第5話 泡沫、空蝉

───────DAY 7。21:56。


 甲高い心電図計の音。どこか怯えたように会話をする声。ゆっくりと目を開けると、白い天井が広がっていた。

 身を起こすと同時に駆け寄ってくる、見知った顔。両親だった。そこからはもうてんてこ舞いの連続。

 身体の状態の説明などなど。でも俺はそんなことどうでもよかった。早く夏目に会いに行かないと。


 あと二週間、経過観察にと俺は入院し続けることが決まった。でも待っていられない。一秒でも早く。俺はその翌日、病室を抜け出した。

 市内の病院だったため、両親の運転する車で通ったこともあり家までの道は大体知っていた。住宅街を抜け、病院のスリッパを履いたままひたすら道の上を走り続ける。

 暑さに汗が迸り、経過時間とのギャップによる疲労が全身を押し潰すようだ。それでも俺は足を止めなかった。


 夏目に会いたい。その一心だった。とんだ軟弱だった俺の心を二度も入れ換えた恩人、ただ一人の愛する人。

 悲鳴を上げる脚にムチを打って坂を駆け、ようやく陽炎立ち込める屋敷の前にたどり着く。相変わらず人っ気はない。語りかけてくる声も寒気もない。

 玄関の扉を乱暴に押し開け、脇の部屋には目もくれず階段へ。彼女と最初に出会ったあの、明るい日が射すバルコニーへ。


「おかえり。」


 いた。振り返り、優しく笑いかける夏目。しかしその輪郭はぼやけ、元のように視認することができず、声もくぐもっている。

 でも確かに夏目だ。あの時、あの時の感覚と全く変わらない。風が吹き抜け汗まみれになった頬を撫でる。


「ふふっ、だめじゃん。病院抜け出して。」


「なんで....知ってんの...?」


「病衣、着たまんまだから。」


「あ、あぁ...そっか。」


「焦らなくても私は待ってたよ。」


 歩み寄り、ようやく満足に動かせるようになった腕を伸ばす。が、触れない。当惑し、何度やっても腕が空を切る。

 失念していた。姿を見ることはできても、俺は今肉体を取り戻した「人間」。幽霊の夏目に触れることはできない。

 そして、残ったその僅かな影にも綻びが生じ始めていることに気づく。俺の幽体が消えた時とは違う。徐々に虚空に溶けるように、どんどん透明になっていく。


「なんでッ、なんで...!!」

「夏目....!ダメだ!!」


「ごめん。人のことひっぱたいておいて、私の方がダメになっちゃってたみたい...」

「人間に戻れた小椋君...見れるなら、どうなってもいいって、考えてた...」


「待てッ、待って!!」


「さよなら。大好きだよ。」

「責任は...果たせたかな。」

「幸せになってね。うっかり自殺なんかしちゃわないくらいに!」


 そして、姿は完全に消え、空っぽになった胸中と屋敷には俺の泣き叫ぶ声だけが響く。

 俺はふと、バルコニーの端に残されていた、夏目のつけていた真っ赤なマフラーを見つけて拾い上げる。

 彼女はもういない。でも、彼女がここにいた証は残った。俺の手の中に残ってくれた。

 誰かに見つけて欲しかった。人のままの俺を見せた。全部叶えたよ。叶えてしまったよ。君に喜んで欲しくて。

 彼女はきっと、俺以外の誰かにとっては記憶の片隅、かつての淡い日々の一部となって残る存在だろう。ひと夏の噂として。


 たった一人でいい。互いに心を許し、全てを預けて寄りかかれる。そんな存在が欲しかった。そんな時間が欲しかった。

 君がくれた全てを、決して手放さない。君の分まで精一杯生きて、それからあの世か来世ででも出会って、またいっぱい話そう。

 きっと誰に話しても信じてもらえない。それでいい。君は俺の中で生きている。存在を肯定した、他の誰でもない。

 心配しないで。身体はなんともないから。でも、とても悲しいから。もう少しだけこうしててもいいかな。


「....っ」


 そんな、とある夏の日。流れた涙も汗も乾かしていく、暑い夏の日だった。

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【短編】うたかたうつせみ Imbécile アンベシル @Gloomy-Manther

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