命名

われもこう

命名


 夏の朝は清らか。空気も、花も、草も、木も、屋根も、日の光も、影も、なにもかもが今しがた生まれたばかりのような瑞々しさを放っていて、それら全てがしずかに光り輝きながら朝の世界を構築している。紫の葡萄の中から現れたような、美しい翡翠色の光景。ありのままの世界。わたしはこうした早朝の一端を眺めるたびに、どうして世界は朝のまま時を止めてくれないのだろうと考えてしまう。朝のままだったらどんなによいかと願ってしまう。若葉から滴る水でさえ神秘的に見え、より大きな生命がそこにあると感じさせる。ひとが初めて奇跡を目の当たりにしたような、静かな驚きの心を持って、わたしは広縁から朝を眺めていた。


 ガラス戸から離れる。振り返ると、両親はまだ眠っていた。お母さんは掛け布団を肩までかけて胎児のようにうずくまっている。お父さんは敷布団から足をはみ出し、布団を放り出して幸福そうに寝息を立てている。なんだか寒そうだな。わたしは父親の肩に布団を掛け直す。そうしてそうっと、両親を起こさないよう足を踏みだした。歩くたび足裏にい草がひっついて、ぺりりと音を立てたけれど、わたしはなんとか二人を起こさずに廊下に出ることに成功したのだった。


 花の名前が刻印されたキーホルダーと長細い鍵をぶらぶら下げながら、人気のない館内を歩く。裸足で履いたスリッパは冷たかった。それに合皮の質感がひどく気持ち悪い。わたしのために用意された子供用のスリッパは、サイズがぴったりだった。ただ、これは決して大人の善意ではないのだということを、わたしは予めはっきりと断っておきたい。おまえはなにも権利を持たないのだと。大人の管理下での生活を強いられた弱い生き物なのだと。すべて従っていればいいのだと。そう、いうならば世界からの圧力だった。それがこのちいさなスリッパに用意されたたった一つの意味だった。


 とはいっても、わたしは今ひとりきりで、両親から離れ、自由に館内を歩いている。さきほどまで客間から眺めていた早朝の中庭を思い浮かべる。あそこまでいくのに、どれくらい時間がかかるのだろう、とわたしは考えた。廊下の果てに、お手洗いがあったから、用を済まして、階段を降りる。冷たい手すりに頼りながら、木の階段を、一段一段、ぺったんぺったんと音を立てて下っていく。


 辿り着いた回り廊下は、翳りのある光に照らされていた。長々と続くガラス戸の向こうには、よく手入れされた中庭がある。そこに、景色の一部と見紛うほどさりげなく、女性の背中が映っているのを認めた。その人は剣山に挿された花のように、池のほとりで、しゅっと真っ直ぐ佇んでいる。ガラスを隔てたわたしに気づく様子はない。


 わたしは小さな歩幅で庭の出入り口まで進むと、重たいガラス戸を力いっぱい引いた。ガラガラと騒々しい音を立てて、朝の清らかな風が吹き込んでくる。冷たくて清々しい風のただなかで、スリッパを脱ぎ、踏石の上で下駄に履き替え、虫が入らないよう、戸を閉めた。そうして、踏石からぴょんと飛び降りる。


 ひとたび外へと出れば、体と心はあっという間に草木と水の匂いに包まれる。早朝特有の湿気が肌に纏わりついて、瞬く間に浴衣が濡れた気がした。玉砂利の上に立ち、わたしはお姉さんを探した。今度こそ、水のように景色に紛れてしまったのではないかと疑ったが、その人は相変わらず池のほとりにいた。少し遠くにいるその人に向かって、「おはよう」と声をかける。けれど相手は、花のようにものを言わない。


「お姉さん、おはよう」


 距離を詰めて、わたしはもう一度言った。

 するとその人は、些か驚いた顔つきで、こちらを振り返った。


「……えっと、おはよう?」


 声をかけられたお姉さんは、小さなわたしを、まるで小人を見るように見つめた。改めて正面から見ると、飾り気のない人である。後ろで髪をひとつに纏めて、藤紫色の作務衣を着ている。

 そのうちお姉さんはわたしから目線を離し、何かを探すように辺りを見渡しはじめた。


「…ひとり?」

「うん」

「お父さんとお母さんは?」

「寝てる」

「そう。あさが早いんだね」


 お姉さんの細められた目に、朝の水色の空が映り込む。笑っていると理解するのに、時間を要した。たぶん、見惚れていた。



 冷ややかな朝の微風を受けながら、わたしは、お姉さんとの空白の時間を立ったままの姿勢で過ごす。会話はなかったけれど、べつに、なんでもいいのに、とわたしは思った。足元に咲いている花の名前とか。夏の朝がこのうえなく気持ちいいことだとか。魚に生まれ変わるなら、淡水と海水どちらがいいかだとか。そんな、意味のない、他愛ない会話でよかった。とはいっても、わたしも自分から話をふることはなかった。お姉さんは、相変わらず池のとほりにいた。水面に視線を注いでいた。ラップにくるんだおむすびのかけら。鯉に米をあげているらしい。


「そろそろお部屋に戻りましょうか」


 わたしははっと顔をあげて、驚いて口をつぐみ、小さく首を振った。

 まさか、こんなにも早く追い返されるとは思っていなかったのだ。

 対するお姉さんは、鯉から顔をあげてわたしを見ると、苦々しく笑んだ。


「ご両親も心配されるはずよ」


 ね。そう言うと、その人はわたしのちいさな手を取って有無を言わさず歩き出す。だれも心配しないのに、という呟きをわたしはこくんと呑み込んだ。わたしの憂鬱を示すかのような、玉砂利を踏みしめる重々しい足音が朝の庭に吸収されていく。わたしは、自分がいましがた履いていたあの小さなスリッパを更に憎らしく思った。


 わたしがなにか反論する言葉を考えているうちに、あれよあれよと事は進む。お姉さんは下駄を脱ぎ、廊下でスリッパに履き替えていた。

 わたしは水のように澱みないお姉さんの動作を見上げて眺めていた。朗らかな顔つきで回廊から手招きされたわたしは、仕方なしに後へと続く。ゲームオーバーである。わたしは観念して、子どもという弱者のために用意された忌まわしいスリッパに両足をおさめた。


「名前はなんて言うの?」

「ひすず」

「ひすず?」

「お日様の日に、鈴だよ」

「可愛い名前だね」


 繋いだお姉さんの手は、冷たかった。

 階段の上から他のお客さんがおりてくる。わたしたちは一列になって進んでいく。


「お姉さんの名前は?」

「わたし?」

「うん」

「ないの」

「うそ。みんな名前があるんだよ」


 お手洗いを通り過ぎると、横並びになって歩く。お姉さんは、他のお客さんとすれ違うたびに挨拶を交わしていた。その横で、わたしはふくれていた。お姉さんは、わたしが子どもだからと、嘘をついている。あるいはきっと、名前を教えたくないのだ、そう思って。


「さっきの話、うそじゃないのよ」


 お姉さんは、隣で歩くわたしの怪訝そうな顔を認め苦笑した。「わたし、本当に名前がないの」


「ほんとうに?」

「ええ。ほんとう」


 窓の側を通る。

 ひかる。煌めく。通り過ぎるまでの間に、目を細める。そうして客間の続く廊下を進んでいく。


「ふうん」


 また窓がひかる。煌めく。わたしは足を止め、口を開いた。


「お姉さん、窓の外が見たい」


 見上げた壁には、よく晴れた夏の空が映っていた。

 お姉さんは、突拍子もないわたしのお願いに困惑したようだった。わずかな沈黙を挟んで、お姉さんがわたしの脇下に手を差し入れる。


「こう?」


 後ろから、わたしの体を持ち上げたお姉さんが尋ねてくる。わたしは下方の窓枠に両手をついた。


「うん。そう。……あった、見て!」


 わたしがピン、と指さしたのは、水色の空に黄色く揺蕩う朝陽だった。わたしは開錠して窓を開けた。廊下の空気と外気が混ざり合う。今度は腕をも伸ばして、それを指差した。


「あさひ」

「ほう」

「お姉さんの、名前だよ」


 お姉さんはしばらく黙ったままだった。さて、気に食わなかったのかなと思い、その人の顔をうかがうと、泣いているようだった。思いがけない反応に、わたしは口を閉ざす。黄色い朝陽に照らさられた一条の涙が、生まれたばかりの小川のように、きらりきらりと光りながら、流れていった。わたしはここに至って初めて、お姉さんの寂しさを知ったのだった。それは、名前がないと嘯くお姉さんの言葉を、心から信じた瞬間でもあった。



 「ありがとう」お姉さんは、わたしを地面に下ろすと、作務衣の裾で涙をこする。濡れた箇所が、深く色づく。「不便だったからさ……」お姉さんは、なんだか見当違いな感想を口走った。わたしは言葉を失ったままだったけれど、なんだか突然、自分の行為が恥ずかしくなってきて、茶化すように口を開いた。


「だとおもった。今日から沢山、名前を呼んでもらってね」


 あさひお姉ちゃん。




 石楠花という部屋の前で、あさひちゃんと別れると、わたしはドアの前で一度、深呼吸をした。

 鍵を開けて中に入る。

 スリッパを脱ぎ、襖を開くと、お母さんとお父さんはまだ眠っていた。

 なんてぐうたらなんだ……。

 心の中で悪態をつきながら、お茶を淹れて、窓辺へ行く。すると、寝ていたはずの母がはっきり口を開いた。


「お母さんにも頂戴」

「……」

「どこか行ってたの?」

「ちょっとトイレに」


 随分、長いトイレねえ。髪を掻き上げながら、お母さんが身を起こす。わたしはも一つお茶を淹れて、丸テーブルに置いた。お母さんは、はだけた浴衣の帯を一度解いて、てきぱき直すと、広縁に来て椅子に座った。


「ひすず。お母さんね」

「うん」

「離婚しようと思うの」

「りこん?」

「ええ。お父さんと離れ離れで暮らすってことよ」


 お茶を啜る。

 階下で、ガラス戸を引く音がした。だれかが、中庭に入ったのだろう。ガラスの向こうから、微かに下駄の音がする。


 お母さんのお茶が空っぽになった頃、どこからか音楽が流れ出した。高音と低音の二重奏のようだった。

 そういえばと、ロビーの景色を思い出す。赤い毛氈の上に、お箏が二面、並んでいた。


「お父さん、起こそっか」

「うん」


 わたしはお母さんの目の前から離れ、父の布団へと向かう。肩を揺すって声をかけると、厚い目蓋がうっすらと開かれる。


「…今、何時?」

「七時過ぎだよ。ご飯、いこ」


 お父さんはよろよろ立ち上がったあと、簡単に身支度をした。わたしたちは三人揃って、客室を後にする。わたしは襖を閉める際に、ちらりと窓を伺い見た。


(おまえに権利はないのだ)


 光るガラス。その向こうで、ゆっくりと昼に近づく朝。かわらないものはない。なにもかも。


「ひすず」


 名前を呼ばれ、瞬きをする。

 お父さんとお母さんがいた。


「突っ立ってないで」

 

 わたしに声をかけると、二人は背を向けて歩き出す。わたしはその背中に続く。

 建物と建物の隙間を縫って、音楽が流れている。心の底のほうを謐かに流れていくその旋律を、わたしは耳を澄まして聞いているのだった。

 

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