第4話

 暗灰色あんかいしょくのぶ厚い雲におおわれてはいるが、ところどころに穿うがたれた虫食い穴のような雲間くもまから陽光ようこうが細く何本か伸びていて、どこかちぐはぐな印象を抱かされる空模様だった。そよぐ風は奇妙なほどなまあたたかく、まだ初春だというのにやけに蒸し暑い。遠雷えんらいとどろきが耳にかすかに触れたような気がする。もうしばらくすると雨が落ちてくるのかもしれない。《大雨になるだろうな……》


〈旦那〉は庭先に置かれた肘掛椅子に腰掛けながら遅めの朝食をとっているようだった。少し離れていてもわかるほどに毛羽立った茶色い外衣がいいの背が小刻みに揺れており、食器がかちゃかちゃと擦れ合う音がここまで聞こえてくる。


「――プレシアドさん」


 私は軒先の真下をゆっくりと歩きながら――遠巻きに顔見知りがいるのに気がつきつつもまるで気づいてなどいないかのようなそぶりで歩を進め、いざすれ違うとき発する、あの声の調子で――彼の名を呼んだ。するとプレシアド氏の背がぴたりと動きをとめた。彼はすぐに、胸もとにねじ込んでいたのであろう布巾ふきんを荒っぽくむしり取り、それで口元を乱雑にぬぐいながらこちらに振り向いた。卓上の、まだ皿に半分ほど残っているボスチェロ・ウェチェロスとおぼしき卵料理を見て、私はろくに食べずにここに来たことを少しばかり後悔した。そして、自分が昼食になにを食べるべきかを思った。《そうだな、羊肉のたっぷり入ったアロファド・ドゥ・トルネがいい。たっぷりの羊肉を頬張りたい気分だ》


「誰だあんた。アブンディオはどうした。おい、勝手に入ってきたのか。いま、わしの名前を呼んだな? モレロス派のつかいかなにかか?」


 話が早い。私は率直に思った。《あたまがいいな》


「ご明察の通りです。そちらに座っても?」


「……わしは食事の途中だ。勝手に話してくれ。ろくでもない無心むしんだろうがな」


 プレシアド氏はそう言って布巾ふきんのかたちを整え、丈長たけなが外衣がいいの下に着たえりなし襯衣しんいにひねり入れた。


《これは意外というべきか――》


 私は彼の斜交はすかい、大きな円卓のぎりぎり軒先にかかるあたりに丸椅子をずらすように引き、腰を下ろした。この庭に置かれたままながい時を過ごしてきたのだろう、くたびれた円卓の白い塗料はそこかしこが剥げ落ちている。


《――この老翁ろうおう、野卑な悪党ではあろうが、荒くれ者どもの頭目、暴力の権化ごんげというわけでもなさそうだ》


「アブンディオは。番頭がいただろう」


 勝手に話せと言っておきながら、私が席につくやいなやプレシアド氏の方からぶっきらぼうに口を開いてきた。


「ああ、あの背の高い、頭の禿げ上がった?」


 私は苦笑するままに答えた。


「そいつだ、その禿げだ」


「ええ、彼なら玄関のあたりでその禿げ頭を血で真っ赤にして倒れ伏していると思いますよ。こちらに下女かなにかいるのなら、そろそろ悲鳴が上がる頃合いでしょうな」


 ――玄関の方で甲高い悲鳴が上がった。


「殺したのか?」


 木製のさじで半熟卵の黄身をかき集めながら、じろりとこちらを見やってプレシアド氏は言った。


 白髪のまじったあたまは水油みずあぶらでまとめられ、後頭こうとうへ向かってきあげられている。黒ぐろと日焼けした顔は木肌のようにしわだらけだった。垂れた高年のまなこは疲労のうちにあるように見える。しかしそれでいて、恐怖心や不安感のたぐいを一切うかがわせることなくこちらにまっすぐ向けられている眼差しには、領袖りょうしゅうのそれらしく傲岸不遜ごうがんふそんといったところのがみなぎっているように感じられた。


「いえ、たぶん生きていますよ。この屋敷で殺しはするなと指示していますんでね、とりあえずのところですが」


「指示してもだ、死ぬときゃ死ぬ。はずみでな。ましてあんたらは革命とやらの真っ最中で殺しにゃ慣れすぎてるほどだろうしな。しかしまあ、死んでたとしてもだ、それはアブンディオの運の尽きってことだろうよ」


「死んでいたら謝りますよ」


「無意味だな。馬鹿なことを言うな。馬鹿げとる。さっさと本題に入れ。あんたらコマラ州方面では相当押し込まれてるらしいな。落ち目のか!」


 吐き捨てるようにそう言って、プレシアド氏は母屋の方へ首を傾げ叫んだ。「ドロレス! 茶を持って来い! ふたつだ!」


「いや、まずそれよりも先に申し上げておかねばならないことがありまして」


 プレシアド氏はぎゅっと眉間みけんに皺を寄せ目を細め、あご先で話のつづきをうながした。


「正午を過ぎても、粉挽場こなひきばの連中は誰もここには来られません。ひとりも来られませんよ。そういう前提でお話をしたいんですよ」


 あらかじめ、プレシアド氏お抱えの用心棒どもは皆殺しにしておく手はずだった。密告によると《正午前後にゃ必ず数名が〈旦那〉の屋敷を警護するためやってくる》とのこと。やくざ者が何人死のうが問題ない。〈交渉〉は相手の手足をもいでからの方がなめらかに、心地よくすすむというものだ。


「解せんな。お手上げということか。つまらん話だ。欲しいものはなんでも持っていくがいいさ。わしの命が欲しいっていうならそれもしかたがない」


 幽霊のように存在感の希薄な、枯れ木そのものの老婆が運んできた茶を、プレシアド氏は即座に引っつかんですすり、私にも左手で「飲むがいい」と合図した。私はわずかに頭を下げるのみでそれに手はつけなかった。


「あなたの命を欲しがっている者もいなくはありませんが、あなたを吊るしてもね、なんの益もないどころか、そんなことは悪手でしかありませんよ」


「金と食料と武器か」


 茶碗を意外なほど慎重に置いて、プレシアド氏はひとりごとのように言った。


「われわれの秘密の後ろ盾になっていただければと思いますよ。もっとも、秘密を明かしたところでね、さほども状況は変わりはしない。プレシアドさん、あなたが損するだけです。大損です。わかりますよね?」


「……わかるさ。だがそもそもだ、ここいらの役人にはあんたらとやり合う気概なんぞない。賄賂好きの下っ端ばかりさ。それにな、後任の神父が来ないままもう何年も経っとる。教会はただの寄り合い場だ。あんたらの大義名分と関わりようのないわしらが後ろ盾となることを強いられるとは滑稽に過ぎる。あんたらが一体全体どこからやって来た何者なのかは知らんがな、政府と教会の利権争いに乗じてぴょんぴょん跳ね回っているだけじゃないのか? 神やら信仰やら気軽に口にするが、それを理由に殺し合いをしおって、主もさぞや困惑していることだろう」


 プレシアド氏はそう言い終えると腕で自分の茶椀を庭の方へ勢いよくなぎ払った。椀は割れずに地面を転がって草むらに入り込み、見えなくなった。


「プレシアドさん、われわれが欲しいのはおっしゃるとおり、金、食料、武器です。それだけです。《後ろ盾》などと言ってしまいましたが、言葉選びを間違いましたね。。そうです。あなたは無関係ですとも。。あなたはむしろ犠牲者といってもいいかもしれませんな。ところで、ミゲル・パラモとアレハンドロ・ヴィラロボスをご存知で?」


 は問答無用。プレシアド氏とわれわれの信条について論じ合いたいわけではない。私は話を変えた。ここから先は単なる世間話といったところだ。《気楽なものさ。それにしても、腹が減ってきたな!》


「知らんな。ふむ? いや……知らんな」


 い上がりようのないわざわい陥穽かんせいの底から怨嗟えんさ雄叫おたけびをあげたいわけではないのだろう、プレシアド氏は急すぎる話題転換に抵抗を示すことなく応じた。《そう、それでいい》は決しているのだ。私はふたたび思った。《あたまがいいな》


「そうですか? そのふたりはうちの若い衆でしてね、まさにこの集落の出身なんですよ」


「わしが知らんということは、ふむ、そいつらはむかしここから逃げたごろつきどもか? 以前、どこぞかでさらし首になったと噂話に聞いたがな。とすると、だ。ヴィラロボス……南東移民の姓……そうか……エステファニア・ヴィラロボスの兄が生きていたのか」


 プレシアド氏はあっという間に記憶を組み立て直し、正答へといたった。


「ご明察の通りです! エステファニアのおかげで、こうやって私は安全にあなたと交渉ができたわけです。粉挽場こなひきばの件やらなにやら、提供された情報はさい穿うがつものでしたよ。。いや、したたかな娘ですよ! 娼婦の身に突き落とされながらも、それこそ《政府と教会の利権争い》の激化に乗じ、起死回生の好機とばかり、われわれに取引を持ちかけたんですからな」


「あの小娘が……なるほど。恩を仇で返すとはな。してやられたというわけか。もっとも、エステファニアの手引なんぞなかろうとも、あんたらは力づくでわしの財を奪えたに違いあるまいな。あの娘、母親が首を吊ったあたりから様子がおかしかったが、モレロス派のちんぴらをたらしこんだか。いや、兄のアレハンドロ・ヴィラロボスが接触したのか?」


「いえ、アレハンドロは成り行きのすべてに出遅れておりましてな、ああ、ちょいと話は逸れますが、は、は、は! 彼は妹の娼館送りにも、母親の縊死いしにも、そしてもちろん例の神父の縊死いしにも、すべてに、あれは怒りに満ち満ちておりますよ」


「神父? 神父だって? あの気狂きちがい神父のことを言っているのか? いや、あんなけだものを神父などと呼ぶべきじゃない。酒狂いの男色なんしょく家だ。よもやあんたら、あれの醜聞のせめをわしらに寄せているんじゃあるまいな。そればかりはゆるさんぞ。あれは地上の恥だ!」


 そのとき、はっきりそれとわかる大きさで遠雷えんらいとどろき、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。私は丸椅子をもう少しばかりプレシアド氏の方へ寄せた。


「ひ、ひ、ひ! さすがに私らもね、ミゲルとアレハンドロのうつくしい幼年期の記憶に現実の泥を塗りたくるのは躊躇ためらわれましてな! いや、プレシアドさん、あなたって人は本当にまともなんですね! 実に実に、しっかりしてらっしゃる! ふたりは最近いよいよ〈神がかり〉なところがありましてね、それゆえにあなたにとっては危険かと。先ほどちらりと申し上げましたがな、あなたの命を欲しがっている者たちの代表ですよ、彼らは。私らも注意を払っておきますが……逆に、ふたりの身になにかあったとしても、あなたが関与しているとはまったく思いませんよ。そんなはずはない。われわれはふたりになにがあろうとも、犯人はわかりません。わかるはずがない。そういう話です。ちょっとした〈贈り物〉ですよ」


「くだらん! だが、気をつけるとしよう。この世は恩知らずと恥知らずばかりだな。あんたらもだ。どいつもこいつもどうしようもない。そんなのばかりだから、しまいにはわしも主の裁きにおいてゆるされるような気さえしてくる。自分のことがに感じられるのさ。あんたらは言うなれば神を担いでわんさと人殺しをしているわけだが、よもやの〈王国〉に迎え入れられて永遠を生きられるなどとは思ってはいまいな。狂信者を装うのは容易たやすい。そして、主はすべてを見透かす。エステファニアにしても、あれの両親にしても、わしらから借りるだけ借りて、返してくるのは恨みつらみばかり。呪う先を間違っているとまでは言わんがな、現実に仇を返してくるとなれば、天国からは大いに遠ざかったことだろうよ」


 プレシアド氏は黒ぐろとした頭上の雲を見つめながら淡々とした口調で言った。私が微笑みながら無言でいると、ぐっとこちらを向いて身を乗り出し、一瞬、血走ったような凶暴な眼差しでにらみつけてきたが、すぐに一切の関心を失ったかのように脱力した。そして、私が触れもしなかった碗に手を伸ばし、もうすっかり冷めてしまっているであろう雨粒まじりの茶をぐいっと一気に飲み干した。

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