第7話


 このまま四人でどこまで話しつづけたところでなにひとつ解決することなどないように思われた。そもそもそのような期待をなぜわずかなりとも抱いたのかいまとなっては謎というほかなく、数分まえの自らの不明を菊田は呪いたくもなるのだった。

 改札の向こうでは満員電車の旅に挑もうとする人びとが、旺盛な活動意欲を奮いたたせているのが見えた。菊田はため息をついて改札からは反対の側へと首をめぐらせた。

 視線をやった先、人びとの流れてくる方にはバス停があって、今しも到着したバスからまた二十人か三十人ばかりの人が吐き出されているのだが、そこに三つならんでいるベンチにはだれも座っておらず、果たしてそこに人が座っているのをいままで見たことがあったろうかとうたがわしくさえ思えるのだった。

 ところがバスから降り改札へと向かってくる人波がひととおり通りすぎたあとよく見れば、ベンチのかたわらに若い女が立って、たしかに彼女はこちらを見ているようだった。

 彼女がいつから菊田たちを見ていたのか、むろん菊田にはわからなかった。白っぽいワンピースを着てこの夏の朝にわざわざ日なたに立っているとはいかにも場違いで、のあたりにしているにもかかわらずそれが実在するものと、菊田がにわかに信じられなかったのもむりはなかった。

 亡くなった亭主の思い出から子育ての苦労へ話を転じていた老女も彼女に気づいたらしく、ごく自然なしぐさで会釈したのだが、その間も口をとじることはなかった。すると老女の会釈に女は手を振ってかえした。そこでようやく老女は話すのをやめ、息子の手をひき注意を促すとだまって女をゆび指した。息子は女を一瞥したあと、覚えがないのか目をすがめながら首をかしげた。息子にかまわず老女は女の方へと歩いていった。

 あわてて息子は老女のあとを追ったのだが、菊田もつられてそのあとにつづき、さらにはロカイダルを伴侶と主張している例の男までもがかれらのうしろからいてきた。

 そのとき初めて気づいたのだが男の歩き方は独特で、右脚を傷めているかあるいはもうずっと長く不具であるのかびっこを引くように歩くのだった。

 菊田たちがベンチの前に着くと、ちょうどまた一台バスが到着して、変りばえのしない乗客たちをつぎつぎと吐き出した。彼らは一様に菊田を一瞥し、すぐ目を逸らして改札へと向かうのだったが、改札に向かう者だけが価値ある者で、ベンチの前に佇立する菊田はかれらから一段下の存在と見られているように感じた。またしても彼は大声で弁明したい誘惑に駆られたが、かろうじて自らを抑えた。

 女が目でベンチを示すと老女と息子はそのベンチに並んで座り、男の方は隣のベンチに腰をおろした。男の座ったベンチは、ひとりか、詰めればまだふたりは座れるだけのスペースが残っており菊田もそこへ座るのが自然に思われたのだが、かれら三人のつくった流れに従うのがいかにも癪で、菊田は女に話しかけることでせめて流れを断ち切ろうとした。

「こちらのお婆さんのご親戚ですか? それともご近所の?」

「いえ」女はいずれにも首をよこにふって、「ちがいます。たまたま目が合ったから手をふっただけですよ」とはきはきとした声でいった。

「でもこれもご縁です。お困りごとがあるならうかがいましょう」

 その声も所作もじつに爽やかで菊田は感心したのだったが、いかんせん状況が状況だけに、気分朗らかというわけにはいかなかった。むしろこの女までもが敵にまわるか、あるいは敵とは言えぬまでも菊田が会社へ向かう足を引きとめるしがらみのひとつになるのではなかろうかという不吉な予感が、彼の憂鬱を倍加させるのだった。

「困りごとなど私にありはしません。ただ私ははやくこのひとたちと別れて、電車にのらなきゃいけない、ただそれだけです」

 女は寸分の隙もない爽やかな笑顔をつくった。

「それがお困りごとなんですね。ではあなたは?」とつぎはとなりの男に目を向けいった。「あなたの困りごとを教えてくださいな」

「きみになにかができるとは思わない」男はやっと聞きとれるぐらいの小声でいった。「いや、だれにもなにもできやしない。ロカイダルを喪ったぼくの悲しみがどれだけ深くて深くて深いか、きみには想像もつかないしかるがるしく想像してほしくもないね。それでもなにか自分にできることがあるなぞときみが思っているとしたら、傲慢以外のなにものでもない……まったく傲慢で、しかも失礼だ」

 男の口調は早口で、女に聞かせるつもりがあるかどうかさえも怪しかった。口走るあいだ、一度として女の方へ視線を向けることはなかった。その態度こそ失礼というべきで、女をとるに足らないものと見下しているのが明らかなのだが、女の方では特に気に障ったふうもなくゆったりとした口ぶりでまたいうのだった。

「だとしても、なにか話してみませんか。もしかしたらなにか解決の緒口いとぐちが見つかるかもしれませんしね」

「あなたもそう思われる?」と老女が応じた。「いま思いだしたの、うちの亭主がね、いえもうずいぶん以前に亡くなってるんだけどあれがよくいってたわ、家族なんだからなんでも話せって。あのひとのいうことって、いまになって心に響くの……むかしは耳に逆らうような気がしたものだけどねえ」

 そういってまた涙ぐむのを、息子がよこから支えた。ベンチは老女のすわるところにだけかろうじて木陰ができているのは幸いなのだが、陽光は防がれるかわりに枝という枝から蝉の声がうるさく降りそそぐのだった。


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