牡丹
羽間慧
牡丹
山々を抱く海は、空と同じ色をしていた。朱色の柱に映える夏蜜柑色の瓦と、大理石でできた巨大な女人像が、三千年の歴史を感じさせる。大陸から小舟でやってきた女人も、同じ光景を見ていたはずだ。愛する人と離れ、わずかな従者と異国へ逃れた苦しみとともに。
紫禁城に似た雰囲気を、貸切状態で堪能できるなんて運がいい。私はスマホを取り出した。別行動をしてから二十分も経っている。そろそろ駐車場が空いたころだろう。
「今どこにいるの? 先に下ろしてくれたのはいいけど、あんたも早く来なさいよ」
ここは、本州のはしっこ山口県の北西に位置している寺。沖縄気分を味わえる絶景スポット
「すみません、お義母さん。なかなか停められなくて。もう少しで着きます」
「もう少しって。ここからじゃ、まだ全然見えないわよ。あんたは走ってきなさいよ。いつも仕事に行くときは車使っているんだから、いい運動になるんじゃないかしら。歩き始めてすぐ息切れするなんて、みっともないわ。産後にでっぷり太っちゃって。旅行中に何度も休憩して、私のことを気遣ったつもり? 私はね、あんたなんかとは違って昔から鍛えられているのよ。小さいときから魚をたくさん食べさせてもらって……」
義娘は電波の調子が悪いと断ってから電話を切る。小言は聞き飽きたと言わんばかりだ。
結婚三年目で根を上げるつもり? 私はあんたのことを本当の家族として接してあげているんだから、話を最後まで聞きなさいよ。遅れてきた反抗期っていうの?
一緒に参拝しようと思っていたが、乗り気ではないのなら先に済ませておこう。
「二人目は、美人で元気な子が生まれますように」
私は楊貴妃の霊廟に頭を垂れた。世界三代美女の一人とあって、ご利益は折り紙つきだった。美人薄命なんて縁起が悪いと言われそうだけど、信じる者こそ救われるはずだ。読経するように、理想の孫のイメージを唱えた。
「この大切なときに電話するのは誰よ」
表示された名前を見て、私は眉をひそめた。勝手に切って、すぐにかけ直すなんて礼儀知らずもいいところよ。
「五輪塔にいるからすぐに分かるわよね。ろくに探しもしないで電話しないでくれる?」
「あの、お義母さん。ちゃんと境内にいますよね? カフェで涼んでいたら、そうと教えてください」
ふざけないで。私が一人でかき氷でも食べていると言いたいの。
喉元まで来た言葉を、吐き出すことはできなかった。安堵の息を漏らす息子の声が響いてきた。
「母さん生きてる? GPSアプリが全然動いてないから、迷子になっているか心配で心配で。今いる場所に何か目印になりそうなものはある?」
「目印も何も、境内にいるのよ。楊貴妃の墓の前。浄財って書いてある箱も、確かに」
あったはずなのだ。しかし、目を離した一瞬にして、浄土の文字が浮かび上がっていた。
んなあ"あ"あ"ぁぁ。
耳をつんざく怪物の遠吠えを聞いたのが、最期の記憶になった。
■□■□
「なぁ、聞こえたか?」
「空耳じゃない……よ、ね? どうして牡丹がお義母さんを」
何も聞こえなくなったお義母さんの電話に、私達は顔を見合わせた。あの声は間違いようがない。
握りしめた私の手を、夫が包み込む。
「今回の旅行さ、おふくろを止められなくてごめん。まだ旅に行く気分じゃなかったよな」
「……うん。二人目はちゃんと産みなさいって、ずっと言い聞かされてきたから。全然楽しくなかった」
「そうだよな。牡丹もそれが分かって、おふくろを遠くへ連れ出したんだろうな」
夫の視線の先には、遺骨の一部を入れたロケットペンダントがあった。
生まれてすぐに亡くなった、私達の宝物。
「ちっちゃい産声だったのに、あんな大きな声を出せるようになったのね。たった半年の間で」
牡丹が小指を握り返してくれた感触は、今でも残っている。
「あなただけに許されていた、国花と同じ名の娘を助けてくださったの?」
楊貴妃様は安産と子宝、そして縁結びの加護を与えてくれる。縁結びには、よくない縁を解くことも含まれていた。
女性の願いを叶える楊貴妃様の墓前に、私は深々と頭を下げた。
牡丹 羽間慧 @hazamakei
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