中編

 冬も近づいてきた頃、思いがけないことが起こった。

 タカヤが僕の教室までやってきたのだ。


「ねえ、休み時間悪いんだけど、今からちょっとついてきてくれない?」


 久しぶりに見るタカヤはスケッチブックを脇に持ち、眼鏡の奥の目を輝かせて、にこにこと笑っていた。

 僕の成績は相変わらずひどいもので、はっきり言って休み時間も休める余裕はない。

 だけど、今までの付き合いの中――他ならぬタカヤが誘ってきたことなど一度もなかった。


 だから、僕は了承した。


 タカヤについていくと、廊下の途中でタカヒロとも合流した。様子を見るに僕より先にタカヤに誘われて、おそらく僕と同じ理由でタカヤについていくことを決めたのだろう。


 タカヤについて、校舎の外へ出た。


 まだ真冬ではないけど、ひんやりとした空気が頬に痛い。

 こっちこっち、とタカヤが元気に走って先導していく。タカヒロが面白そうに笑って走ってついていく。僕は慌てて後を追う。いつもとは違う三人の図形。点と線。三角形にはならないもの。


 やがてたどりついたのは、この時期すっかり枯れ木になっている一本の桜の木だった。


「この学校、桜多いけど、今の時間帯はこの桜が一番綺麗だから――」


 綺麗?

 僕はその桜を見上げた。

 何の変哲もない、葉もなければもちろん蕾も花もない、寂しい木だ。

 綺麗だとは思わない。

 だけど、何だかその桜の木に自分の姿が重なって見えた。


「ねえ二人共。ちょっとその桜の下に立って、僕の絵のモデルになってくれる?」


 タカヤはにっこりとしながらそう言った。


 僕とタカヒロは目を見合わせた。

 タカヤは風景画専門で、人物画は描かないヤツだった。これも……変化なのか?


「いいぜ」


 とタカヒロが言った。「かっこつけてもいいのか?」


 タカヤが嬉しそうにうなずく。タカヒロは悪乗りして、桜にもたれかかり悪ぶった格好をする。


 僕は迷ったあげく、桜の幹にもたれながら座り込んだ。

 片足を曲げて抱きかかえる。何だか、心細かったから。


 タカヤは持っていたスケッチブックをめくり、さっそく鉛筆を走らせ始めた。


 ――逆光で、タカヤの顔がよく見えない。


 僕は想像する。

 タカヤの手で、未来の僕らの姿がスケッチブックに描かれるところを。

 タカヤには未来の僕らが視えていて、ヤツはそれをスケッチブックに描きとめているんだ。


 ――なんて。


 酔狂な話。馬鹿かな、僕は。


「――できた!」


 タカヤは最後にさらさらっとその絵にサインを入れて、絵を完成させた。

 見せろよ、とタカヒロがしびれを切らしたようにタカヤの方へと向かっていく。

 僕はなかなか動けなかった。

 そのスケッチブックに何が描かれているのか、確かめるのが怖かった。


 タカヒロが「すげー!」と素直に声を上げているのが聞こえる。


「マジで綺麗だな、この桜」

「でしょ?」


 ……桜?

 僕は顔を上げた。僕らの姿じゃなくて、桜?


 ようやく興味が頭をもたげてきて、僕は立ち上がった。ずっと座っていた反動でふらふらしながらも、二人に近づいていく。


 気づいたタカヒロが、「見ろよ!」と持っていたスケッチブックをこちらに向けた。

 そこに――


 太陽の光をバックにした、桜の木があった。


 枝々から差し込む光が絶妙だ。

 “この時間帯ならこの木が一番――”


 ……ああ、だからタカヤの顔が逆光で見えなかったんだな。

 まるで見当違いなことを思いながらも、改めて絵を眺める。


 格好つけて木にもたれかかっているタカヒロ。

 座り込んでいる僕。


 その姿はあまりにも対照的だった。タカヒロは自信に満ちていて、対する僕ときたらどうだ。片方だけとは言え足を抱えて、見るからに意気消沈としている。

 なのにタカヤもタカヒロも、そのことに何も思わないらしい。


「モデル、疲れたでしょ。二人共本当にありがとう」


 タカヤが頭を下げた。「よせよ」とタカヒロが肩を叩いた。


「俺たちの仲じゃねえか」


 僕たちの仲。――僕たちの仲。

 何でだろう、この違和感のある響きは。

 ため息をついたら、いつの間にか寒さが増していたらしい、息が白くなった。


「なに辛気臭い顔してんだ、お前は」


 とタカヒロに背中を叩かれた。

 僕は二人を前にして、必死の思いで背筋を伸ばす。なぜか、望んでもいないのに思考が切り替わった。絵を描き終わったということは、もうお役御免のはずだ。早く教室に戻ってノートを読み返さないと――


「僕さ」


 突然、タカヤが口を開いた。


「留学することにしたんだ」


 静かな静かな空気が流れた。

 しばらく口をつぐんだタカヒロが、やがて、


「……マジで?」


 とつぶやいた。


「うん。美術の勉強しに」

「何で突然そんな話になるんだ?」


 さすがの僕も思考が戻った。まじまじとタカヤの眼鏡顔を見つめる。

 タカヤはえへへと笑って、


「この間、オープンキャンパスに行ったら偶然プロの日本人風景画家さんと会ってさ。その人に絵を見てもらったら、留学してみたらって誘われた」


 嬉しそうだった。

 心底、嬉しそうな顔だった。

 人間、こんな顔が出来るのかと、僕はじわりと広がる感慨を覚えた。


「それにしたって、お前……」

「もちろん卒業してから行くよ」

「………」

「先生にはこれから話す。一番に二人に聞いてほしかったんだ」


 タカヤは穏やかな目で僕らを見る。

 一番に、僕らに?


 何で?


 思ってから、そう思った自分に疑問を持った。僕らは五年も一緒に遊び続けてきた友達じゃないか。


「いつか日本に帰ってきたら、個展とか開くつもり。そしたら二人共見に来てくれる?」

「そりゃとーぜん」


 タカヒロは笑顔になってばしばしとタカヤの背中を叩く。


「かっこいいぜお前。ちゃんと修行してこいよー?」

「へへっ。タカヒロの目は厳しそうだなあ」

「おう! どの作品にも難癖つけてやらあ」

「ひどいよそれー!」


 二人はひとしきり笑ってから、僕を見た。


「ねえ、見に来てくれるよね?」


 無垢な笑顔だった。絵に関することとなると、赤ん坊のように純粋な心を開く、目の前の、――……


 僕はその笑顔がまぶしくて、まぶしすぎて目をそらした。

 今タカヤは何を語った?

 他ならない、「未来」を語ったじゃないか。

 “未来なんて、あるかどうか分からない”ずっと僕が言い続けていた言葉。タカヒロもタカヤも否定しなかった言葉。


 ――もしかしてタカヤは――ひょっとするとタカヒロも、内心は僕とは違う思いでいたのだろうか。

 未来は確実にあると、思いながら二人は僕とともにいたのだろうか。


 僕の返事に待ちくたびれたのだろうか。タカヤが再び口を開いた。


「二人共、志望校四大だったよね」

「そーだな」


 タカヒロが僕の分まで含めてうなずいてくれた。

 タカヤは桜に近づいた。

 太陽の光は少しずれて、さっきの絵ほど美しくはなくなっている。


「――二人が大学卒業する春にさあ、もう一度三人でここに集まらない?」


 タカヒロが頭をかいた。


「……何言い出すんだ?」

「だってさ、バラバラになっちゃうけど――僕は、四年後の二人をもう一度この桜の下で描きたいよ。今度は花をつけたこの木の下で」


 タカヤが留学するのなら、もう高校卒業後に三人が集まるのは難しいだろう。

 それはタカヤの切なる願いだったのかもしれない。


 僕は桜を見上げる。

 桜は黙って、そこに立っているだけだ。しっかりと根を張って。動かないし揺るがない。


 変わらないものの象徴。


 僕は思わず声を上げた。


「もちろん!」


 突然の僕の声に、二人は驚いたようにこっちを見た。

 僕は自分の言葉に驚きながらも、何とか取り繕った。


「タカヤのためでもあるよな。お前、ちゃんと堂々と僕たちの前に出てこられるくらい立派になってこいよ?」


 タカヤは笑って、「四年くらいじゃ難しいよ」と言った。


「死ぬ気で頑張れ。命張って修行して世界的アーティストになって戻ってこい」


 タカヒロが真顔で言って、タカヤにスケッチブックで襲われた。

 タカヒロを襲いながら、タカヤはむすっとして口走った。


「命張って修行するのは当たり前! でも二人くらいは、普通の、絵が好きなだけの僕を迎えてよ!」

「………」


 悪い悪いとタカヒロは笑いながらスケッチブックの猛攻を避けている。

 そんな二人が、別次元にいる存在に思える。

 僕はただ、見つめるしかなかった。


 予鈴が鳴った。

 慌てて、僕らは校舎に向かって走り出した。


「タカヤ」


 下駄箱で人心地ついた後、僕はタカヤに問いかけた。


「お前にとって……『未来』ってなんだ?」


 タカヤは僕の顔を見て、にこりと笑った。


「希望だよ」


 未来。希望。形のないもの。

 僕には信じられなくて、もうそれ以上話すことはないと、タカヤに背を向けた。


*****



 卒業式の日が来た。

 僕は第一志望に落ちた。滑り止めにも落ちた。卒業式の後に、教師にすすめられたもう一個の試験がある。


 タカヒロは第一志望に無事受かったと、風の噂で聞いた。

 タカヤのことはけっこう噂になっていて、やっぱり夢じゃないんだなと僕は白昼夢を見ているような気分で思った。


 卒業式で、二人に会うことはなかった。二人はもしかしたら会っていたかもしれない。だけど僕は、二人に会いたいとは思わなかった。会わせる顔もなかった。


 ……死んでしまった母のことを、こんな時に思い出す。


 母は体が弱くて、僕を産んでからはずっと寝たきり生活で六年。祖父母が介護と僕の世話。父も介護に熱心だった。


 なぜ思い出したのだろう。

 この先父に迷惑をかけることを、うすうす分かっていたからだろうか。


 未来なんて、あるかどうか分からない。

 あったとしても、幸せかどうかなんて分からない……


 寒い冬の日。卒業式。

 僕は一人で、白い息を吐いていた。

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