闇夜。廻り道にヒトリ捕まった

文月ヒロ

闇夜。廻り道にヒトリ捕まった

「そういえば。この道……んですよ」


 残業帰りの道すがら、俺の隣で、後輩の久瑠間くるまが含みのある声で言った。


「出るって、久瑠間。何がだ?」


「幽霊ですよ、幽霊」


「……全然面白くないぞ、その冗談」


「違いますって。そういう噂があるんです」


 訝し気な視線を向けるも、そう久瑠間に言葉を返された。

 ジョークみたいなもんじゃないか、とは敢えて言わないでおく。


「聞いた話ですよ?こういう風に歩いている時、出るんですって。いや、出るっていうのはちょっと違うんですけど」


「まだ続けるのか。……ったく、一体何がどう違うんだ」


「いるんです、そこに。気付いていないだけで、もう近くにいるらしいんです。で、それを見た人は突然消えるんだとか」


「何か、急に背中の方が落ち着かなくなって来たな」


 首を回して周囲を注意深く見るが、瞳に何か映るわけじゃない。

 ただ、不安は拭えなかった。


 いい歳して情けないけれど、俺はこういう話が苦手なのだ。

 久瑠間とはそれほど関わりが深くない。

 今日はたまたま帰宅時間が重なって、同じ道を歩いているに過ぎない。


 しかし参った、彼はどうやらオカルトの類が好きそうなのである。


 嫌だな。それでもし本当に出るものが出たりなんかしたら……。

 いないよな?






「もういますよ。――ほら、後ろとか」


「!?」


 思わずバッと、後ろを勢いよく振り向いてしまった。


「はは、冗談です」


「や、やめろよ。一瞬、本当に心臓が止まったかと思った」


 ホッと溜息をついて胸を撫で下ろす。

 まだ若いとはいえ、四十を手前にしたオッサンにはドッキリなんて毒でしかない。

 最近じゃ、血圧まで気になり始めているし。


 また心配になって、俺は背後へ片方の足先を半歩ほど出すと、住宅街の奥まで伸びる暗闇をじっと睨んだ。


 当然、月明りもない状態で、ほとんど何も見えやしないけれど。

 それでも俺の目が確認した限りだと、そこに何かがいるようには見えなかった。


 そりゃあ、相手は幽霊で俺は人間。

 得体の知れない何かと、大方底の知れている中年目前の人間だ。

 目に見えるものだけで判断するなんてきっと馬鹿らしい。


 そもそも、あるかどうかも分からない存在に怯えること自体、はたから見れば心底ばかばかしいのかもしれないが。


 だとしても、自分の中でその曖昧なものが徐々に徐々に存在感を増していて……。

 感じるのだ、粘り気のある視線のようなものを。

 何か、とても恐ろしい気配のようなものを。

 どこかにそれがいる気がしてならない。


 だから、この瞳に映る退屈な光景だけが、俺の心を幾ばくか落ち着かせてくれた。


「ほ、ほら、馬鹿なことやってないで行くぞ。終電に遅れる」


 やはり俺の気の所為なのかもしれない。

 後輩の話を聞いて、それできっと怖がり過ぎているんだろう。

 不安がる心にそう言い聞かせて再び歩き始めた。


「………………」


 一歩一歩が、妙に重い。

 いや、というよりは俺の焦りが先行するあまり肉体を離れて、体を無理やりに引っ張っている感覚だ。


 それこそ幽霊のように。


 早く。できるだけ早く、人通りのある場所に出たい。

 夜更けに人なんてそう多くはいないだろうが、こんな湿った場所よりかはマシだろう。


 何にしても、せめてもう少し明かりだとか喧噪だとか、そういった要素が欲しい。


「そういやぁ。久留間は電車、どっちの方面だっけ」


 嫌な空気を変えようと、俺はとりあえず頭に浮かんだ話題を振った。

 気分が紛れれば、話の内容なんて何でもよかった。


 けれど、久瑠間からの返答はなかった。


「久留間?」


 もう一度呼びかけても結果は変わらなかった。


 少しだけ心がざわついたが、背後に足音が一つある。

 どうせ、先程の続きで俺を驚かそうとしているのだろうが、流石の俺もこれには気付く。


「何だよ、怖がらせようったってそうは」















 が、何故か――姿


















「……ぇ?」


 呆然としたまま、吐息に混じって小さく声が出た。

 そうして、頬の強張りがじわじわと顔全体に広がっていく。


 引き結ばれたままの唇が言う事を聞かず、もごもごとしか動かない。


「お、おい……冗談、は…………」


 程々にしろよ久留間。


 そう言い切るまでは、口が振り絞った勇気が持たなかった。

 不安に突き動かされるように、俺はそろそろと、消えた後輩の影を探し始めた。


 ――どこか。どこかの物陰にでも隠れているのだ、どうせ。

 そう思いたいけれど、近くに隠れられるような場所なんてない。

 左右には背の高い塀だけ。


 じゃあ一体、直前まで聞こえていたあの足音は?


 ――ま、まさか……ッ。


 本物の幽霊を、久留間が見た?

 そんな考えが頭を過った瞬間、冷や汗が体中から噴き出して来た。

 手足の指先に上手く力が入らない。


 しかし、気付いた時には走り出していた。


「久留間!おーい、久留間ぁッ」


 無我夢中だった。

 情けないが、一人でいるのが怖かった。

 そして、久留間を見つけて、これが何か悪い冗談なのだと早く証明したかった。


 正しいフォームも何もない、無様な走りだ。

 ペース配分さえ考えていなかった。


 次第に息が切れてきて、空気を取り込むたび肺がズキズキと痛みを訴える上に、足も悲鳴を上げ始める。

 脇腹まで痛くなってきやがった。


 ――くそ……ッ、クソ……ッ、クソ……ッッ!


 それとは裏腹に、久瑠間の姿は一向に見つからない。

 しまいには、足が限界になってもつれ、派手にこけた。


 痛い。転倒もだが、それ以上に走り過ぎて心臓と肺が痛い。苦しいっ。

 それでも、時間が経てばそれも徐々に治まってくる。


「あれ、ここ……?」


 やっと少し落ち着いて、上体を起こし周りを見ると、先程まで自分がいた場所だった。

 知らない間にこの辺りを一周してしまったのだろうか。


「久瑠、間。んのッ、どこだ」


 地面に打ち付けた膝や肘の疼痛を我慢しつつ起き上がり、俺はよたよたと再び足を進めた。

 しかし、


「あ?……何で、また…………?」


 いつの間にか、元居た場所に戻って来てしまっていた。

 おかしい、道を真っ直ぐ歩いていたはずだぞ。

 どうしてこんな所に?


「クソッ、薄気味ワリぃ。何なんだホントに」


 不可解な事態の連続で、俺は苛立った。

 けれど、悪態をついたところで状況は好転しない。


 それどころか――


「……さっき、俺。いや」


 あり得ない。

 例の場所は先程通ったはずだ。あれからまだ一分も経っていない。


 


 左右前後を気にしながら、早足で前に進んだ。

 何も変なものは瞳に映っていない。見えていないはずだ。


 だが、


「どうなってんだよ、ッたく」


 同じ場所に戻って来る間隔が、徐々に狭まって来ている。

 もしかしたら歩くのが早いからかと思って速度を緩めてみたが、駄目だ。

 同じ景色が直ぐに現われやがる。


 走っても、


「またッ」


 別の曲がり角を次々に曲がって出鱈目でたらめに動いても、


「また……ッ」


 どうやってもこの空間から抜け出せない。


「何で、だよッ」


 訳が分からない。どうしてこんなことになったんだ。

 俺は後輩を探していただけだってのにッ。


 心なしか、先程よりも周りが静かに感じる。

 周囲を包んでいた夜の闇も、深みを増している。

 それに少し肌寒い。それこそ、気の所為なのかもしれないが。


 ……とにかく、進まなくてはいけない。

 少なくともここから離れないと不味い。



 絶対に抜け出してやる。

 絶対だ。絶対俺は、俺は、俺はッ。

 俺は――





「…………………………嘘だろ?」





 俺は、その場に立ち尽くしてしまった。


 例の地点から、きっと十メートルも歩いていない距離だった。

 そこから一歩踏み出すと、数秒前に通った場所の景色が、俺の前で静かに待ち構えていた。


「は、はは」


 乾いた笑いと共に、立ち続ける気力が失せ、その場に力なく膝をついた。手を着いた。

 眼前の光景が、俺を嘲笑っているようにさえ感じる。

 ここまで追い込まれれば、もう認めるしかない。

 ――俺は、この小さな空間に閉じ込められたのだ。


 しかし、近くにいたはずの後輩の姿は見当たらない。


「……後輩、名前」


 こんな時に、探していたはずの後輩の名前をド忘れするとは。

 疲れているのか、顔も思い出せない。

 何だっけ。

 えっと。女の、結構可愛い感じの、そう、


灰米はいごめだ。――??」


 おかしい。


 さっきまで一緒にいたのは男じゃないか。

 名前だって灰米なんかじゃなかった。

 久瑠間。そう、俺の隣にいたアイツは久瑠間だった。


 でも、俺の後輩は確かに灰米っていう名前の女性で……。


「――ッ!ま、まてよ」


 分かりたくない、理解などするべきではない。

 考えるな、これ以上は何も。


「まて、よ」


 それを認めなければ、現実にはならないんだ。

 きっとそうなんだ。そのはずなんだッ。


 だから、それを口に出して、もしうっかり心が認めてしまったら駄目なんだ。


 認めるな、分かるな、知ろうとするな、理解なんてやめちまえ!

 けど、でも、じゃあ……








「――?」



 顔が一瞬にして蒼褪めていくのが自分でも分かった。


 ――あぁ、認めちまった……。


 最悪だ。だってそうだろ。

 俺はずっと、見ず知らずの人間を知り合いだと思って探してたんだぞ。

 そいつを探している内に、こうなったんだぞ?


 じゃあ。

 じゃあ、じゃあ……。

 じゃあ、幽霊ってのは多分――。



























 ◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆





「そういえば。この道……出るらしいんですよ、灰米さん」


「ん?出るって、何がですか?」


「幽霊ですよ、幽霊」


「ふふっ。久瑠間先輩、意外と面白いこと言うんですね」


「違いますよ、そういう噂があるんです。



 ――、ね?」











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