
「忙しない国だ」
つまり、雇用体制の転換と引継ぎが概ね健全に行われているという評である。ヨナンはムルタトゥーリの言に微笑んだ。
「無政府状態の混乱にあっても、『影絵の国』の民はよく努力している。だが私がオランダ本国の襲撃から身を隠せば、市民を人質に取られていただろう」
「それが理由か?」
「まさか。あくまで市民向けの建前だ」
灰皿にじゅウ、と煙草がにじり消える。
「今回の一件で『
呟くヨナンの瞳は鋼のように鋭かった。
「そして、私たちはオランダ本国の事情に詳しい実務家を一人手に入れた」
「……」
ムルタトゥーリは視線を逸らした。
最早オランダ本国への帰還は叶わない。彼らはヨナンと共に、ムルタトゥーリを切り捨てるという決断を下した。『影絵の国』での公務後はドイツに渡ってしばらく過ごそうかと考えていたが、恐らく旅先の病に見せかけてムルタトゥーリを暗殺する算段も既に整えられているのだろう。
「私と“共に”襲われる所まで、計算の内か」
見誤っていた、と思う。
今回の一件で、カー・ヨナンはオランダ本国に有効な手札を手に入れ、市民を守ったという実績を獲得し、間諜であるムルタトゥーリの存在さえ手駒に収めてみせた。ヨナンの計略は影絵芝居のように、相手の思惑に伴う形で展開される。敵対者は致命的な瞬間まで、対手が影絵の人形だと気付かぬままに踊り続ける。
しかし、だとすればヨナンは『影絵の国』で何を為そうとしているのだろう。
「今更本国に戻るとは言わないだろう」
思索に耽っていたムルタトゥーリを嗜めるように、煙草が突き出されていた。
「……それは私のものだ」
「分け合った方がうまい。食事も、煙草もな」
「奪った側でなければ美辞麗句だったな。……今更本国に戻ろうとは思わない」
ムルタトゥーリは煙草を受け取り、机の中央に置かれたランプをつかって火を灯した。コーヒーの香りとクローブの香りが混然とする。
「だが、私に何をさせるつもりなのかを問わねば、そちらの味方にも付けん」
常に、切り捨てられる側に回ることを恐れ続ける人生だった。
だが生きるということはあらゆる縁に絡めとられるということだ。常に正しい側でいることはできない――常に正解することはできない。ムルタトゥーリの多数派に回るという信条は個人としては敵を生まない選択だが、組織という装置の観点では回転方向を見定められない不良品の螺子に過ぎない。その矛盾を、彼自身が最も理解していた。
「きみは正しいことを望んでいるのか」
階下の子供たちが、屋上に座るヨナンをみとめ騒いでいる。ヨナンは手を振り返しながら呟いた。
「幸せな暮らしを作ることはできた。次はこの光景を守る必要がある」
「宰相の一族としての使命感か?」
「いいや。恐らくは、きみが思うより退屈な……」
そう言いながらも、彼女はムルタトゥーリが懐のコルトSAAを抜く動きを掣肘することはなかった。護衛が一斉に彼に銃口を向けるが、ヨナンはそれを片手でいなす。
「……退屈な願いだ。わかっているだろう」
「それでもいつかは賭けに負けるぞ。毎回このような綱渡りを繰り返した挙句、国を巻き込んで心中するつもりか」
――正解し続けることはできない。
もしも彼女が真に民のことを想っているとしても、大国を相手取っていつか敗北する博打を続けることは長期的に見て必ず国を滅ぼすだろう。銃把に力が籠る。冷えた鋼がヨナンの額に押し付けられた。
「きみは二つほど勘違いをしている」
ヨナンの視線は、銃の温度以上に冷厳だった。
「『影絵の国』はそもそも、賭けの相手として扱われていない。つまり世界をテーブルに着かせる必要がある。私はそのために手段を択ばない」
「何を……」
「石油という資源を知っているか? ジャワ島沿岸に埋蔵されている未知の燃料だ。海底の影に『影絵人形』を同調させることで、採掘設備と輸送設備を形成している。
「馬鹿な」
ムルタトゥーリは呻いた。今の話が真実ならば、『影絵の国』は大国の資金援助を受けずにそのような大規模事業を成し遂げるだけの技術力と知見を有していることになる。だが。
「そこまでの開発に、痕跡が残らないわけが……」
言っている途中で、ムルタトゥーリは気付いた。
痕跡は、残らない。
輸送設備と採掘設備が《人形》の能力によって形成されているのならば、能力を解除すれば文字通り証拠は影も形もなくなって消える。加えて『影絵の国』が独立している以上情報の出入りも以前より遥かに困難になっている。
しかし、それ以上に恐るべきことは――
「……一人の《人形遣い》には、絶対に不可能な事業規模のはずだ」
「勘が良いな。そうだ。私たちは『影絵人形』を百四十基以上所有している」
ムルタトゥーリの視界が歪んだ。膝から崩れ落ちそうになる。
彼女には勝算があったということ。《人形》が複製可能であるということ。『影絵の国』が既に将来的な燃料供給の産業基幹に食い込む準備を終えていること。全てがいち役人であるムルタトゥーリの理解を超えていた。
「きみが察している通り、《人形》は限られた条件下で……人間の手を以て作成することができる」
ゆらり、とヨナンの影が揺らめいた。
「これら複数の『影絵人形』はマタラム王族が代々受け継いできたものであり、ジャワ戦争の際には王族の《人形遣い》が、オランダの《人形遣い》と戦った」
ヨナンの操る竹糸に引かれ、影がひとりでに立ち上がる。
『影絵人形』はムルタトゥーリの構える銃口をゆっくりと横にずらした。
「敗北以降、マタラム王族は力を蓄えて来た。百四十基の『影絵人形』も、その際に何らかの方法により人間の手によって作成されたと、父から聞いた」
「……待て。それでは、最終的にお前は……」
「そうだ」
ヨナンは頷く。
「国民全員分の『影絵人形』を複製し、自衛のための兵器として運用する。《人形》を鹵獲するのは、その方法を探す研究のためでもある」
ムルタトゥーリは、ついに銃口を下ろさざるを得なかった。
《人形遣い》のことも《人形》のことも、今日知ったばかりだ。だが彼女はムルタトゥーリの想像などを遥かに超えて、『影絵の国』のために《人形》を個人携行可能なインフラストラクチャとして利用しようとしている。そして国民の意思で使用の可否を決定できる資源の輸送網すら実用化の段階に至っている。
賭けだとしても、正しい賭けだ。少なくとも彼女は国民全員の命をチップに載せるという行為の意味を理解している。そうまでしなければ、大国と同じテーブルに着くことすらできないということも。
「……王にでもなるつもりか?」
ムルタトゥーリは乾いた笑いを漏らした。
「まさか。きみも私も立場は同じだ、デッケル。仕事をして貰う」
ヨナンは首を振り、立ち上がる。影が薄暮に揺らめいて、消えた。
「きみの言う通りだ。人間は、正解し続けることはできない。よって……私の代わりの為政者を探すのが、私の最後の仕事となるだろう」
彼女の瞳の先には、美しいバタヴィアの――『影絵の国』の街並みが移ろっている。屋台はますます活気を増し、コーヒーを片手に歩く人々の顔には笑顔が灯っている。存在するはずだ、と彼女は呟く。
「――道を違えることのない、人を超えた神が」
それは祈りにも似た響きを伴っていた。
《
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