影絵人形:カー・ヨナン 壱

 三か月前、オランダ領東インド(現インドネシア)の首都、ジャワ島西部バタヴィアにおいて独立国家『影絵の国』の樹立が宣言された。『影絵の国』は《人形》と呼ばれる新種の兵器を背景に、オランダ政府からの軍事的介入に備える構えのようだ。彼らはインドネシア国民による植民地政府に依らない自治を主張しており、インドネシアに潜伏していた反オランダ勢力が次々と『影絵の国』に合流している――


 ……慣れ親しんだ国の政変を簡素な文体で記し、ムルタトゥーリは革綴じの手記帳を閉じる。丁字たばこロコッ・チェンケを吸い、静かに紫煙を吐き出す。百里香クローブの棘棘しくも甘い香りが肺の中に広がった。人力車が揺れ、煙が流れる。この白い渦の中にもインドネシアの農民たちの血が淀んでいるとムルタトゥーリは思う。


 一八三〇年代のインドネシアには、政府栽培制度と呼ばれる植民地経営の方式が存在した。コーヒーやタバコ、インディゴを初めとした商用の作物を栽培させ、植民地政府がそれらを独占的に買い上げる。オランダ政府は有数の工業地帯であるベルギーの連邦離脱や対オランダ政府紛争であるジャワ戦争・パドリ戦争に費やした軍事費により多大な財政負担を抱えていた。しかし政府栽培制度の実施以降オランダ政府の経済状況は改善され、ついには産業革命を達成するほどに盛り返した。 

 だが植民地経営の常として、その利益が東インド植民地にもたらされることはない。インドネシアの農民たちは、自分たちの腹を満たすことのない作物をひたすら耕作し続けていた。当時のインドネシア国民はオランダ政府の財政を支える利得を生み出しつつも農業器械のように扱われ続けるという典型的なダブルスタンダードに陥っていたのである。


 そのような窮状を小説として世界に告発したのが、オランダ領東インド各地で官吏官として勤務していたエドゥアルト・ダウエス・デッケル――筆名をムルタトゥーリわれ大いに受難せりという。

 彼が一八六○年に発表した『マックス・ハーフェラール - もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』は、インドネシアの窮乏と植民地経営の悪辣さを訴える書籍として、オランダ本国で大きな反響を呼んでいた。十九世紀後半の世界経済は植民地経営を是とする重商主義から積極的に政府が介入する自由経済主義に舵を切っていたからだ。三十年にわたる年月のなかで政府栽培制度もまた疲弊し、耐用年数を迎えていた。一八五四年に施行された蘭印統治法により政府栽培制度は大きく緩和され、一八三〇年代のような一方的な制度の施行は困難になっていた。

 ……では、現在インドネシアの先住民たちは充分な地位を獲得することができたのだろうか。


(そうではないから、『影絵の国』ができた)


 ムルタトゥーリがインドネシアの窮状を『マックス・ハーフェラール』によって告発したのは、何も義侠心からの行動ではない。西欧諸国におけるのような啓蒙思想の高まりにタダ乗りフリーライドできると判断したからにすぎない。

 つまり、依然としてオランダ政府はインドネシアを『導かれる立場』として認識している。政府栽培制度と阿片の公売で彼らの国土と人民を痩せ驢馬のように疲弊させたにも関わらず。

 

 海沿いのコタトゥア地区には、オランダ様式のテラスハウスや酒場、売春宿が軒を連ねている。バタヴィアの主要市街は内陸部の運河沿いに密集しているが、海沿いの旧市街は十九世紀初頭に敵対していたイギリス海軍の砲撃に備えて一度投棄されたことがある。そのためムルタトゥーリのいる海辺は「下の方の町ベネテンステッド」とも呼ばれていた。実際、新市街と旧市街を一繋ぎに鳥瞰すれば白と茶のモザイク壁画のようにも見えるだろう。これら白い渦の中にもインドネシアの農民たちの血が淀んでいると、ムルタトゥーリは思う。

 植民地経営は既にバタヴィアへと深く根を張り、歴史の一部となってしまった。過去を都合よく切り離すことはできない。人は皆、何かに縛られている。何もかもを雁字搦めに繋げる糸によって歴史は縫製されている。


 だからこそ、『影絵の国』の『インドネシア国民による自治』という理念はバタヴィア市民にとって舐めさせられた苦汁を濯ぐ蜜の題目となるだろう。『影絵の国』にはパドリ戦争において敗れた反オランダ勢力であるイスラーム教徒のパドリ派や、ジャワ島最後の王族であるマタラム王国反乱軍の残党なども集結しているという。しかし、それら反オランダ勢力を率いる首魁に関しては未だに明らかになっていない。いったいなぜ、四十年以上も前に瓦解した反乱勢力を維持し、あまつさえ独立に際して速やかに軍事体制に編入させることができたのか。それを解明するために、官吏官を辞したムルタトゥーリは政府によりジャワ島バタヴィアに派遣されたのだ。彼は『マックス・ハーフェラール』を出版し、インドネシアの窮乏を世界に向け発信したため、オランダ人としては極めて珍しくバタヴィア市民に受け入れられていた。オランダ政府は武力ではない手段で『影絵の国』の内情を探る必要があったのだ。


 実際の所、三か月前の『影絵の国』の独立は極めて穏当に行われたと言っていい。植民地政府が行政を行っていた庁舎は『国政の正常化』の名分のもと無血で占拠されたし、行政官もほとんど無傷でオランダ本国に移送された。まるで世論が植民地側に傾いてきた風潮を狙い済ましたように、死傷者を発生させない対応によって開戦の大義名分を潰している。オランダ以外の国家では、概ね植民地支配に対する正当な抵抗という見方も強かった。また、貿易に関しても『影絵の国』は国際的な競争力のなくなった品目のみを的確に輸出廃止しており、オランダ本国の中ではむしろ体の良いコスト削減になったという声さえもある。つまり、『影絵の国』の対応は、植民地政府であるオランダの負い目と実利を的確に突いて来たものだった。そのため、オランダ本国は『影絵の国』に対する性急な侵攻に踏み切れずにいる。

 だからムルタトゥーリはなおさら『影絵の国』の首魁のことが気にかかっていた。都市伝説じみた調停士として名高い“白鳩の紳士”サー・ピジョンならまだしも、バタヴィアの将にそのような政治的バランス感覚を有した傑物は存在しなかったように思える。


 椰子の木が立ち並ぶコタトゥアの大通りを抜け、人力車は旧バタヴィア市庁舎に到着した。ムルタトゥーリは伸びて来た髯をさすりながら車夫に貨幣を渡す。車夫はちらりとムルタトゥーリの顔を――正確にはその肌の色を見た。

「あんた、ヨナン様に会いに来たネーデルラント人の作家さんだぁな」

 自国の古式な呼び方に、ムルタトゥーリは頷く。

「如何にも私は旧ネーデルラントより『影絵の国』へと罷り越した。ヨナン様と言うのは、『影絵の国』の統治者かね?」

「へへ」

 若い車夫は口許を曲げ、手を差し出した。ムルタトゥーリは大人しく貨幣をもう一枚支払う。役人時代から賄賂は慣れていた。

「……毎度あり。ヨナン様はなぁ……」

 車夫は人力車を庁舎の壁に止め、ムルタトゥーリと同じく丁字たばこを蒸かす。

「すげえお姫様なんだよぅ。何でもマタラム王国の宰相一族とか何とかで」

「待て。それは本当か?」

 マタラム王国と言えば、ジャワ島において最後に実権を伴っていた王族である。その王国の宰相ならば神輿としての効力は十分に考えられる。無論四十年前に滅びた王国の生き残りが都合よく反乱を指揮しているとは考え難いが、偽物でも旗印としてはこの上ない存在だろう。

「興味深い情報だった。釣りは良い」

 車夫は微笑み煙草を差し出してくるが、ムルタトゥーリは首を振る。

は我々の国が押し付けたものだ。だが、ここではもう君たちのものだ」

 若い車夫の手に、貨幣がもう一枚載せられた。


                   +


 大砲や地下牢への入り口が通じる広場を抜け、ムルタトゥーリは庁舎の応接室に通された。応接室までは五分もかからなかった。これはバタヴィアのゆったりとした時間の流れに慣れ切っていた彼にとっては驚くべき出来事だった。西洋の時間感覚を認識し、あまつさえ政治様式に組み込んでいる。洋式の応接室に装飾されていたオランダ東インド会社の紋章レリーフは取り外されていた。

 そして、植民地政府の官吏が使っていたのだろう豪奢な黒檀の長机に、若い女性が何人かの護衛を引き連れ座っている。

 剣呑な空気の中でなお女性の美貌は際立っていた。バーミンガムの『工場』を束ねる令嬢、トルソゥのような華やかさで全てを蹂躙するような魅了ではない。

 むしろ作り物のような飴色の肌や無駄が削ぎ落された骨格、整えられた黒い短髪に鋭い瞳からは、静的かつ燃的な意志を感じられる。砥ぎ上げられた泥炭を彷彿とさせる硬質な美だった。


「きみがエドゥアルト・デッケルか」

 

 僅かに掠れた声で女性がムルタトゥーリの本名を呼んだ。しなやかで艶を持つ、海漂林のような声色だった。やや鼻白みつつムルタトゥーリも着座する。

「如何にも、私がムルタトゥーリこと、文筆家エドゥアルト・デッケルである。オランダ政府の特使として『影絵の国』の査察に参った」

「御足労感謝する。私は……そうだな、カー・ヨナンと名乗っている」

 影絵芝居を名乗った女性はわずかに口許を吊り上げる。

「『影絵の国』の暫定的な統治者にして、マタラム王朝宰相直系の子孫だ。我が国の窮状を告発した勇気ある『マックス・ハーフェラール』の作者に拝謁叶い、光栄に思う」

 ヨナンの言語は流暢な英語だった。ムルタトゥーリは母語であるオランダ語に加え、簡単なインドネシア語や英語も扱えるが、カー・ヨナンもまた相当に高等な教育を受けているようだった。宰相の直系というのも、あながち間違いではないのかもしれない。 ……だからこそ。


「単刀直入に聞こう。きみはオランダ本国からの間諜だな」

 

 続くカー・ヨナンの言葉は、ムルタトゥーリにとって幾許かの驚きを伴っていた。あれほどの政治的対応が可能な人間ならば、ムルタトゥーリの「特使」という建前を尊重し、当たり障りのない会談に留めるかと考えていたのだが。

 だが、これは良い機会かも知れないともムルタトゥーリは思う。何せカー・ヨナンの正体や思惑は謎に包まれているのだ。こちらの手札を切らなければ、見えてくるものも見えてくるまい。

「『影絵の国』から見れば、そのような立場になることは否定しない。だが、人に阿片入りの煙草を勧めておいてなおかつ間諜呼ばわりというのは……これが蛮地の礼儀か? カー・ヨナン」

 ……先程の人力車の車夫はよく訓練されていたが、煙草の中に乾いた阿片の匂いが混ざっていた。インドネシアで阿片の積極的な売買がなされていたのは一八五四年の蘭印統治法以前であり、それよりも後の世代は親を骨抜きにした阿片の恐怖を身に染みて理解している。そもそも一般的な中毒者であれば人に渡さず自分で嗜むだろう。恐らくはヨナンが工作員に指示し、ムルタトゥーリに阿片を吸わせることで判断力の低下と中毒症状を招かせようとした。この先の会談で有利な結果を得るために。

は我々の国が押し付けたものだ。しかし、今ではもうきみたちのものだ」

 そう苦々しく言ったものの、ムルタトゥーリは実際のところそれを詰問する資格が自身にあるかを考えていた。

 過去は消えない。阿片はムルタトゥーリたちの暮らす国がバタヴィアに押し付けたものなのだ。今更文筆家一人がその犠牲になったところで、誰が何を悔やむというのだろう。ヨナンはその逡巡を透かすように、ムルタトゥーリを表情の見えない眼差しで見つめた。

「そう悪辣な物言いをしなくても構わない。きみが通り一遍の役人でないことは理解している」

 彼女は護衛から一冊の書冊を受け取り、ぱらぱらとページを捲る。

「『私はコーヒーの仲売人である』。この書き出しを今や世界中の知識階層が知っている」

「それは」

 ――『マックス・ハーフェラール』の序文。ジャワ島の腐敗した権力機構に、しがないコーヒーの仲売人マックスが闘争を挑む物語。


「……私の本を準備して、ご機嫌取りに熱心なことだな」

「機嫌も取るさ。エドゥアルト・デッケル……きみは官吏官の職を辞した後も、復権を目指すならいくらでも方法はあったはずだ。なぜ、わざわざバタヴィアの苦境を告発した? きみは……」

「耐えられなくなっただけだ」

 たまらず、ムルタトゥーリは丁字たばこに火を点けた。

 慰めのような百里香の甘い香気が咲き、換気扇へと昇っていく。


「私は極めて凡庸な人間だ。きみのように国を束ねることも、主人公マックスのように身一つで政府に立ち向かうことも叶わない。たまたま支配する側に立っているだけで、歴史という織物が進めば容赦なく古い糸として裁断される」

 窓の外には青空の下植民地時代に建造された大砲が広がっていた。往時はイギリスを撃退するために造られた砲が、今では自分たちの国に向きつつある。

「私が君たちの窮乏を訴えたのは義侠心からではない。ただ、人が人を踏みにじる社会は互いの立場を変えてこれからも続くだろう。私は切り捨てられる歴史の側に回るのが怖かっただけだ……」

「――小説には読者の数だけ真実が存在する」

 ムルタトゥーリの呻きに、ヨナンは鉄面皮のまま返す。

「きみのイデオロギーや感傷などに興味はない。私はきみの書物を読んで国民の置かれた惨状を知った。きみに阿片を吸わせようとしたのは……きみを保護するには、そちらの方が好都合だからだ」

「……私の保護? 話が見えないぞ」


 話の流れが妙な方向に向いて来たのを察し、ムルタトゥーリは思わず立ち上がった。懐の中のコルトSAAの残弾は六発。ヨナンを殺すつもりはないが、場合によっては手ひどい傷を負わせることになるかも知れない。

 ヨナンもまた立ち上がり、両の指をわずかに蠢かす奇妙な仕草を見せた。

「きみは先程『人が人を踏みにじる社会』と言ったな。流石の慧眼だ」

 護衛が窓際に近付き、鎧戸を閉めた。応接室の中にさっと影が広がる。


「ならば、社会を支配するのは人を超えた人であるべきだ。ムルタトゥーリ――きみは《人形》と呼ばれる存在を知っているか?」


 突然の問いと、護衛たちの奇妙な行動に、ムルタトゥーリは当惑する。

「……『影絵の国』が配備している新兵器のことか?」

「その理解は半分正しい。だが、《人形》を持っているのは我々『影絵の国』だけではない。《人形》を操る《人形遣い》は、常に歴史の影で力を振るってきた」


 ふいに、ムルタトゥーリの近くの空気が攪拌された。

 剃っていない髭が逆立つ。……いる。何かが、そばに。

 それらは足音を伴い、薄暗い応接室の中を規則正しく歩き回っている。

 まるで、インドネシアの伝統的な影絵芝居ワヤン・クリのように。


「一つ教えておこう。マタラム王国を滅ぼしたのは、オランダ本国の操る《人形遣い》だ」

「……馬鹿な。マタラム王国の反乱勢力が敗れたのは、部下の離反とコレラの流行が原因だろう……」

 ムルタトゥーリは髯をさすり呻いたが、背後で揺らめく気配が告げていた。

 《人形》は、。そしてカー・ヨナンもまた……《人形遣い》なのだ。


「ゲリラの主要な指導者を、ジャワ戦争の混乱に紛れてオランダの《人形遣い》が次々と暗殺した。死因を疫病に見せかけてだ」

 ムルタトゥーリはヨナンの言葉を否定することが出来なかった。コレラの症状の大半は脱水症状である。

 加えて、争いの中では満足な医療見識を持つ人材も存在しない。《人形》が人智を超えた力を扱うのならば、あるいは死因を偽装し、内部から反乱軍を崩壊させることも可能なのかもしれない。ムルタトゥーリの優れた想像力と見識が、事実の符合を注げていた。

 

そしてオランダ本国が、本当に《人形遣い》を保有しているのだとすれば。


「気付いたか。きみはこのタイミングで、『影絵の国』に送り込まれた……会談を設置すれば必ず首魁を誘き出せると踏んだのだろう。私たちはオランダ本国にとって殺すべき相手ということだ」

「くそっ。私を消す気か!」

 ムルタトゥーリは惧れを込めて薄暗い応接室の扉を振り返る。

 迂闊だった。アムステルダムの重商主義者は植民地政策に泥を塗ったムルタトゥーリを許容してなどいなかった。『マックス・ハーフェラール』を出版した彼は危険分子とみなされ、『影絵の国』独立の動乱に紛れてヨナンと共に処分されようとしているのだ。


「いつだ!? 奴らはいつ来る!? 鍵を閉めて、きみもその隙に脱出を――」

「――違うな。敵は既にここに来ている」

 ヨナンは静かに呟いた。

「鍵などに意味はない。バタヴィア市庁舎は、オランダきみたちの建造物だ」


 かちり、と鍵が回る音が応接室に響く。

 傷んだ糸は、歴史から切り捨てられるのみなのだ。

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