第8話


 女は老女の席の前までゆっくり動くと、そのやわらかな声が老女にはっきり聞き届けられるよう腰をかがめ、顔を寄せた。

「では私にも話してみませんか、私を家族だと思って。そう家族なんです私たちはみんな、だからどうぞなんでも私に話してみてください、そのさきにきっと幸福への道がひらけるはずですよ、光あふれる幸福への道が」

 女が話すにつれ老女は表情をあかるくし、理解者を得たとでもいう風情でなんどもうなずいた。息子はとなりでハンカチを用意して母を見守っていたのが、どうやら涙は止まったようだと見て胸ポケットのうちにそれを戻した。となりの男のようすを窺ってみれば、男は足下にアリが群がるのを無心に見ていて、女のことは意識から消えているように観じられた。

 アリはベンチのうしろの方からひとすじの黒い線をつくって、男のスニーカーのあたりで列を乱していた。かれらの目あてはどうやらだれかが落としてしまってそのまま放置された一片ひとかけのドーナツであるらしく、その一片は巣で待つ同胞たちにはたいしたごちそうになるだろうと思われた。それにしても毎回かれらはどういう仕組みで的確に獲物の在り処を嗅ぎ当てるのだろうと菊田はふしぎに思った。

「ロクイドリなんです」と老女はいった。

「ロカイダル」と菊田が訂正した。

「ロクイドリを、あたしが殺してしまったのがいけないんです」

「それはまだわからないよ母さん、なんせぼくらはロカイダルがなんなのかさえよく知らないんだから」

「ロクイドリなんですか? それともロカイダル?」

「ロカイダルだっ」と男が叫んだ。その声は裏返って、両生類がつぶされるときの断末魔の叫びのようだと菊田は思った。

「さっきから聞いてたらなんですあんたたちはっ、名前はまちがうわ殺しといてすっとぼけるわ、あげくになんなのか知らないとか話し合いましょうとか、あの子の尊厳を蹂みにじるのもいい加減にしてくれっ、もうたくさんだ」

 早口にまくしたてながら男は立ちあがり、女に一歩つめよったが、女はおどかされるふうでもなく、首をかしげたおやかな笑みをうかべた。その笑顔を男は嘲笑と受けとったのか、さらに一歩出て、女とほとんど触れ合うほどの距離までちかづいた。老女と息子は呆然と見上げて男の表情をうかがい、菊田は反射的にうしろから男の肘を押さえた。

 ベンチから腰をなかば上げた菊田を男は振りかえって見たが、その表情からは感情が消え失せていた。

「なんです? ぼくをどうにかするつもりですか? ロカイダルを殺しただけでは飽き足りず? まったく見下げたひとだな、いや、あなたみたいなのがのうのうと生きていられるとはこの社会がそもそも見下げはてた状態なんだ、あああぼくは生まれてくる世をまちがえた」

 男の目は菊田を見ていなかった。蝉がひっきりなしに鳴く木の下で、男は肩にかけていた鞄に右手をのろのろと差し入れた。やがてまた鞄から出てきたその右手には、細身の包丁が握られていた。

 女も老女も、息子もそれを目にしたが、朝の空気と包丁とがあまりにそぐわなかったためか、その光景になんの意味も見いだせないようだった。菊田もまた、肘を押さえていた手を離したものの、次にいかなる行動をとろうか考えもつかなかった。

 男の唇はまだ動いてなにか言葉を発していたが、あまりにちいさな声だったのでだれも聞きとれなかった。いっしゅん間をおいて男は菊田の方へとにじり寄り、ごく自然なしぐさで腹に包丁を突きたてた。包丁はシャツを突き通すときやわらかな抵抗にあったあと、意外なほど滑らかにすうっと肉の奥まで通った。男の顔が菊田の耳もとまで寄り、男のしゃべる声が聞こえた。

「ぼくはこわくないですよ、なんにもこわくない」

 電車のホームに入ってくるらしい音がいっしゅん男の言葉を邪魔したあと、すぐにまた声が耳に届いた。

「こんな世に生まれてきたのがまちがいだったんだ、ぼくはもう一度生まれなおしてこんどこそロカイダルと幸せになるんだ」

 痛みというより熱を菊田は感じたが、最初からこうしておけば話は早かったのだと、いまになって最善の解決策を見いだしたような気がした。ホームがしずかになるとまた蝉の声が耳から頭蓋骨のなかに入って、溶けおちそうな脳髄をひっかきまわした。例の同僚の難詰に論駁する文章がおどろくほどすらすらと生成され、頭のなかで踊った。菊田はうっとり目をとじた。


 チアガールがふたり踊っていた。見おぼえのある、菊田の出た高校のユニフォーム姿で。むろん幻だ。菊田は目をひらいて、男の唇がまだ動いているのを見た。男の言葉はたしかに聞きとれるのにけっきょく彼がなにを言いたいのかまるでわからなかった。




(了)


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ロカイダル 久里 琳 @KRN4

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