3 - 終電
優子は小さくあくびをして、両目をごしごしと手で擦った。
「眠たいの?」
「ねむくない」
優子はそう言いながらも、私の膝の上に置いてあった鞄をおろし、横になって私の膝に頭を置いた。それまでずっと優子の横顔を見ていたのが、仰向けに寝転がる優子の顔を見下ろす形になる。
「言ってることとやってることが違う」
勝手に膝枕させられた私が言うと、優子は小さな声で、うるさい、と言って私の頬を軽くつまんだ。
優子は何度か私の頬をむにむにとつまんだあとに手を広げて、私の頬に手のひらを当てた。
「寝たくないよ、一緒におるのに」
優子はそう言うと、とろんと溶けそうな瞳で私をじっと見つめる。
「一秒でも長く、紗弥と一緒にいたいんやもん」
言い方が駄々をこねる子供のようで、思わず笑ってしまった。何がおもろいん、と不満げに言う優子のあたたかい手に、私は自分の手を重ねる。
「私だって、一緒にいたいよ」
少しずつ増していく眠気に瞼が重くなっているのか、優子はますます子供みたいな顔つきになっていく。
私を見る瞳の中に、私よりもずっと大きな不安が渦巻いているのが見えた。そんな優子をどうにか安心させたくて、私は彼女の左手を握る。指を絡めると、優子の愛おしいくらいにあたたかい体温を感じる。優子が無理に笑おうとして口角を上げるのが、かえって私の心をちくりと痛めつけた。
私は優子の身体を包み込むように上体を下ろして、何かに引き寄せられるように静かに唇を重ねた。
優子の柔らかい唇の感触と、さっきの電車で優子が食べていたクリームパンの微かな甘みを感じながら、優子に求められるがまま、甘噛みするように唇を動かして、お互いの熱を確かめ合う。その後、りんごのように赤くなった優子の頬にキスをすると、優子は恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「なんでなん」
優子が、眠たげながらも抗議の声を上げる。
「なんでわかるん、うちのこと」
「わかるよ。優子、全部顔に出るから」
私がからかうと、優子は不満げに私の膝をぱしんと叩いた。
普段は天真爛漫、自由気ままで、不安も悩みも無いような顔をするくせに、心の奥底では、私なんかよりもずっと、悩んで、不安がって、それでも、人前で弱みを見せないように我慢している。
誰かが悲しい顔をするなら自分が励ます。
誰かが不安になっているなら自分が支えになる。
誰かが何か悩んでいるなら自分が背中を押す。
つねに誰かのことを優先して、自分の弱音は二の次にする。
それが、優子の本当の姿。
そして、そんな優子が時々見せる弱さは、きっと私しか知らない。
「ねえ、私、決めた」
優子の瞼が閉じ切る前に、私は話を切り出す。
「三年経ったら、優子のところに行く」
優子の瞼が、大きく開いた。
「どゆこと?」
「独立できれば、別に東京にこだわる必要は無いから。三年かけて、独り立ちできるスキルと知識を身につけて、優子のところに行く」
優子は目をしばたたかせて私を見た。
「私の仕事、場所を選ばないでしょ。そしたら、優子と一緒に大阪で暮らすの。家のことはある程度任せてくれていいし、朝も夜も、毎日一緒に居られる。素敵だと思わない?」
自分でも驚くほど意識は明晰で、無意識に、けれどもはっきりと言いたいことを全て言い切っていた。
ずっと考えてはいたけど、この提案を優子に言うのは初めてだった。こうやって面と向かって伝えられるほど、自分の考えに自信が無かった。三年なんて長い間、頑張っていられるかもわからない。途中で挫折してしまうかもしれないし、そもそも三年もの間、優子が待っていてくれるかもわからない。そんなに待てないよ、なんて言われたら……そう考えると、伝えることが憚られた。
私は内心怯えながら、優子の反応を待つ。
しばらくして、優子は、そっかあ、とだけ言い、寝返りをうって私とは反対のほうへ顔を向けた。それは予想していたどの反応とも違って、私は思わず動揺した。
「反応、薄くない?」
「えー、嬉しいよお」
よく見ると、優子の耳がかすかに赤くなっていることに気付く。
「なんか、いかにも紗弥らしいなあって」
そう言って、優子は黙り込む。
ほどなくして、優子の肩がゆっくりと上下し、心地良さそうな寝息が聞こえ始めた。
本当に子供みたい。来年から社会人になるなんて思えない。そう言うと、きっと優子はまた怒るのだろう。
私は赤くなったままの優子の耳元に唇を近づける。
おやすみ、優子。
心の中でそう呟く。
優子の体に手を当てると、春コート越しなのにとてもあたたかい。手のひらからまるで何かが伝染したかのように急な眠気に襲われて、私は大きなあくびをした。
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