後編

 そして今――

 僕がこの桜の木の下にいるのは、この木は変わらないと信じていたからだろうか。


 見上げる桜。

 ひらりと頬に触れて落ちていった柔らかな花びら。


 ――変わってしまった。この木も。


 当たり前のように満開の花を咲かせて。


 絶え間なく落ちてくる花びらが、陽光を浴びて輝いている。

 僕はそこに、タカヤの目を思う。


 あれから四年。僕は結局大学には入れず、浪人生になった。それを二年。その後はフリーターだ。今は独り暮らしのアルバイター。未来に何を夢見るわけでもない、その日暮らしの毎日。


「よ」


 声がした。

 振り向くと、そこにラフな格好の青年がいた。


「タカヒロ……?」

「ああ」


 タカヒロは相変わらずのにっとした笑顔で返してくれた。


「やっぱお前が先に着いたかー」


 言いながら、タカヒロは目を細めてまぶしそうに桜を見上げる。花びらはタカヒロの上にも平等に舞い降りた。

 僕は肩をすくめた。


「……僕が来ない、っていうことは考えなかったのか」

「お前だから来ると思った」

「よく分からない理屈だな」

「お前は約束は破らないタチだったろ」


 昔のことを引き合いに出してくる。僕は少し沈黙してから、「昔のことだ」とつぶやいた。


「今こうしてここにいるじゃねえか」


 タカヒロは笑った。


「――三人揃わないことを知っていても」

「………」


 タカヤは――

 留学先のパリで、たった四年。

 本当に成功してしまった。

 ホープとして脚光を浴びて、僕らが桜を見上げている今も、世界のどこかで絵の仕事をしているはずだ。


「タカヤから、連絡来たか?」

「まさか。でも想像はつくから文句は言えねーだろ」


 言ったタカヒロは、僕を見た。


「それ以前にお前、俺が約束を覚えてたことに驚いてるんじゃねえの?」

「……かもしれない」


 正直に言うと、タカヒロは声を立てて笑った。

 そして――そっと桜の幹に手を当てて、


「……あのタカヤの、珍しい頼みだったから、な……」

「お前」


 僕は勇気を振り絞って訊いてみる。


「今何やってんの?――じゃないか、これから、何やんの?」

「ああ俺? まだ専門学生だよ」


 タカヒロの言葉に、僕はぽかんと口を開けた。確かタカヒロは、公立の大学に入学したはずなのに。

 そんな僕の疑問にはすぐ気づいたのだろう。


「大学四年目に入った時に思い切って切り替えた。介護福祉の――。大学で何となく取ってみただけの講義だったんだけどな。どうも、ハマったらしくて」

「介護福祉? 何でまた突然」

「……履修講座を選んでてその文字を見た時、急にお前を思い出したんだよ」


 僕は口をつぐむ。僕のことを思い出したなら、介護福祉に興味を持った理由は簡単だ。僕の母のことだろう。


「“未来なんかあるかどうか分からない”」


 タカヒロがつぶやいて、僕はぎくりと体を震わせた。


「お前の口癖だったよな」


 ゆっくりとタカヒロは僕を見る。


「俺はガキの頃は、単純にそれに賛同してた。でもな、少し大人に近づいて――改めて考えた時、思ったんだよ。お前は……ただ寂しかっただけなんじゃないかってな」

「僕は!」

「……別に否定することもねえだろ。親のいない子が親を求めるのは当たり前だ」


 タカヒロは穏やかに言った。


「お前が未来を見なくなった原因はどうしようもないけどよ、お前は時々お袋さんの話をする時、世話をする人間は大変なんだって言った。だから、俺は興味を持ったんだ」


 タカヒロは桜の花びらを一枚、拾い上げた。


「――小さな生命力でも」


 花びらに囁きかけるように。


「介護する人間がいれば、救われることもある」


 僕は片手で顔を覆った。

 僕の言葉が、タカヒロの人生を変えた。いや、タカヒロに用意されていた運命だったのだろうか。


 タカヒロは、僕の現状を聞こうとはしなかった。

 僕はそれが嬉しいようで……悲しいようで、身の置き所がなくなってせわしなく視線を動かした。


 と――


 ふと、桜の幹の裏側に、何か紙が貼り付けてあるのが見えた。


「何だ……?」


 僕はすぐに手を伸ばし、テープで幹に貼り付けてあっただけのそれをはずした。


「どうした?」


 タカヒロが僕の手元をのぞきこんでくる。


 僕は手を震わせていた。


 ――手の中にあるのは、スケッチブックのページ、二枚。


 一枚は、四年前のあの日――太陽を背にした冬の桜と、タカヒロと僕の絵だ。

 そしてもう一枚は――


「タカヤ……」


 タカヒロがつぶやいた。


 “タク”“タカヒロ”“タカヤ”


 それぞれ名前が書きこまれた、三人の「青年」の笑顔が、そこにはあった。

 高校生の三人ではない。成長した僕らの「似顔絵」。

 三人の、満面の笑顔。


 ――ああ――


 タカヤ。お前はやっぱり約束を破らなかった。


 桜の花びらが舞い降りてきて、似顔絵を飾る。淡いピンク色は、絵の中で弾ける僕らの笑顔を色づかせた。


「なあタク」


 タカヒロが僕を呼んだ。


「お前の笑顔が一番幸せそうじゃねーか。……きっとそれがタカヤの願いだったんだ」


 未来に。希望を。

 僕は震える声で、隣に立つ友に尋ねた。


「僕も……未来を見てもいいのか?」

「ったりめーだろ」

「僕に希望はあるのか?」

「お前次第」


 僕次第の、未来――


 桜の花びらが、僕の髪をかすめていく。「過去」となって舞い降りる花びら。

 僕は顔を上げた。桜を見上げた。変わることなどないと思っていた桜。


 だけど、なあ、タカヤ。

 僕も変わっていくんだな。


 過去を踏んで、過去と別れて未来へと進んでいくんだな。


 僕にもその道が残されているんだな。


 いつの間にか頬に熱い雫を流していた僕の肩を、タカヒロが抱いてくれた。

 過去と別れ、現在と共に生き、未来に夢を見る。


 “もう悲しいことは言わなくていいよ”


 その瞬間、タカヤの声が聞こえた気がした――



<終わり>

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花は色づく僕らの笑顔 瑞原チヒロ @chihiro_mizuxx

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