神父様は魔法使い

キリン

彼《彼女》の罪

 意を決して扉を開くと、絵画の中に飛び込んだような錯覚を覚えた。


 装飾に凝った石灰岩の壁、磨き抜かれた艷やかな木製の椅子が並び立っている。その奥には壇上が、更に奥には色とりどりの硝子で聖母が描かれており、差し込む光によって神々しく見えた。


 こんな理由で教会という場に来たことは初めてだった。しかし、アレスにはどうしても抑えきれない思いがあった。友人や家族、周囲の人間には漏らせないような思いが、この場でしか吐き出せないような思いが。──しかし教会の美しさは、そんな彼の緊張を一気にほぐしきったのである。


「おや、こんな朝早くから珍しい」


 アレスが後ろを向くと、そこには優しげな青年が佇んでいた。黒い修道服に身を包んだ金髪の青年……抱えた聖書と、首に下げている十字架を見て、直ぐに彼がこの教会の関係者だということが分かった。


 アレスは近づいてくる青年に対し、少し間をおいて答えた。


「少し、懺悔をしたくて。神父様はいつ頃ここに来られますか?」

「ああ、それなら大丈夫ですよ。私がこの教会を取り仕切る神父です」


 驚いたが、それは本当なのだろうと自然に思った。身振りや手振り、落ち着いた声や優しげな眼……それらは全て、人を断罪するのではなく、その懺悔の心を受け止める聖職者のものだと思った。


 男性である自分のこんな格好に変な態度を取らず、普通に接してくれる。

 思い描いていた「聖職者」とはいい意味で少し違い、これなら安心して話すことができる。アレスはそんな事実に、少しだけ安堵していた。


「では、こちらへ。私はこちらで神の声をお伝えしますので、貴方はこちらで」


 そう言うと神父は、こじんまりとした木製の告解室の片側へと入った。アレスは少しだけ抵抗を覚えたものの、もう後戻りはできないと己を鼓舞した後に、告解室の中へと入り、その椅子に腰を下ろし、バッグを床に置いた。


「貴方のお名前は?」

「アレスです」


 神父は頷き、しばらくの間を置いたあと……こう言った。


「『貴方の罪を懺悔しなさい、我らが神は、きっと許してくださる』」


 その声はひどく優しく、問い詰めたり圧をかけるようなものではなかった。アレスは拳を握りしめ、思い切って自分の罪を告白した。


「ああ、神よ。どうかお許しください……俺は、天より賜りし貴方からの体を、『男』である自分自身を否定してしまいました……!」


 言ってから、恐怖が這い寄ってくる。何を言われる? 何を憐れまれる? どんな罵詈雑言を浴びせられる……? そこに先程までの安堵は跡形もなく、アレスは無自覚の内に震えていた。


 長い髪、可愛らしいその洋服は、アレスの体格にはあまりにも合っていない。例え顔の形が女性に近かろうが、肌が白かろうと……浮き出る骨格は、違和感でしか無い。


 ──そんな彼に、神父は告げた。


「それは、罪ではありませんね。他に懺悔したいことは、ありますか?」


 間を置かないで放たれた即答。アレスは、暫くの間混乱した。


「……え?」

「無いのであれば、懺悔は終わりです。おめでとうございます、神に誓って貴方は潔白でしたよ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 部屋から出ていこうとした神父が、再び席につく。呼び止めたのは良いものの、自分が何を言いたいのかアレスには分からなかった……だから、そのままの疑問をぶつけることにした。


「あの、なんで私は潔白なのですか?」

「潔白は潔白です。ないものはないんですよ?」

「だって、俺は神から授かったこの体を否定しました。男性に生まれたのに、女性の格好をして……挙句の果てには、『女性に生まれたかった』などという馬鹿げた欲を胸に抱いています。それが、罪ではないんですか?」


 気がつけば、アレスは立ち上がっていた。冷静ではなく、自分の感情の赴くままに言葉を投げつけた。お互いに生まれた沈黙にいたたまれなくなり、アレスはゆっくりと、力なく座った。


「……ええ、たしかに貴方には懺悔すべき罪があります。先程の私には見抜けなかった、大きな罪が」


 ほら、やっぱり。アレスは沈んでいく自分を俯瞰しながら、自分のあり方に嫌気が差していた。どうして剣ではなく花に目が行く? 武勇伝よりも夢物語、運動よりもままごと……どうして自分はこうなのだろう、こんな馬鹿げた人間が潔白な訳がない。


 ──沈みゆくアレスを、神父は断罪した。


「貴方は、貴方自身を否定した。その在り方を力で捻じ伏せて、良くないものだと勝手に決定づけて……こうあるべきだという鎖に縛り付けている」

「……は?」


 何を言っているのか、分からない。アレスはひどく混乱した。


「ちょっと待ってください、貴方は聖職者ですよね? 男は力仕事、女はそれの手伝い……神に与えられた使命を、貴方は否定したんですか?」

「そんなことは誰も言ってませんし、そもそも聖書にそんなことは書かれていません。寧ろその考えこそが、貴方の一番の罪ですよ」


 いいですか? 神父は優しく、しかし強めの口調でアレスに言った。


「貴方が言う男はこうとか、女性はこうとか、そういうのは聖書をきちんと読んでいない人達が付け加えた妄想です。神はそんなことを仰ったつもりはございませんし、そういった役割は本来、個人が決めるべきことなんです」

「……でも、痛いんです」

「何がですか?」

「周囲の目です。いつもいつも、ひそひそと……俺のことを悪く言うんです。男のくせにとか、気持ち悪いとか、言われてるに違いない」


 アレスは、自分が何を言っているんだろうな。と、思いながら喋っているのを自覚していた。根拠もないし、何を目的にしているのかもわからない。そもそも自分が何なのかもわからないのに、一体、何が欲しくて、何をしたくてここに来たのだろうか。


「……わかりました。では、私から魔法の言葉をお送りしましょう」

「魔法の、言葉?」

「はい。ああでも、神ではなく私からの言葉でいいのであればの話ですが……どうでしょう?」

「……では、聞かせてください」


 神父が、隔たれた壁の奥で笑った気がした。アレスがなんとなくそう思っていると、神父は優しくこう言った。


「『。この世に生きるという神からの試練を成し遂げるだけでも、人間は必死なのだから』」


 その言葉は、目から鱗と言わざるを得なかった。

 途端に、自意識過剰、被害妄想……そういった単語の羅列がアレスの脳内を埋め尽くした。同時に今まで自分が抱いていた葛藤やら悩みやらが、自分自身で作り上げていた悪夢だということに気づいて、なんだか恥ずかしくなってきた。──神父の魔法は、私の悪夢を打ち払った。


「……もう一つ、魔法の言葉を。『』」


 ものの数秒で、アレスの心はとてつもない速度で変化していた。自分が好きなもの、着たい洋服、やりたいこと……やってみたかったこと。それらを、とても前向きに考えることが出来ていたのだ。


「自分自身を認めることは、時に素晴らしく、時に戸惑いと驚きを与えます。それを認めることはとても勇気が要ることであり、それができなくて思い悩む人もたくさんいます。誰かに否定されて、自身がなくなってしまうことだって……」


 ──だからこそ。神父は、最後にこう言った。


「貴方は、貴方自身を好きでいてあげてください。結局のところ、自分が一番自分を理解してくれてるんですから」


 その言葉で、俺は……いいや、「私」は自分に自信を持つことが出来たと思う。

 持ってやる、持ってみせると決意できた。


「……本当に、魔法みたいな言葉ですね」

「個人的な意見ですけどね、まぁ、お役に立てたようで何よりです」


 そう言って、神父様と私は部屋から出た。

 教会は先程よりもキレイに見えたし、ところどころ汚いところも見えた。埃にまみれた箇所もあれば、光に照らされて輝いて見える場所もある。アレスはそれを自分に重ね、それでも尚、それが自分だということを受け入れようと思った。


「相談に乗っていただき、ありがとうございました。私、ちょっとだけ自分のことが好きになれた気がします」

「人生は一度きり、それは私達人間も神も代わりません。──やりたいように、生きたいように生きれば良いんですよ」


 アレスはしっかりと頷いて、そのまま持っていたバッグの中に手を伸ばした。その中には今まで使うことのなかった、新品同然の赤いリボンが入っていた。アレスはそれで自分の黒くて長い髪を束ね、纏めて……不格好な、それでいて自分らしい一つ結びを作った。


「……また、ここに来てもいいですか?」

「ええ、もちろん。私はそのためにここにいるのですから」


 アレスは頭を下げて、背を向けた。輝くステンドグラスと、優しい魔法使いに。


「アレスさん」


 門に手を触れかけて、呼び止められた。なんだろうと振り返ると、そこにはやっぱり優しい顔の神父様が居た。彼は私に微笑み、その上でこう言った。


「その髪型、とっても似合ってますよ」

「──ありがとう、ございます」


 優しく手を振る神父様に、最後にもう一度だけ頭を下げる。

 門を開くと、昇りつつある眩しい朝日に照らされた町並みが広がっていた。新たなる今日を告げるそれらは、目に見える世界を、なんだかいつもと違うもののように感じさせてくれた。


 それはそれは、輝かしく生きがいのある世界に。

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