『お安』

鮎川 雅

~残酷劇の夜~

 日本橋随一の芸妓と言われていたあたしが、あのお方に……陸軍少将の種田政明様に落籍(ひか)されたのは明治の九年、あたしが二十になるかならないかの頃でした。

 種田様は、とにかく色町遊びが好きで、日本橋界隈では、〝花の左門様〟なんてあだ名されてましたよ。

 その左門様が、九州は熊本にある陸軍熊本鎮台の司令官になったっていうもんですから、あたしは、左門様の後を追って、生まれ育った江戸を……東京を離れなくちゃならなくなりました。それも、馬関(下関)を越えて肥後熊本くんだりまで。

 そんな熊本は、やっぱり田舎でした。熊本城下五十万石だなんて抜かしても、すべては昔の話。華の東京と比べりゃ、月とすっぽんでした。

 そんな中で、あたしは一人ぼっちでした。友だちもいない。知り合いもいない。ただ、昼は左門様の留守を預かって、夜は左門様に抱かれる。そんなつまらない毎日でした。これが東京なら気分を晴らせるのに、田舎じゃ気の利いた店も風流どころもありゃしない。しだいにあたしは、気鬱のような感じになっていきました。ああ、左門様のご任地が、はやく東京に戻らないかな……なんて、こっそり思ったりもしてたもんです。

 そんな折、左門様が、もう一人妾をとると言い出しました。その心は、あたしが月のものになっているあいだに、他に抱ける女が欲しかっただけでございましょうけれども。

 左門様が目を付けたのは、熊本城下でも評判の美人の、お安……布袋(ほてい)安でした。まだ十八くらいの、貧しい豆腐屋の娘でした。

 お安は、本当に綺麗でした。

 目鼻立ちがくっきりしていて、すらりと長い手足は、色白かった。田舎の泥混じりの大地に、こんなに綺麗な花が咲くのか、と思ったくらいでした。

 まあ、日本橋いちの芸者のあたしが言うんですから、それはそれは綺麗だったということです。

 そんなお安を下女の名目で妾に迎えて、左門様は、両手に花、なんて言って喜んでました。まったく、しょうのないお人ですよ。そう言うあたしも、すぐにお安と仲良くなりました。なにしろ、歳が近かったから。

 でもね、お安は、ひどく塞ぎ込んだような様子でした。

 妾になったのも、家の事情で、父親にきつく言われて、仕方なくって言ってました。

 初夜が怖い、逃げ出したい。そうも言ってました。

 あたしは、同じ旦那に仕える妾として、お安を叱りつけようかと思いました。けれど、思いとどまりましたよ。自分の意志で芸妓になったあたしと違って、お安は、父親の勝手な意向で、知らない男の妾にされちまったんですからね。そりゃ、同情もできるってもんです。

 あたしは、適当なことを言ってお安をなだめすかして、お安を初夜の床に送り出しました。やがて、お安が……少女が女になる悲鳴が、襖越しに聞こえました。普段より燃え上がっている、左門様の荒い吐息まで届いてきました。あたしは、耳を塞ぎたくなりました。

 ……それからしばらく、お安のほうが気鬱のような感じになっちまったんです。見ていて痛々しかったですよ。

 だから、私は老婆心ですが、お安に言ってやりました……男に抱かれている間はね、天井の木目をじっと見ていればいいんだよ。あの模様は兎に似ているとか、あっちはお山そっくりだとか……何か楽しいことでも思い浮かべられりゃ、上出来ってもんさ。あたしなんか、夜の澄んだ星空を描くことにしてるんだ。そうすれば、少しは気が紛れるんだから……。

 そう言ったら、お安はやっと笑顔を浮かべました。そして、いつか一緒に、阿蘇のお山に行って、天の川を見ようって言ってくれたんです。あたしは嬉しかったですよ。芸妓として生きてきたあたしが、友達に誘ってもらって、一緒にどこかにいって遊ぶなんて、もしかして初めてのことだったかもしれなかったんですから。

 それからのお安は、吹っ切れたような感じでした。女としての艶も、少しづつ出てきているのが分かりました。

 そして……まあ、どうにかこうにか、皆が一つ屋根の下で何とかやっていけるようになったかな、という頃でした。

 あたしとお安は、たった一晩で、離れ離れになっちまったんです。その秋も終わりごろの、静かな夜でした。

 世にいう、神風連の乱ってやつですよ。熊本の頑固士族どもが、時代遅れの尊王攘夷思想とやらを掲げて、熊本城下の軍人や役人を夜討ちにしたっていう事件です。

 その夜、私とお安は、左門様の布団で一緒に寝ていました。何しろ、左門様が、三人で床を共にするのも一興だからとか何とか言って……。

 賊が押し入ってきたとき、左門様は……いいえ、あの男は、布団で胸を隠すようにして半身を起こしていたお安を、自分に斬りつけてくる賊の刀の、盾にしたんです。こんなことが、あってたまるもんですかい……。

 お安は、胸から腹をすっぱり斬られて、布団の上に崩れ落ちました。お安はしばらく、震えるようにして動いていたけど、布団と畳を血の海にして、そのうちこと切れちまいましたよ。何が起きたのか分からないって顔でした。まだ……まだ二十歳にもなっていないんですよ? もっともっと生きていたかっただろうに、あたしとの約束も果たせていないままだったのに……!

 左門様も討たれ、あたしも腕を斬られちまいました。賊が引き揚げたあと、あたしは熊本鎮台の病院に運ばれて、手当てを受けました。

 その間に、お安は戸板で実家まで運ばれたって聞きました。自分が強いて送り出した娘が、血まみれの屍になって返ってきた……そんな父親の胸のうちは、いかばかりでございましたでしょうか。

 ……そんなこんなで、あたしは熊本の地を去ったっていうわけです。

 亡き左門様への義理はどうした、ですって? あの男への義理なんざ、もうとっくに支払っちまって、今や手元にゃござんせん。

 あたしは、年が明けて、鹿児島の賊徒どもが起こした西南の戦がはじまったとき、まだ熊本鎮台の病院で療養しておりました。傷もだいぶ良くなったってんで、あたしも看護人に交じって、負傷した兵隊さんのお世話をしました。それで、鎮台司令官だった左門様への義理は果たしたつもりです。熊本くんだりで、あんな卑怯な男の墓守をする余生なんて、あたしゃまっぴらごめんです。

 戦が終わってから、あたしは東京へ帰りましたよ。熊本は、あたしにとっちゃ、辛い思い出しかない土地なんです。もう、熊本なんざ二度と行きたくないってのが正直なとこです。

 ただ、毎年その日が来ると、あたしは西の夜空に向かって手を合わせ、花を手向けるんですよ。たった一人の友達だった、あの娘だけのためにね。

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『お安』 鮎川 雅 @masa-miyabi

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