4 - 再出発

 はっと目を覚ます。

 年季が入った木製の壁、古びて薄くなった張り紙、ドアの窓ガラスの向こう、微かに明るくなり始めた空の下に見えるプラットフォーム。

 膝元には、気持ち良さそうに寝息を立てる優子の顔。

 寝起きの頭の中で、にわかに記憶が蘇ってくる。昨日の夜、この駅に着いて、どこにも行けずにここで夜を明かすことにして、優子と二人きりで喋って、優子が先に寝て……そこから記憶は無いけど、どうやら知らない間に私も眠っていたらしい。

 凝り固まってしまった身体を少し動かして、優子には申し訳ないが、鞄に膝枕を交代してもらう。優子は不満げな声を出して呻いたものの、寝返りを打って私に背中を見せて、また大人しくなった。

 ベンチから立ち上がり、一度大きく背伸びをする。まだふらつく足が絡まって転けないように注意しつつ、よろよろと駅舎の外へと出た。

 冷たくて静寂な空気に包まれたホームからは、駅の周囲の様子が一望できた。まだ夜明け前の暗い青色に染まっているものの、線路の向こうには見渡す限りの田園が広がっている。駅の近くこそ何軒かの家や建物が連なっているが、その向こうにある田園の間には倉庫のような建物がまばらに存在しているだけだ。遠くには、まだ陽の光を受けず影に包まれた山々が連なり、朝焼け前の空にシルエットを映していた。

 ホテルまで徒歩一時間二十分かかるというのも納得できる様相だ。

 さすがにあの硬い木製のベンチに座ったままの体勢ではまったく寝た気がせず、正直、瞼が重たい。それに、身体のあちこちの筋肉がずきずきと痛む。もう一度、大きく背伸びをして、眠気を追い出そうと声を出してあくびをしてみても、意識はぼんやりとしたままだった。

 それでも、気分は悪くない。頬を撫でる冷たい空気に、心地良さすら感じた。まだふわふわと夢を見ているような感覚が残っている。暗い気持ちではなく、明るい空の下で白い雲の上に身をゆだねているような気分。

 少し目を閉じたら思い浮かぶのは、優子の顔。

 昨日の夜、膝の上で優子が見せた、心底安心したような表情。

 未来のことなんて誰にもわからない。不安は完全に消えたわけじゃない。けど、少なくとも今は、私も優子も、前を向いて歩いていけるような気がする。そんな実感が少しずつ頭の中に染み渡っていく。

 駅前にあった自販機でホットココアを二つ買い、駅舎の中へと戻る。起きたばかりで髪をぼさぼさにした優子がベンチに座っていて、ちょうど両腕を天井に向かって伸ばしているところだった。

「んー、今何時〜?」

「六時前。もうちょっとしたら電車来るよ」

 ホットココアを優子にひとつ渡して、横に座る。暖かいココアを二、三口飲むと、頭に糖分がまわり、徐々に意識が明晰になっていく。優子も同じようで、さっきよりも少しだけ瞼が開いているように見えた。

「昨日、話してたこと」

 優子が言う。

「私が三年後に会いに行くって話?」

 私が言うと、優子ははっとして膝を叩いた。

「せやせや、その話!」

「待って、まさか覚えてなかったの?」

「いや、ちゃうよ、覚えてた覚えてた」

 たしかにあの話をした時は、優子は相当眠そうだったけれども、まさか一世一代の決意表明を覚えていないなんて、さすがにショックだ。

「ひどいよ、優子」

「ごめんて」

 あまり悪気が無さそうに優子が言う。優子が小さくあくびをすると、続けざまに優子のお中から小さな虫の音が聞こえた。

「お腹空いたなぁ」

 私の話なんて数秒で忘れてしまったであろう優子から、人間の三大欲求に忠実な発言が零れ落ちる。

「ここからあと三十分くらいしたら、コンビニがある駅に着けるはずだから、それまで我慢ね」

「はぁい」

 ココアを飲み切って、列車が来る数分前に、私たちは一夜を明かした駅舎を後にする。山の向こうから本格的に太陽が姿を見せ始め、ホームに差し込む橙色の閃光に、私も優子も目を細めた。

「朝ご飯食べた後はどうするん?」

 優子が聞く。

 何もない。私の頭の中はクリアで、からっぽで、何も考えなんて無かった。

 だから、そのままその答えを優子にぶつけてみる。

「さあ。行けるだけ行ってみる?」

 私が言うと、優子は物珍しそうに私を見た。

「紗弥がそんなん言うなんて……」

「悪い?」

「わるくなーい」

 なぜか優子は嬉しそうに笑って、私もつられて口角が上がった。

 蜘蛛の巣にまみれたスピーカから、列車が到着する旨の自動アナウンスが流れ、申し訳程度のブザー音が列車が近づいてくることを警告する。気づいたら私と優子は手をつないで、線路の向こうからやってくるディーゼルカーに目を凝らしていた。

「三年かぁ」

「ちゃんと待っててよね」

「待つに決まってるやん」

 プラットホームに二両編成のディーゼルカーが滑り込んできて、私たちの目の前でドアが開く。

「まだここは、うちらの線路の途中駅、やろ?」

 得意げにそう言った優子は、私よりも一足先に列車の中へと乗り込み、私のほうへ手を伸ばした。

「優子も好きじゃん、人生を列車に例えるの」

「誰かさんのがうつったんやろなあ」

 私も優子の手を取って、まぶしい朝陽に包まれた列車の中へと足を踏み入れた。優子の手のぬくもりと、車内の暖かい空気に体が包まれる。手をつないで硬いボックスシートに座り、窓の外の光に目を細める優子の横顔を見つめる。

 やがてドアが閉まり、私たち二人だけを乗せたディーゼルカーが鈍い音を立てながら動き出し、外の景色が流れ始める。駅舎が見えなくなり、太陽が高くなり、田園風景から森の中、あるいは住宅街へと、景色がどんどん移り変わっていく。大きな駅に近づくにつれて、列車に乗りこんでくる人も増えていき、さっきまでの非日常感が薄れていく。

 線路の繋ぎ目を越えていく心地良い揺れと、私の肩に頭を預ける優子の可愛らしい寝息に釣られて、私の瞼も重たくなっていった。

 それでも、私たちはずっと、手を繋ぎあって離さなかった。

 いつまでもずっと、手を繋ぎ続けていた。 

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夜明けの行き先 ななゆき @7snowrin

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