鹿の霊の話

ただのネコ

鹿の霊の話

「じゃあ、そこの貴方!」

 スーツの男は妙に高いテンションで群衆の一人を指さした。

「は、俺かい?」

 指をさされたのは、紺の甚平を着たおじさんだった。

 突然の指名に呆けるおじさんに、スーツの男が畳みかける。

「そう、あなたです。それなりの長さ生きたんだから、怖い話の十や百ぐらいストックがあるでしょう」

「ねぇよ、そんなに!」

「そんなにって事は一つぐらいなら?」

 どうやら、一つぐらいは思い当たったらしい。

 ちょっと迷うそぶりをした後、おじさんは肩をすくめた。

「そんなに怖い話じゃない上に、季節も合わないんだけどな……」


〇〇〇


 あれは冬になりかけって辺りの頃だったと思う。

 仕事の関係で、早朝の奈良の街を歩いてたのさ。

 奈良ってところは観光地の割にはホテルが少ないから、早朝は本当に人がいないんだよな。電車が動くまでは客が全然いないんだ。


 だから、その鹿も俺のところに来るしかなかったんだと思う。たまたま早起きして腹を空かせてたのか、一匹の鹿がまとわりついてきたんだ。

 コンビニで買ったサンドイッチとコーヒーを下げてたから、それを狙ってきたんだなと分かったよ。

 でも、サンドイッチをあげるわけにゃいかないし、鹿せんべいのおばちゃんたちもまだいないし。

 シッシッって手で追い払おうとしても全然平気な面してるんだよな。人なれしてるのも良し悪しだよ、ほんと。

 そうこうするうちに、鹿がコンビニ袋に噛みついて、俺がそれを振り払おうとして、こう、ガツンと。


 コーヒー缶の当たり所が悪かったのかな。その鹿はピヤッって一声鳴いて、ぶっ倒れちゃったんだ。

 その時、修学旅行で奈良に来た時、ガイドに脅されたのを思い出したんだよ。

「奈良の鹿は天然記念物ですから、傷つけると罰せられますよ」って

 こんなところで警察のお世話になるのは勘弁だ。仕事の方にも支障が出る。

 幸い人通りも無いし、知らんふりして逃げちゃおう。

 そう思った時だった。


 ちょっと離れたところにいつのまにか、でかい鹿が居たんだよ。

 普通の鹿ってせいぜい顔が人間の腹ぐらいの高さなんだけど、そいつはもう目がこっちとおんなじ高さでさ。

 ギラギラと憎しみがこもった眼でこっちを睨むと、頭を下げて角を向けてきた。

 俺が走りだしたら、案の定追ってきやがんの。


 シカが怖い動物だ、なんて感覚はあんまりないだろうけどさ。

 体格いい鹿が、車ぐらいの速さで走ってくるんだ。しかも枝分かれした立派な角でこっちをしっかり狙ってだぜ?

 まともに当たったら、人間なんてひとたまりも無いよ。

 直線で逃げたら絶対無理だと思って、でかい木の周りをぐるぐる回ったりして時間を稼いだけど、まあ逃げ切れるわけないわな。


 なんかにつまづいて、転んで。

「ああ、このままこの鹿に踏み殺されるのかな」

 って思ったところで気づいた、この鹿、生きてないわって。

 足の先の方が、薄れて透明になってんのよ。

 鹿でも幽霊って足が無いんだな、なんてアホな事を考えてたのを覚えてる。


 お化け鹿の方は、今度こそ俺を確実に突き殺すぞって感じに角を構えて走り出した、その時。

 まさにその時に、ギィーって感じの鳴き声が聞こえたんだ。

 見ると、さっき倒れた鹿が起き上がっててさ。

 お化け鹿の方は俺の目の前で突撃をとめて、起き上がった鹿の方を見て、もう一回俺を睨みつけてから、起き上がった鹿と一緒にどっかに行っちまった。


 その後、俺はしばらく道路にへたり込んでたんだけどよ。通りかかった土産物屋の爺さんに助けてもらってな。

 傷の手当てをしてもらいながら、こんな顛末だったんだって話したわけさ。

「その鹿、角はあったか?」

「ああ、すごく立派なのがあったぜ」

「ほな、山の鹿やなぁ。公園のはこないだ角切したとこやから」

 その爺さんのいう事にゃ、奈良の公園当たりにいる鹿は神様の使いだってことで天然記念物なんだけど、山の方にいる鹿は狩猟してもいい事になってるらしい。

 でも別に、公園の鹿と山の鹿が別の種類ってわけじゃなくて、お互い交流とかもあるんだと。

「夫婦やったんか親子やったんかは分からんけど、死んでもその鹿を守っとるんやろうなぁ」


〇〇〇


「なんでほんわか家族愛で締めてんですかっ。全然怖くないじゃない!」

「あんたは実際突撃されたことが無いから、そう思うんだよ。そもそも俺は怪談は苦手なんだ」

 文句をつけた女性に、おじさんが反論する。

 水掛け論になりそうな気配を察して、スーツの男は両手を叩いて場を締めた。

「まあ、そんな話もあっていいでしょう。鹿が生きててよかったですね。では次は……」



●夢の跡の話

 →https://kakuyomu.jp/works/16817330661715493215/episodes/16817330661715511905

●欠けた鳥居の話

 →https://kakuyomu.jp/works/16817330661747765629/episodes/16817330661747781122

●異国のコインの話

 →https://kakuyomu.jp/works/16817330661747880948/episodes/16817330661747888150

●罪人の黄金の話

 →https://kakuyomu.jp/works/16817330661833283836/episodes/16817330661833299683


●そもそも、なんで怖い話をしてたんだっけ?

https://kakuyomu.jp/works/16817330661714569156/episodes/16817330661714599162

●そろそろ、時間じゃないかな

 →https://kakuyomu.jp/works/16817330661714569156/episodes/16817330661714639112

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鹿の霊の話 ただのネコ @zeroyancat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説