ひたひたと

 私たちは、妻の友人に「そういうもの」が見えるという人を紹介してもらいました。


 痩せたその若い女性は、家のなかを案内する私たちに続き、入念に家のなかを見回りました。


 その女性がいる間、不思議なことに足音は聞こえませんでした。


「この家には、何かがいるようです」


 見える女性は、家を出てから私たちに言いました。


「私に見えたのは、小さな女の子のようなものでした。私から逃げるようにずっと歩き回っていて、後ろ姿しか見えませんでしたが」


「悪いものなのでしょうか」


 妻の質問に、見える女性は顔をしかめます。


「私にはそこまで分かりません。ですが、お話を聞くと早く引っ越すか、お祓いを受けた方がいいと思います」


 見える女性が去ってから、私はその場で溜息を吐きました。


「あまり役に立たなかったな。何かいるなんて、私でも分かることだ」


 ただ、何者かの正体は少し分かったようです。

 小さな女の子。


 見える女性の言ったことは、その恐ろしさからは想像できない表現でした。


「どうした?」


 何かを考えるようにずっと俯いていた妻へと問いかけます。すると、妻は驚くようなことを口にしました。


「あの子かもしれない」


 あの子。妻が言っているのが誰のことか、私にはすぐに分かりました。


 私たちには子どもがいました。生きていれば、九歳になる女の子でした。

 その娘が交通事故で亡くなったのが半年ほど前。その苦痛に耐えきれず、その過去を忘れるために前の家を捨てたのです。


「この町には、どこに行ってもあの子の思い出が染みついている」


 その妻の一言が、わざわざ住む町を変えてまで遠い練馬まで引っ越した理由でもあります。


「あの子が、ついてきちゃったのかもしれない」


「だけど……、あの子が私たちを苦しめるようなことをするもんか」


「あの子は、ただ遊んでいるだけだったんじゃないかな」


 さすがに、妻の言うことに同意することはできませんでした。


 ですが、思い返してみると確かに起こっていることは、子どもの悪戯や癇癪のように思えなくもありません。

 あの足音も、私たちに気付いてほしいあの子の気持ちの表れなのでしょうか。


 すぐには納得しかねる想像ですが、何となく今までの出来事に説明がつく気がしないでもありません。


 黙ったまま私たちが家に入ると、あの足音が聞こえてきました。


「ねえ、あなたなの?」


 妻が問いかけると足音が止まり、どこかへと遠ざかっていきました。


 あの足音があの子のものか判然としませんが、少なくとも妻の気持ちは軽くなったようです。あの子だと信じる妻には笑顔が増え、疲れ切っていた顔にも生気が戻ってきました。


 明るくなった妻を見て、自然と私の心も明るくなりました。


 私が家にいる時間も増え、いつしか足音も気にならなくなりました。相変わらず物が落ちることもありますが、そんなときはあの子が構ってもらえない癇癪を起こしたのだと思うようになりました。


 いつからか、私も足音があの子のものだと受け入れられるようになっていたのです。


「あの子のために模様替えをしようと思うの」


 会社に行く私へと鞄を渡しながら、妻がそう言いました。


 家の一室は物置のようになっており、そこにはあの子の思い出の荷物が置かれたままになっていました。


 荷解きをしようとするとあの子のことを思い出し、何となく手つかずになっていたのです。


「いいんじゃないかな」


「あなたが帰ってくる前にはすませておくから、楽しみにね」


「ああ。じゃあ、行ってくる」


 その言葉は、妻にだけ言ったものではなかったかもしれません。






 ……夜になって仕事を終えた私は、家に着くなり不安を覚えました。


 いつもはカーテンに透けてリビングの明かりが庭からでも見えるのですが、その日は明かりがついていなかったのです。

 落ち着かない気分で家に入ると、照明が消えていて真っ暗でした。


「おい、どうかしたのか?」


 靴を脱ぎながら手探りで玄関の照明をつけると、信じられない光景が映ります。

 玄関に続く廊下には物が散乱し、ぐちゃぐちゃになっていました。


「どこにいるんだ?」


 廊下を進みながらよく見てみると、散らばっているのはあの子の荷物でした。あの子が使っていた教科書は千切ってまき散らされ、服は破られて捨てられています。

 恐る恐るリビングの照明をつけると、ソファに座った妻の姿があり、私は慌てて駆け寄りました。


「大丈夫か⁉」


 妻は放心状態で、どこを見ているのかも分かりません。


 妻の足元には、あの子の好きだった犬のぬいぐるみが壊され、内臓のように腹から綿を零したまま転がっています。

 妻は右手を怪我していて、血で赤く濡れた部分を左手で押さえながら震えていました。


「おい、どうしたんだ⁉ おい!」


 肩を揺さぶって声をかけると、ようやく妻が私に気付いたようでした。


「……こじゃ……った」


「な、なに? なんだって⁉」


「あの子じゃなかった……」


 妻の言葉の意味を理解し、急に背筋が冷たくなりました。


「ひっ」


 私の後ろの方を見た妻が両目を見開き、小さな悲鳴を漏らします。

 そのとき、私の背後からあの足音が近づいてきたのでした。


 ひた、ひた、と。

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ひたひたと 小柄宗 @syukitada

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