第6話
「ところでずっと気になっていたんですけれど、ロクイドリというのはどんな子なんでしょうか、いえね、こんなこと訊くのは滑稽で、それ以上に失礼なのかもしれませんけれど」
老女が上品に首をかしげると、息子はまた身をかがめて老女の耳もとまで口を近寄せた。
「なんだって母さんそんなだいじなことを忘れてしまうんだよ、ああやっぱり母さんは外に出ちゃいけなかったんだ」それから顔を上げていった。「まったく母が失礼をしてすみません、なにしろこのとおり、頭が弱っているものですから」
謝罪の言葉を発しながら息子の声はだんだんに傲然となっていき、その陰で老女はますますちいさくなった。蝉の声がひっきりなしに聞こえて、ただ、ときどき電車の駅に入る轟音がそれをかき消した。首筋を流れおちる汗はシャツを背中に貼りつかせた。菊田は身ぶるいしてシャツと肌とをひき離した。
「ごめんなさいねえ、あたしがこんなだからあなたのたいせつなロクイドリを」とまた老女が頭を下げた。
「いえ、ちがうのです」と菊田は手のひらをちいさく左右に振った。「ロカイダルはあの
そういって向こうの男を指したのはおそらく、老女の罪の意識をやわらげようと気づかったのではなく自身に罪はないとあらためて主張するためだったが、どのみち菊田は自覚していなかった。
ゆびを指したさきではさっきの男が、呪うような目で菊田をにらんでいた。だがそれだけのことで、こちらへ近づいてくる気配はまったくなかった。ならば放っておいて、電車に乗ってしまえばそれで済んだのかもしれなかったが、菊田はあえて彼の方へと戻ることにした。老女とその息子は顔を見合わせ、菊田のあとを追った。
駅舎の影から出た三人の顔を陽がまともに照らした。男が口をひらくよりさきに、男ではなく老女に言い聞かせるように菊田はいった。
「ロカイダルといって、なんのことだか私にはわからないんですよ、じつのところ。でも彼に聞いたらわかるかもしれませんから、試してみてはいかがです?」
「まあ……ではあなた、ちょっと教えてもらえませんか、すみませんけれど」
男はいっしゅん意表をつかれた顔をしたが、すぐ立ち直ると、早口で老女に説明しはじめた。
「ロカイダルは……ロカイダルはぼくのたいせつな伴侶だったのです。夜いつのまにかベッドにもぐりこんできて、朝目覚めると、ぼくのとなりでまるくなっているのをよく見つけたものでした。あの子のつめたい舌がぼくの鼻をなでるもんだから、日が昇るまえに目が覚めてしまうこともしばしばでしたが、いくら叱ったってあの子がその癖をあらためることはありませんでした。ああ、こんなことになるとわかっていたなら! もっとあの子にやさしく接していればよかった。ぼくは悔やんでも悔やみきれない」
男は額に手をあてて、目をつむった。その顔を老女は下から覗きこんで、のんびりといった。
「お気の毒ねえ、ほんとにお気の毒だわ……いえあたしもね、亭主が亡くなったときには思ったもんですよ、どうせ死ぬんだったらいくら体にわるくったって、あのひとの好きなものをたらふく食べさせてあげればよかったって」
「あれは仕方ないよ母さん、高血圧だってのに父さんは揚げ物ばかり食べたがるんだから」
「でもぼくはこう思うようにしているのです、あの子は幸せだったんだと。そうなんです、あの子は幸せだったにちがいない、ぼくはあの子を猛烈に愛したし、あの子も負けず劣らずぼくを愛して、愛して、ああ、なのにどうして、あの子は死ななければならなかったんだろう。もっとずっとぼくらは幸せに暮らせたはずだのに」
夏の太陽がまともに額を灼くのがとりわけ菊田を苦しめた。蝉は一匹が鳴きやんだと思えばべつの蝉がまた鳴き出すというさまで、いつまでも鳴き声の途切れることがなかった。男はだれとも目を合わさないまま話をつづけた。
「好物を買ってかえったときは、袋から取りだすまえから、あの子は期待でからだじゅうをふるわせたものです。肉が好きなんですあの子は、もちろん安物ですがね、それでもそうしょっちゅうというわけにはいきませんでしたよ。ぼくの稼ぎじゃ仕方ないんです、それがかわいそうでかわいそうで、でもだからこそたまに肉を買ってかえったときのあの子のよろこびようときたら! ええ、匂いでわかるんですよ、賢い子でしてね、ぼくの話す言葉をさえ理解したんですから」
「うちのひともお肉は好きだったのよ、とんかつやらステーキやらね、ソースたっぷりつけて……ほんとにもっと食べさせてあげるんだったわ」
老女が涙ぐむのをすかさず息子がハンカチで拭ってやった。男は話すのをとちゅうで止め、天を仰いで太陽をにらむのだが、老女の涙につられたのかというとそこははっきりしなかった。
その間も電車が何本も出ていくのが、遠い音でわかった。めまいがするのを、菊田は踏みとどまって堪えた。日常生活も同じようにとおい彼岸に去ってもう手に触れられなくなったような、メランコリックな喪失感が彼を襲った。
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