本編 後編

 神社の奥は住居になっており、廊下を進むと、1部屋だけ、ふすまが開いていた。半分ほど開いた襖からは、やわらかな灯りがれる。


 その部屋の前に、女は立ち止まった。


「お連れしました……」


 部屋の中に向かって頭を下げ、次に和真を見る。


「どうぞ……」


 女にうながされ、和真は喉を鳴らした。狐憑きの娘。皆が、狐のような冷たい目をしているのだろう、と噂をしていた。別に恐ろしいとは思わないが、これから一生を共に過ごす相手が、どんな姿をしているのかが気になる。


 和真がゆっくりと、部屋の中へ足を踏み入れると、桜色の振袖が目に飛び込んできた。


「初めまして。——美桜と申します」


 正座をして畳に手をついていた少女は、顔を上げた。


 雪のように白い肌に、小さな紅い唇、琥珀色こはくいろの大きな瞳。噂とはかけ離れた、この世のものとは思えぬほど美しい娘だ。


「か、和真と、申しま、す……」


 和真は崩れるように、膝をついた。


 まるで生贄になったかのような気分でいたが、とんでもない。今までに見たことがないような、美しい娘の婿が自分で良いのかと、疑心ぎしんを抱いた。


「よろしく、お願いします……」


 そう言って頭を下げるのが精一杯だ。冷たい汗が、首筋を流れて行く。


「私が、恐ろしいですか?」


 可愛らしい声が聞こえて、和真が勢いよく顔を上げると、美桜は口元を手で隠して、くすくすと笑っている。その顔にはまだ、あどけなさが残っていた。


「いえ、そうじゃなくて。俺でいいのかな、と思って……」


「もちろんです。断られなくて、よかったです」


 美桜は目を細めて微笑んだ。


「そう、ですか……」


 緊張の糸が切れた和真は座ったまま脱力し、安堵あんどの吐息をついた。何とかやっていけそうだ。そう思った。


「大丈夫ですか?」


 美桜は心配そうな表情で顔を傾ける。


「あ、大丈夫です。何でもありません」


「それなら良いのですが。遅い時間なので、お疲れでしょう。ゆっくりとお休みください」


 美桜が言うと、藤色の着物を着た女に、奥の部屋へ案内された。




「はぁ。本当に、疲れた……」


 畳の上にかれた布団に寝転がると、すぐに睡魔が襲ってきた。目を閉じてうとうととしていると、数時間前の、湊介との会話がよみがえる。


『知らないぞ。そんなことを言ってると、本当に選ばれるからな』


 湊介に言われた時は、まさか本当に選ばれるとは思っていなかった。なぜ自分が選ばれたのかは分からないが、婿入りは、皆が言っているような、悪い話ではないように思う。


「狐憑きなんて、やっぱり、ただの噂話だよ……。美桜さんは、美人だし、良い子そうだったよ……」


 そう呟いて、意識を手放した。




 暗闇の中。夢現ゆめうつつに、何かがほおでているような気がした。滑らかな、髪の毛のような。しかし、髪の毛よりは軽い。大きな筆のような、ふわりとした感触だ。


 ——何だろう。


 次第に意識がはっきりとしてきた和真は、目を開いた。


 まだ朝にはなっていないようで、部屋の中は暗い。ぼんやりと天井を見ていると、小さな寝息が聞こえてきた。


 ふと、和真が横を向くと、隣にはもう1組布団が敷いてあり、小さな頭が見える。


 ——えっ?


 それはおそらく、美桜の頭なのだろうと思った。夫婦になるのだから、一緒の部屋で寝てもおかしくはないのかも知れないが、ほんの数分間、顔を合わせただけだ。驚いた和真は、完全に目が覚めてしまった。


 気持ちを落ち着けるために、静かにため息をつく。


 ——そういえば、さっき何かが頬を撫でたような気がしたのは、一体何だったんだろう。 


 部屋の中は暗くてはっきりとは見えないが、筆のようなものは、ないように思える。


 ——まぁ、掛け布団の角でも当たったんだろう。


 和真はそう思うことにした。




 神社に婿入りした和真の日常は、考えていたよりも慌ただしいものだった。


 朝起きるとすぐに、社殿しゃでん境内けいだいの掃除をして、朝の祈祷きとうの手伝いをする。それが終わると、様々な儀式を行う為の祝詞のりとや、神社のしきたりを学ぶ。そして夕方になれば、また祈祷の手伝いだ。毎日疲れて、早い時間に眠くなってしまう。


 それでも夜中になると、何度か目が覚める。


 寝ていると、大きな筆のようなものが、頬を撫でるのだ。しかし、目を開けてみても、顔の周りには何もない。初めは不思議に思っていたが、段々とそれは当たり前のことになり、気にならなくなった。


 そうして1年が過ぎた頃。


 優しく美しい美桜の支えがあったおかげで、和真は神社の仕事にも慣れてきた。そして、美桜に似た、可愛らしい娘が生まれた。子供の世話も加わり、前よりも忙しい日々が続いているが、和真は幸せだった。


 相変わらず、夜中になると目が覚めてしまうが、娘が生まれた頃から、1つだけ以前と変わったことがある。


 それは、以前よりも柔らかい毛が、頬を撫でるようになったことだ。筆のようなものの大きさは、小さくなったような気がする。


 頬を撫でるものが変わったことは不思議に思うが、ただそれだけのことなので、和真は目を開けることもしなかった。


 ——もう少し娘が大きくなったら、湊介にも会わせてやろう。


 そう思いながら、和真は眠りについた。


   ◇


「和真が婿に行って、もう1年か。今頃、どうしてるんだろうな」


 湊介は、神社がある霊山を見上げた。


 婿入りしたきり連絡が取れなくなってしまった和真を心配して、何度か霊山の麓まで足を運んだが、神社への道を見つけることはできなかった。


「最近、不思議に思っていることがあってさ。みんなが、お前のことを忘れていっているような気がするんだ。たった1年で、忘れるものかな……」


 そう呟いてみたが、答えが返ってくるはずもない。湊介の目の前には、生い茂る木々のせいで薄暗くなった山があるだけだ。


しばらくの間、山頂を見つめた後、湊介は車に乗り込んだ。




 

 古くから語り継がれている、『狐憑きの娘に婿入りする』という話には、若者たちが知らない続きがあった。


 婿入りした後、その男の姿を見たものは、誰1人、いないのだという——。

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狐憑きの嫁さま 碧絃(aoi) @aoi-neco

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