いつといわず、どこからともなく

 引っ越してきた初日から、その足音は毎日続きました。


 ひた、ひた、と。裸足で歩くような足音は、昼夜を問わず聞こえてきたのです。


 夜中にふと目を覚ますと寝室のドアの奥から、ひた、ひた。

 休日にリビングで寛いでいると隣の部屋から、ひた、ひた。


 その足音は私たちが気のせいだと思いたがって無視しているのをいいことに、だんだんと時間を選ばず、そして聞こえる音も大きくなっていきました。


 私はその音を聞くのが嫌になり、よく残業するようになりました。休日でも家を出ている時間が増え、妻と過ごすことが少なくなっていました。


 家にいる時間の長い妻は、目に見えて憔悴しているようでした。頬はやつれ、隈が濃く目元に浮いています。元々顔立ちが整っていただけに、その豹変ぶりは憐れなものがありました。


 ですが、私はあの足音と同じように妻の変化を無視するしかできませんでした。


 いい歳をした男が、この家には目には見えない何かがいる、などという世迷言を口にするわけにはいかなかったのです。


 心がささくれ立ち、妻との言い合いも多くなっていました。


「あなたはいつも家にいてくれないじゃない!」


「仕事があるんだからしょうがないだろう!」


「休みの日はどうなの⁉ いつも一人で出かけて……」


「休みの日にどう過ごそうが勝手だ!」


「家にいたくないんでしょう⁉ だって! だって……」


 妻は言葉を詰まらせて床に崩れ落ちると、顔を覆ってすすり泣きだしました。


 その光景を見た私は、やっと自身の過ちに気付きました。

 妻のためにこの家を買ったのに、そのせいで妻を苦しませては本末転倒です。


 私は慌てて妻の肩を抱いて寄り添いました。


「悪かった。ごめんよ」


「ねえ……」


 妻が赤らんだ目で私を見つめてきます。


「やっぱり……この家には、わたしたち以外に何かがいるよ」


 私はその言葉を聞いて頷きました。


「そうだな。この家には、何かがいるんだ」


 そう言って妻を支えながら立ち上がった瞬間、二階から激しい音が鳴り響きました。


 二人で慌てて二階へと上がり、音の聞こえた寝室に入ると、ベッドの横に置いてあった電気スタンドが床に落ちて壊れていました。


 寝室で身を竦めていた私の耳に、音が聞こえます。


 ひた、ひた、と私たちが先ほど通った寝室に面する廊下から、あの足音が聞こえてきたのでした。


 その日を境に怪異は激しくなっていきました。


 足音が聞こえた後には、フローリングの床に小さな足跡が残されるようになりました。


 あるときは平然と、足音が何度も私の周りを回ることさえあったのです。


 特に足音は妻を狙っているようでした。妻が一人のとき、テレビのリモコンがテーブルから落ちるのは序の口で、本棚から落ちた本が妻の頭に当たったこともあるそうです。


 身の危険すら感じた私たちは、足音の主をどうにかしなければならないと考えました。引っ越しをするにも、そうすぐというわけにはいかなかったのです。

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