第5話

 丸椅子に座って土壁つちかべにもたれながら、ゆらゆらゆらめくろうそくのあかりをたよりにドロレスさんからもらった針仕事をしていると、くわの手入れを終えたホルヘが戻ってきた。


「……大丈夫なのか?」


 あたしは顔を上げて、自分の近くに寄せていたろうそく立てを卓のまんなからへんにそっと押しもどした。暗くかげっていたホルヘの顔がぼんやりと照らされる。口ひげのおかげでかろうじて男らしさを保っている、どこかひょろっと少年じみたところを残した細面ほそおもては、したたかなここいらの女たちの好みには合わないみたいだけど、《山》出身のあたしからすればいっそ好もしいくらいだ。ホルヘは無表情のようでいて、そうではない。いま、そう、あたしにだけはわかる。すぐにわかる。ずいぶんと心配してくれているみたいだった。あたしはそれがなんとなくうれしくて微笑んだ。そういうふうに自分が微笑んでいられるのをしあわせだなとも思った。


「ええ、だいぶいいわ。まだちょっと張ってる感じはあるけれど、だいぶいい」


「そうか。あんまりにもつらいようだったら、背もたれのある椅子を誰かから借りた方がいいかもしれねえな」


 ホルヘはつま先立ちんなって――あっちからは食卓に隠れて見えないらしいあたしのお腹のあたりを覗き込むような姿勢でもって――ぽつらぽつらひとりごとのような調子で言った。


「大丈夫よ。それにあんた、またなにか嫌なこと言われたりするかもしれないし……」


《へえ! おまえらごときがこらまた贅沢なことをぬかしやがる。まったく驚かされるね。あれこれ欲しがってばっかりじゃねえか。それに値する働きっぷりと成果をな、もっともっと見せてもらわんと、そうそう首を縦には振れんわな――》


 あたしたちを下に見る理由が小作人ってだけでなくあれこれとあるのはわかってる。口答えなんてできないんだ。


「いや、そんなこたあ慣れっこだ。それよりも、お前と腹の子になにかあっちゃいけねえ。誰も彼もなにかにつけて嫌味ばっかり言いやがるが、それでもなんだかんだ気にかけてくれてんのはわかってるしな。それにここんところずっと豊作で、みんな気が大きくなってっからよ」


 誰も彼もというほどあちこちにつきあいがあるわけでもないけれど、あたしたちのことを知っているわずかばかりの人たちが、なにも悪口ばかりというわけでもないのはたしかにそうだった。


「ありがとう。でも、大げさにしないで。あたし、本当につらかったらちゃんと言うから」


 手を合わせるようにして、じっと見つめてそう言うと、ホルヘもじっとこっちを見つめてきて、あたしたちはゆっくり数えて三秒ほど、黙ったまんまそうしてた。それは気まずさのない、あたしたちの間ではよくある、不器用な感じだけれどもどっか居心地のよい沈黙だった。


「そうか。とにかく……無理はすんなよ。豆の煮込みはまだあるかな? さっきとうもろこし麵麭パンをかじったんだが、足らんかったな。まだ少しは残ってたんじゃないか?」


「あるよ。まだちょっとはあったかいと思う。でもまたあたためようか?」


 刺繍枠ししゅうわくを卓に置いて立ち上がろうとすると、ホルヘは「いや」と言って手のひらをこっちに向けた。あたしは浮かせた腰をすとんと椅子に落とした。「自分でやる。おまえは刺繍してろ」


 ホルヘはくるりと背を向けた。



「――今夜はなんだか暑いくらいだねえ!」


 台所へ姿を消したホルヘに聞こえるよう、少し大きな声で言った。しかし言うやいなや小鍋を片手に持ったホルヘがちょうどこっちに戻ってきて、敷居のあたりでちょっとばかしのけぞった。あたしが大声をわびるように手を口元にあてると、ホルヘは口角をほんのちょっぴり上げて、食卓を挟んだあたしの真向かいにゆっくり腰を下ろした。


「たしかに今夜はぬくいな。お月さんもすずの丸皿みてえにくっきりしていてよ、星もなんだかきらきらしててなあ。あとでお前も見てみるがいいさ」


 そう言ってホルヘは小鍋んなかの豆煮込みを木匙きさじでかき混ぜはじめた。


「へえ! あとでちょっと見てみる。――ところでさ、ドロレスさんにこれをたのまれたときにさ、たまたま大旦那様が通りかかってねえ、あたしのことを覚えてくだすってたよ。あんたのことはともかく、あたしのことなんか覚えちゃいないと思ってたから驚いたし、失礼な言い方だろうけど、なんだか感心しちゃったよ」


「親父さんの方か」


「そう」


「あの人は立派な人さ。なんかおっしゃってたか?」


 ホルヘはそう言ってずずずと木匙きさじですくい取った豆煮込みの汁をすすった。


「そうそう。えっとね、えへん! ――おお、お前さんの旦那、ホルヘ・ヴィラロボスだろう? ホルヘの嫁だな? 元気にやってっかい? あいつはぶっきらぼうなとこあって人づきあいがめっぽう下手だが、そこがいい。黙々とな、減らず口をたたかず働くってのは美徳ってもんなんだ。わかるか? わかるな? あんたは《山》の出だし、あいつはグァデルナあたりから入ってきた移民の血筋だもんで、そりゃもう苦労も絶えんだろう。わしらへの借りもきついもんがあろうさ。でもな、ここんところは豊作だし、まじめにしっかり自分の仕事に向き合ってりゃ、少しずつでも暮らしぶりはよくなっていくもんなんだ。ホルヘは無駄口のねえところがいい。あれはと怠けたりはしねえ男だ。あと半年かそこらしたらも生まれるんだろう? それはわしらにとってもうれしいことさ。なにか困ったことがあったらちゃんと言うんだぞ。わしらは神が苦笑いするくらいに口が悪いが、心根まで悪いってわけでもねえ。いいか、なにかあったら言えよ――だってさ! だいたいこんな感じのことを言ってたと思うわ」


 実際にはもっとごつごつとしたいかめしい口調だったけれど、あたしは本気では真似せず、できるだけおどけるようにして話の中身を伝えた。これを聞いたらきっとホルヘは喜ぶだろうと、心んなかであっためてたんだ。


「そうか……大旦那には頭が上がらねえな。お前のこともちゃんと覚えてくだすってんだな。それに、ありがてえ、いろいろちゃんと見てくだすってんだなあ。実際、あの人のおかげでおれたちは一緒んなれたようなもんだし、なにかってえと励ましてくださるからよ、なんだか元気が湧いてくるなあ」


「ふふふ。ここのところは景気がよくて、今後の見通しもよさそうだって、ドロレスさんもぽつりぽつり言ってたわ。もしかしたら、いつかはあたしたちもさ、ちっぽけでも自分たちの畑を持たせてもらえるかもしれないよ」


「馬鹿言うな。いくらなんでも、そんな簡単なこっちゃない。そんな簡単なこっちゃないんだよ。でも……」


 ホルヘはうつむいて鍋の中をじっと見つめながら言った。


「でも?」


「これから生まれてくる子にゃな、おれの暮らしっぷりの繰り返しみてえなことにはならんように、少しでもな、手がかりっていうか、足がかりっていうか……うまく言えねえが」


「あんた……わかる。わかるよ! 大旦那様が言ってくれたように、一生懸命、まじめにがんばれば、きっといまよりはずっとよくなるよ。実際、豊作なんだし、きっとこれはつづくってみんな言ってるもの!」


「だといいがな」


 夢のような話を望んでいるわけじゃない。ほんのちょっとでいい。ほんのちょっとで――


「……う」


「ど、どうした! 痛むのか!」


 小鍋ん中を平らげようと突き上げたあごを戻して、ホルヘが鋭い声をあげた。


「え? ああ、ちがうの、ふふふ、ごめんなさい。いまね、動いてる。はっきりわかる。ねえ、こっちきて!」


 悪阻つわりもおさまってきて、ここのところようやくお腹の子が動いているのがわかるようになってきたのだ。ホルヘは小鍋を放り投げ、飛び込むように私の前に膝をついた。


「あはは! あんたそんなあわてて、あはは!」


 知る人みんなから口下手だの無愛想だのだのと言われたい放題のホルヘが、あたしの前では実に表情豊かでいてくれて、本当に愛おしかった。傍目にゃ無表情に見えても、ぜんぜんそうじゃないんだ。


「ど、どっちらへんだっけ?」


「こっちよ。でも、あたしにはわかってもあんたにはむつかしいのかな。ばあさま方から聞いた話だと、外から耳あててわかるくらいになるのはまだひと月以上先のことみたいだし――」


「黙っててくれ!」


 ホルヘは真剣そのものの面持ちだった。あたしは口をつぐみ笑いをこらえながら、ホルヘの髪をそっと撫でた。あたしたちはしばらくじっとそうしてた。あたしのこれまでの人生で、こんなふうに、ずっとこのままでいいって思えるひとときなんて、一度っぱかしもなかったように思う。ホルヘはお腹の子が動いているのをわかったのかわからなかったのかは言わず、立ち上がってあたしの額に口づけし、音もなく向かいの丸椅子に戻った。


「ねえ」


「なんだ」


「名前……決めたい?」


「ん? ああ、名前か。そうだよな。うん、不思議だ、あたりまえのことなのに、ぜんぜん考えてなかったな。どうすりゃいい?」


 なんでかホルヘはきまり悪そうだった。眉尻は下がり、うつむき加減のぼそぼそ声だった。


「ふふふ、責めてるんじゃないんだから。実はあたし、あんた嫌がるかもしれないけれど……ねえ、こないだ《山》の人たちが町のあの、一番大きなあの木のところで店を広げてたの、覚えてる?」


「ああ、とうもろこしの粉と妊婦に効く薬草油を交換したって話をしてたかな」


「そうそう。実はそんときにね、ほら、あたしも《山》の出だから、少し雑談をしてね、その、占いみたいなこともしてるばあさまに、子どもの名前のことを相談したの。そしたら、ごめんなさい、《もうちょっとばかしとうもろこしの粉を増やしてくれたら、いろいろ教えてやらんでもない》って言われて、ちょっとばかし多めにね……」


「え、なんだって? そんなお前! けど……うむ、まあ、いいや。それで?」


 馬鹿げたことをしてしまったのは自分でもわかっている。ホルヘは一瞬、めずらしく目を見開いて驚きと呆れを露骨にあらわしたが、それよりも名前が気になったのだろう、話のつづきをうながしてきた。


「――ごめんなさいね。それでね、あたし、言ったの。男の子だったら、家族を守っていけるような、そういう頼もしさ、男らしさのある名前にしたいって。女の子だったら、とにかく女としてしあわせになれそうな、愛らしい名前にしたいって、そう言ったの」


「それはつまり、そういう意味のある名前ってことか」


「《山》の人たちが語り継ぐ古い神さまの物語に由来するとかなんとか、それらしいことを言ってたわ」


 あたしも子どもの頃、部落のじいさま方にそんな話を聞かされていたのかもしれないけれど、まったく、ひとつとして覚えちゃいなかった。


「そんで……教えてもらったのか?」


 ホルヘはなにか期待に満ちたようなきらきらとしたまなざしで私を見つめて言った。


「ええ。男の子だったらね、《守る人》の意味があるらしい、アレハンドロ! 女の子だったら、《花の冠》って意味があるらしい、エステファニア! あたし、とっても素敵だなって思った。あのときはついでみたいに、さほど期待もせずに相談したんだけど、ふたつの名前を教えてもらってから、一日いちにちが過ぎるごとに、ああ、の名前になんてふさわしいんだろうって、心の底からそう思うようになってったのよ――」




Fin.


( Homenaje a Juan Nepomuceno Carlos Pérez-Rulfo Vizcaíno. )

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

エステファニア・ヴィラロボス 鈴木彼方 @suzuki_kanata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ