ひたひたと

小語

足音が聞こえる

「やっぱり……この家には、わたしたち以外に何かがいるよ」


 妻がそう言いだしたとき、私は否定するどころか、ついにこのときが来たか、と思わざるを得ませんでした。

 むしろ私が目を逸らしたがっていた事実を、妻は一緒に正視しようと言ってくれた気がしました。


 そう……。私と妻が住むこの家には、確かに見えない何かが同居しているのです。





 私と妻がこの家に引っ越してきたのは、三ヶ月ほど前のことでした。


 私たち夫婦にとって人生が変わるような出来事があり、妻の心が心配だったのと、私自身もその記憶を薄れさせたいがために新天地へ引っ越してきたのです。


 以前住んでいたのは、将来を考えて都心のそれなりに大きいマンションでしたが、新居に選んだのは練馬区の小ぢんまりした一戸建てでした。


 当初は都会っ子の妻が、埼玉県との境にある都内とは思えないほど緑の多い町に慣れるのか不安でした。それも私の杞憂だったようで、妻は団地や戸建てが立つ住宅街を目にし、「暮らしやすそうな町ね」と笑顔を見せていました。


 精神的に疲れ切っていた私も、田舎を思い出すこの緑に囲まれた町を気に入りました。


 新居は小さくても二階建てで、小さな庭もありますし、そこで妻が菜園もできるからというのが決め手です。


 隣の団地に植えられている高い樹木が陰を差すのが難で、家に入ると内覧のときよりも室内が薄暗く感じましたが、それを除けば住みやすそうな家でした。


 ……初めは、気にするほどのことも無い異変だったのです。


 夜になっても荷物の片づけは終わらず、段ボール箱が幾つも置かれて雑然としたダイニングキッチンで夕食を取っていたときです。


 廊下に面するドアの奥から、ひた、ひた、と音が聞こえてきました。まるで、小柄な人間が裸足で廊下を歩くような音です。


 気のせいかとも思いましたが、その音は廊下を何度も往復するように大きくなったり小さくなったりするのです。


「ねえ、何か聞こえない?」


 妻も無視できなくなったようで、ドアへと視線を向けながら言います。


「気のせいだろう」


 意識的に大きな声で言った私は、立ってドアを開けました。そこには誰もおらず、廊下のフローリングが照明を反射するだけです。


「ほら。引っ越しで疲れているから空耳でも聞こえたんだよ」


 自分に言い聞かせるように私が言うと、妻は不安げに頷きます。


「そう。まさかネズミじゃないよね」


「そうかもなあ」


 笑いながら私はドアを閉めて食事に戻りました。


 ただのネズミだったら、どんなによかったことか……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る