後編
鍵を落としたとするなら展望台だ。ウエストポーチからタバコを出した時に引っかけて落としたんだろう。
今更戻ることなんてできない。だが、歩いて帰ることもできない。どうしたものか。
ふと、俺は気付いた。そうだ、鍵を入れたのはポケットではない。ウエストポーチだと。
ウエストポーチの中をあさる。中に入っているのは、財布とタバコ、そしてライター。
冷たい金属の感触が手に伝わった。取り出して、手の平に乗せる。あった。バイクの鍵だ。
なんて間抜けなんだ俺は。その時の俺は、なんだか気が抜けてしまって、声に出して笑いながら天井を仰いだ。
その時、見た。
瘦せこけた女の、青白い顔。半開きの口。汚らしいボサボサの茶色い髪。
生気のない目で、俺を見下ろしていた。
おかしいだろ。
確かにトイレは空だった。誰もいなかった。だから俺はトイレに飛び込んだんだ。
目の前には、首を吊った女がいる。女の足を伝って、汚物が便器に滴り落ちている。
それは、生気のない目を俺に向け、半開きの口を僅かに動かし、俺に向かって問いかけた。
「息子を、見かけませんでしたか……?」
動けない。
俺は、ビビッて体が動かなくなって、唖然と女を見ているしかできない。
「息子を……見かけませんでしたかぁ……?」
限界だった。
「うわあああぁぁぁあああ!!!」
俺は絶叫した。絶叫しながらドアを開けようと、振り返って滅茶苦茶に叩きまくった。
内鍵をかけたんだ。叩いたところで開くはずがない。パニックになったら、そんな簡単なことさえ頭から抜け落ちるんだ。
背後で縄が軋む音がする。
ごとりと鈍い音がする。
「息子をみかけませんでしたかぁ?
教えてくださいィぃ。
息子を、見かけませンでしたかぁ?」
俺は恐怖の絶頂の中、ようやくドアの内鍵を閉めたことを思い出す。内鍵を開け、体当たりするように飛び出した。
それからはもう無我夢中だった。振り返ることもせず、バイクまで全速力で走っていき、鍵を回す。
すんなりとエンジンがかかった。俺はフルフェイスのヘルメットをかぶり、バイクにまたがって走り出した。
カーブの多い、狭い下り坂だった。だが俺は一刻も早く逃げたくて、ギリギリまでスピードを上げた。
カーブが曲がれるギリギリの速度だ。だから、かなりスピードが出ていたはずだ。何キロ出したか覚えちゃいねぇ。
バイクを走らせて暫くは、あの「息子を見かけませんでしたか」という声が耳にこびりついていたが、走っているうちに聞こえなくなった。展望台から離れたおかげだろう。俺は安堵のため息をつく。
速度を確かめようと、メーターに視線を落とす。
「うわあぁぁぁ!!!」
俺の腹に、青い顔をした男の子がしがみついていた。
男の子は、無表情な顔で俺を見上げる。そして、ニマァと、意地の悪い笑い方をした。
俺はあまりの恐怖で手元が狂った。
カーブが目の前に迫る。急ハンドルを切り、タイヤが横滑りする。ゴムが擦れる甲高い音がする。
俺の手はバイクから離れ、バイクはカーブの外側に投げ出される。
俺は山道に体を擦りつけるようにして転んだ。アスファルトに腕を、脚を打ち付けて、痛みに悶絶する。
間髪入れず、轟音が辺りに響いた。
バイクがガードレールに激突したのだ。
俺は暫く立てなかった。痛みのせいだ。
くそ痛くて仕方なかったが、幸い軽い怪我で済んだようだった。俺は数分ほど悶絶した後に、ゆっくりと立ち上がる。脚を引きずってバイクの方へと駆け寄った。
ガードレールは酷く歪み、バイクは崖下に転がっていた。故障状況はわからないが、もし使えたとしても、取りに行くことなんてできない。
俺は大きくため息をついた。まさか、愛用のバイクが落ちてしまうとは。それに、ここから歩いて帰るだなんて、何時間かかるんだかわからなくて絶望した。
辺りを見回す。
男の子はいなくなっていた。
一瞬でいなくなるなんて有り得ねぇ。だとしたら、あいつは幽霊の
「まさか、あの女が言ってた息子ってのは……」
俺は呟く。
その時だ。
「息子を見かけませんでしたかぁ?」
再び、女の声が聞こえた。俺はぶるりと体を震わせる。
よせばいいのに、俺は振り返ってそれを見た。
青白い、茶髪の女。
女はやけに首が長かった。そして、口を半開きにしていた。
まるで、首を吊った後のように。
「息子を、見かけたンでしょう?」
女は、真っ黒な眼窩を細めて、ニヤリと笑った。
そのあとのことを、俺はよく覚えていない。
逃げ帰ったんだと思う。気付いたら、息を切らして自宅の玄関にへたりこんでいた。
十数年経った今、あの時のことは夢だったのだろうと思っている。心霊スポットに行ってみたいという願望が、そういう悪夢を見せたのではないかと。
だが、その時事故った傷跡は、今でも俺の手足に残っているし、愛用のバイクはなくしたまま見つからない。
今でも、Hヶ峰に行けば、俺のバイクは残っているかもしれない。
だが、俺はあれからHヶ峰に行けなくなってしまった。
――――――――
『Hヶ峰にて』
Hヶ峰にて LeeArgent @LeeArgent
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